2020-01-01から1年間の記事一覧

In a cat's eye, all things belong to cats

ダイソンの扇風機の長い段ボールの中が、最近の猫の遊び場だ。 細が、途中に丸い穴を2つあけた。その穴に手を入れると、猫が中から前足を出してじゃれたり、噛みついてくる。猫にとって、いい運動のようだ。梅雨時、猫に付き合うこちらも汗だくになる。 コ…

富士山と琵琶湖の容積対決

梅雨入りして1週間たった。最近の五月雨は、だらだら降るというより、集中豪雨のような強い降りがあって、油断ならなくなった。 湖へ富士をもどすやさつき雨 与謝蕪村にこんな句があって、蕪村は、富士山を崩すような激しい五月雨を描いている。 湖は琵琶湖…

富士山頂で野球を企画した人物

大正8年、喜田貞吉が新雑誌「民族と歴史」の発行に乗り出し、今まで熱心に編集に携った「歴史地理」から距離をとった時から、「歴史地理」の表紙も変化した。 MTのサインの表紙から、まったく作風の違ったものに変わった。翌9年7月号の特集「富士山号」が…

パデレフスキの決意

森田恒友、山本鼎がパリで、山田潤二がベルリンで、ドイツの宣戦布告を聞いた1914年8月1日、フランス国境に近いスイスのモルジュに、これまで幾度か触れてきた53歳のポーランドのピアニスト・パデレフスキが滞在していた。(写真はモルジェの邸宅と…

宣戦布告日の伯林と巴里

大正3年6月10日、画家森田恒友がパリに到着して、50日ほど経ったとき、ドイツが宣戦布告。フランスは第一次世界大戦に突入する。パリで仲間の画家たちと連日美術館、展覧会を巡り、先輩画家の山本鼎と郊外の短期旅行に出て、最初の1か月を過ごした森…

恒友の巴里通信

古本店で見つけた歌誌「多摩」をきっかけに、美術家としての北原白秋に興味を持ったが、調べてみると、版画美術に情熱を燃やす「方寸」の若き集団と、明治末から大正時代にかけて、強いつながりがあったことが分かった。 スバル系の詩人と美術家が交流した明…

幻に終わったセーヌ河岸の共同生活

猫が騒いで、本棚の天辺から物を落とす。紙箱が落ちて、マッチが散乱した。懐かしいものが沢山出てきた。 金色と茶のマッチは、ただ一度だけ訪問したパリ宿泊先ホテルの思い出深いものだ。ホテル創立100年にあたる1978年だったのだな。42年も経って…

パリから白秋への激励はがき

画家の森田恒友がパリに到着した大正3年、第一次世界大戦が勃発した。戦時下のパリでは、親友の画家山本鼎が待ち構えていた。版画同人誌「方寸」の仲間たちは、石井柏亭を皮切りに、次々に留学したが、森田はとんでもない時期の渡欧となった。 この時山本は…

床屋談義とネアンデルタール人の髪型

事務所を抜け出して、近所の床屋へ行く。田村隆一の夏の詩に、床屋の出てくるのがあって、伸びた髪と一緒に不眠症も刈り取る、といった一節があったような気がする。寝不足退治もかねてドアを開けた。 担当してくれるのが、3人のうち気まじめな男性店員だっ…

其角の命拾いと大野秀和

薄田泣菫のエッセイはやはり面白い。大正時代の人物や時代の空気が伝わってくるからということもあるが、関心を持っている人物が近いということもある。 好きな元禄の俳人、宝井其角も泣菫の「茶話」に登場する。「36計逃げるに如かず」のエピソードを持つ…

森田恒友と喜田貞吉をつなぐ薄田泣菫

明治末から大正、昭和初期と、歴史家喜田貞吉が編集で腕をふるった学術誌「歴史地理」の表紙やカットを、画家で版画家の森田恒友が担当していたのではないか。その仮説で、何年も書いてきた。 森田らが創刊した版画誌「方寸」掲載作など森田の初期の作品に、…

幸徳事件と虚子

明治43年の幸徳事件は、初等教育用歴史教科書の文部省担当官の喜田貞吉ばかりか、俳句誌「ホトトギス」の主宰高浜虚子にも大きな転機を齎したのを、最近知った。 同誌から生まれた作家夏目漱石のように、小説家を目指し作品を発表していた虚子は、同年「ホト…

コロナとニュートン

先輩からGWの前にがあり、「水戸黄門の現役時代、ロンドンはペストで閉鎖された。ケンブリッジ大のひねくれ学生が、ロンドンを脱出し田舎で18か月過ごすことになった。その間、学生はぼんやり庭でリンゴの実が落ちるのを見て、万有引力の発見をした。数学…

喜田貞吉の旅行記で描かれた那珂通世

南北朝正閏問題が起きる6年前の明治38年5月に、三宅米吉と喜田貞吉は清国への視察旅行で同行している。日露戦争中の陸軍招待によるもので、東京師範学校幹部ら一行は日本海海戦のさなかに出発した。一行は 嘉納治五郎 高等師範校長 当時 44歳 那珂通世 〃 …

喜田貞吉と米吉祝賀会

ここまで書いてきた三宅米吉のことは、多くの歴史家、教育学者らの記述がもとになっていて、新史料があるわけでないのが、心苦しい。ただ、長年断続的に、米吉のことを考えてきて、「三浦安」を補助線にすると、別のことが見えてくるのではないか、という思…

