三宅米吉

薬師寺東塔に登った屋代弘賢

相輪の伏鉢の銅板銘を確認するため、命綱をつけて寛永寺五重塔の屋根に上った浦井正明寛永寺執事長の話を前に書いたが、江戸時代寛政年間に、相輪下部の銘文を観察するために大和の薬師寺東塔の屋根に果敢に登った国学者がいた。 私は、今頃になってそのこと…

清張「断碑」へのいらだち

なんで、森本六爾について、むきになって書いているのか。自分でも考えてみた。 おそらく、森本のモデル小説「断碑」を書いた松本清張によって作られたイメージにいら立ちを覚えるからだろう。 「当時の考古学者は誰も木村卓治(森本)の言うことなど相手に…

紫の風呂敷包を持ち運んだ六爾

歴史学者であった三宅米吉は、大正8年から5年間、東京高等師範学校の学校挙げての騒ぎの渦中にいた。 同年一橋大の前身、東京高等商業学校が、いち早く中橋文相の許可で大学昇格(東京商科大)が決まったためだった。蔵前にあった高等工業高校(現東工大)…

森本六爾の颯爽デビュー

昭和2年の「研究評論 歴史教育」に掲載された東京高等師範教授中村久四郎と森本六爾の共著の広告を見てみると、 中村の肩書は「東京高師教授 史料編纂官」 森本の肩書は「東京高師歴史教室」となっている。ともに「先生」と書かれている。 三宅米吉東京高等…

四海書房と「考古学研究」

神保町のY書房で「研究評論 歴史教育」という学術誌を見つけた。昭和2年7月号と9月号で、この中に、森本六爾編輯の「考古学研究」創刊号の広告が掲載されていて、びっくりした。 坪井良平宅を編輯所として立ち上げた「考古学研究」は、「四海書房」という東…

六爾に託した米吉のこと

歴史学者としての三宅米吉について、なお書いておきたいことがある。 今から振り返ると、晩年の大きな役割は、考古学徒の森本六爾を支援して、育てようとした事だったように思う。奈良県磯城郡(桜井市)で生まれ、地元で熱心に研究を進めていた若き森本は、…

喜田貞吉の旅行記で描かれた那珂通世

南北朝正閏問題が起きる6年前の明治38年5月に、三宅米吉と喜田貞吉は清国への視察旅行で同行している。日露戦争中の陸軍招待によるもので、東京師範学校幹部ら一行は日本海海戦のさなかに出発した。一行は 嘉納治五郎 高等師範校長 当時 44歳 那珂通世 〃 …

喜田貞吉と米吉祝賀会

ここまで書いてきた三宅米吉のことは、多くの歴史家、教育学者らの記述がもとになっていて、新史料があるわけでないのが、心苦しい。ただ、長年断続的に、米吉のことを考えてきて、「三浦安」を補助線にすると、別のことが見えてくるのではないか、という思…

三宅米吉の金港堂時代

大英博物館へは、一度だけ訪ねたことがある。小学校の息子が夏休み、BBCに勤めていた知人宅で預かってもらったのを、迎えに行った時だ。すでに息子は知人家族と博物館に見物に行っていたが、幸いエジプトの遺宝を見に、もう一度行きたがった。 明治時代、…

三宅米吉の留学まで

やがて、東京文理大学長、東京高等師範学校長になる三宅米吉は、学校教育を受けたのは、わずか、紀州藩の藩校学習館の数年間と、13歳からの慶應義塾の3年間だけだった。いまで考えると、高校中退だった。 昭和4年の米吉の古希祝賀会で、元文相鎌田栄吉(当…

重野安繹の後輩だった三浦安

三浦休太郎(1829-1910)は、王政復古の後、安(やすし)に改名する。39歳だった。 明治5年 大蔵省7等官 明治6年 左院4等議官 明治7年 地方官会議御用掛 明治8年 内務省5等官 明治9年 内務省大丞 図書局長 5年目で大丞になる。内務省のナンバー…

三宅米吉と三浦休太郎

歴史学者白鳥庫吉の千葉中学校時代の先生で、一緒に伝通院境内で起居をともにした歴史学者三宅米吉について、しばらく追ってみることにする。 三宅の身近に、明治時代の修史行政に携わった官僚の大物・三浦安(旧名・休太郎)がいたので、どういうつながりが…

オリエンタリカと白鳥庫吉論文

手元に、昭和23年8月発行の、「オリエンタリカ創刊号」がある。184頁もある、東京大学の東洋史学会編集の同誌は、錚々たる学者が力を込めて書いた論文が詰まっていて壮観でさえある。 戦後の東洋史のスタートを切る象徴的なこの学術誌は、しかし、東洋…

素晴らしきセーヌの河岸キョロ

東洋史学の大御所白鳥庫吉氏のパリ時代を、もう少し探ってみたいと思い「白鳥庫吉全集全10巻」を調べてみることにした。わが部屋には第1巻、2巻しかないが、どうやら10巻「雑纂他」に「ヨーロッパ通信(書簡)」があるのを知った。 コロナ禍で図書館は休み。古…