三宅米吉の金港堂時代

大英博物館へは、一度だけ訪ねたことがある。小学校の息子が夏休み、BBCに勤めていた知人宅で預かってもらったのを、迎えに行った時だ。すでに息子は知人家族と博物館に見物に行っていたが、幸いエジプトの遺宝を見に、もう一度行きたがった。 明治時代、…

三宅米吉の留学まで

やがて、東京文理大学長、東京高等師範学校長になる三宅米吉は、学校教育を受けたのは、わずか、紀州藩の藩校学習館の数年間と、13歳からの慶應義塾の3年間だけだった。いまで考えると、高校中退だった。 昭和4年の米吉の古希祝賀会で、元文相鎌田栄吉(当…

重野安繹の後輩だった三浦安

三浦休太郎(1829-1910)は、王政復古の後、安(やすし)に改名する。39歳だった。 明治5年 大蔵省7等官 明治6年 左院4等議官 明治7年 地方官会議御用掛 明治8年 内務省5等官 明治9年 内務省大丞 図書局長 5年目で大丞になる。内務省のナンバー…

三宅米吉と三浦休太郎

歴史学者白鳥庫吉の千葉中学校時代の先生で、一緒に伝通院境内で起居をともにした歴史学者三宅米吉について、しばらく追ってみることにする。 三宅の身近に、明治時代の修史行政に携わった官僚の大物・三浦安(旧名・休太郎)がいたので、どういうつながりが…

オリエンタリカと白鳥庫吉論文

手元に、昭和23年8月発行の、「オリエンタリカ創刊号」がある。184頁もある、東京大学の東洋史学会編集の同誌は、錚々たる学者が力を込めて書いた論文が詰まっていて壮観でさえある。 戦後の東洋史のスタートを切る象徴的なこの学術誌は、しかし、東洋…

素晴らしきセーヌの河岸キョロ

東洋史学の大御所白鳥庫吉氏のパリ時代を、もう少し探ってみたいと思い「白鳥庫吉全集全10巻」を調べてみることにした。わが部屋には第1巻、2巻しかないが、どうやら10巻「雑纂他」に「ヨーロッパ通信(書簡)」があるのを知った。 コロナ禍で図書館は休み。古…

パンテオン会の「河岸きょろ」

随分前、歴史学者の三宅米吉の足跡を追って、米吉が22歳当時住んでいた小石川の伝通院境内へ貞照庵を探しに家族で尋ねたことがある。 貞照庵は跡形もなかった。 伝通院の墓地をめぐると、紫煙がもうもうと立ち上っている墓が2つあり、一つは幕末の志士清河…

早朝散歩と「犬の樹」

運動不足になっているので、天気が良ければ午前6時前後、川沿いの道を隣駅近くまで歩いて、戻ってくる散歩をしている。親子、夫婦連れでジョギングする人も、結構多い。 川岸の桜並木は花が散ってしまったが、ハナミズキの並木は咲き誇っていて、目を楽しま…

白秋の「群蝶の舞」

「多磨」は、白秋没後11年経って、終刊(昭和28年)となる。没後、編集人の名義は妻のキク(菊子)だが、編集担当は中村正爾、木俣修らの歌人が代わって行ったようだ。 昭和23年の1月号からは、木俣修から泉甲二に変わったのが、同号の「月報」で分かる。「…

白秋の絵と大正4年「雲母集」

北原白秋の墓は、多磨霊園にある。年2度の細の実家の墓参りで、周りの区画を歩いていて白秋の墓に出くわした。随分と大きな目立つ墓だった。 白秋は晩年、杉並・阿佐ヶ谷で暮らしていたようだ。白秋が発行していた短歌雑誌「多磨」。Y書房で手に入れた「多…

神保町散策と白秋の美術

神田神保町界隈を散策する。コロナ騒動の見舞いがてら、古本店Yに顔を出す。若きご主人は、「もう、土日は正月のようですね」という。近くの高層ビルで働く連中もテレワークで、通勤しなくなったよし。確かに人影はまばら。商売の方は?「ネット販売で凌い…

大正期「民族と歴史」の三越広告

ささやかながら手持ちの歴史、考古学系の学術雑誌の広告を調べてみた。 裏表紙の広告は、書籍の広告が大半だったが、4冊だけ違うものがあった。 「歴史地理」大正6年8月 大日本麦酒(株) 「民族と歴史」大正9年12月 三越呉服店 大正11年4月 三越呉…

考古界とライオン歯磨

旗を持って立っているライオンのイラスト。明治34年(1901)の「考古界」の裏表紙に、ライオン歯磨の広告が掲載されていた。 ライオンといわれればライオンだが、ライオンらしからぬライオンの姿だ。日本の動物園でライオンが飼育されたのは、上野の恩賜動物…

明治34年の「考古界」

前に触れた明治時代の考古学、人類学の学者若林勝邦氏、坪井正五郎氏らの当時の活動ぶりを知りたくて、明治34年に発行された学術誌「考古界」を古本店から取り寄せた。 同誌は明治28年に設立された「考古学会」の機関誌。設立に奔走した若林氏、三宅米吉…

栗山竹の花について

小泉迂外の作品が掲載されていた俳句雑誌「やまと」(昭和10年1月号)は、栗山竹の花という俳人が主宰、発行人となっている。 正直、この竹の花という人物がよく分からない。発行所の住所が駒込肴町(現・文京区向丘)で、道の向いに天ぷら屋「天安」があ…