パンテオン会の「河岸きょろ」

随分前、歴史学者の三宅米吉の足跡を追って、米吉が22歳当時住んでいた小石川の伝通院境内へ貞照庵を探しに家族で尋ねたことがある。 貞照庵は跡形もなかった。 伝通院の墓地をめぐると、紫煙がもうもうと立ち上っている墓が2つあり、一つは幕末の志士清河…

明治34年の「考古界」

前に触れた明治時代の考古学、人類学の学者若林勝邦氏、坪井正五郎氏らの当時の活動ぶりを知りたくて、明治34年に発行された学術誌「考古界」を古本店から取り寄せた。 同誌は明治28年に設立された「考古学会」の機関誌。設立に奔走した若林氏、三宅米吉…

政職氏と考古学者柴田常恵氏の出会い

考古学者の柴田常恵(じょうえ)氏(1877-1954)の残した豊富な写真資料が、国学院大学デジタル・ミュージアムで簡単に見ることができる。北海道から鹿児島、朝鮮、南洋パラオ、中国―フィールドワーク、遺跡発掘調査など貴重な写真資料ばかり。 そ…

古麻呂が持ち帰った四騎獅子狩紋錦3

国宝の法隆寺四騎獅子狩紋錦は、だれが長安から日本に持ち込んだのだろう。 「山」「吉」を、安禄山―吉温を表すという仮説を発展させると、遣唐副使の大伴古麻呂(-757)、という結論になる。 唐玄宗皇帝の在位中、安禄山―吉温が幅をきかせていた短い時…

四騎獅子狩紋錦について2

四騎獅子狩紋錦は、ササン朝ペルシア(226-651)で流行したデザインの流れのひとつ。 ペルシャ文物の多くは、シルクロードの貿易活動を担っていたソグド商人が唐にもたらしたと考えられる。 ▼下の写真 新疆の唐墓で出土したソグド人と思われる木俑(「新疆歴…

法隆寺獅子狩紋錦は安禄山を描いたという仮説1

発熱から立ち直ったもののボンヤリしている。 法隆寺の四騎獅子狩紋錦についてのメモ書きをー。 これまでさんざん触れてきた歴史学者の三宅米吉が、私費留学から帰国した明治21年、文部官僚のトップだった九鬼隆一に従って、和歌山、奈良県で神社仏閣の宝…

森田恒友と大正の「歴史地理」再び

大正時代の学術誌「歴史地理」(大正5年)の表紙や挿絵に、画家で版画家の森田恒友が関わっていたー。と、以前に書いたが、そのまま打っちゃっていた。 翌6年7月の第30巻第1号を手にいれた。森田画伯のものと思しき、同じサインが刷られていた。 同人…

密輸商人OWLERからフクロウ燈籠まで

スチュワート先生は英に一時帰国した際、初めてグレートブリテン島の西南端をまわったという。デヴォン、コーンウォール両カウンティ。奥まった入り江に18、19世紀に密輸で栄えた隠れ港がある。ブランディー、羊毛などべらぼうに高い関税をかいくぐり、…

古い湯島聖堂の写真を見てみた

湯島聖堂の続き。 「三宅米吉著述集・上」収録の「聖堂畧志」に、湯島聖堂大成殿の写真が掲載されていた=上の写真=。 大正期の撮影と思われる。あいにく、屋根の上部はカットされていて、「鬼犾頭」は映っていない。 映っていれば、朱舜水版の動物像と、伊…

初詣の湯島聖堂の奇獣と朱舜水

我が家は10年以上前から、地元での初詣を済ませた後で、お茶の水の湯島聖堂に出かけることが多い。明治の建築家伊東忠太に興味をもって、伊東が関わった建築を回ったのがきっかけだ。今年は長男と2人で出掛けた。当初は参詣者もわずかだったが、最近は「…

明治20年、野ウサギのヒエログリフ

前にも触れたROBERT・K・DOUGLASの「CHINA」という英語の本は、水道橋にあったビブリオ書店で、主人の川村さんから安く譲ってもらったものだ。 1887年、ロンドンで発行されたもので、清朝の風物のイラストが興味深い。文中に、古代エ…

師走だからか、鐘が気になる

近所の寺(真言宗豊山派)は、除夜の鐘を参詣客に自由に撞かせてくれたので、長男を連れて出かけたものだ。力むと、大きな音も、いい音もでないことが分かった。近所に住民がふえてからは、早々と長い列ができ、撞くのはやめにした。 鐘というものは、除夜で…

江戸の美術館だった、回遊式さざえ堂、羅漢堂

「以文会筆記抄」のつづき。 江戸時代の文化年間、京都の趣味人が江戸にでて、本所羅漢寺で「阿蘭陀油絵」をみてきた話を前にかいたけれど、「本所羅漢寺」なら、さもありなん、と思った。 18世紀後半、江戸っ子の好奇心のたかまりから、仏教寺院でも、回…

司馬江漢も京都で不思議話をしていたか

『以文会筆記抄』を読みすすめる。 京都の以文会には、江戸時代の画家・司馬江漢も入洛の際に出席している。 江戸・本所羅漢寺の阿蘭陀油絵について語ったのが、春暁でなく江漢なら面白いのだが、 江漢が京都に滞在したのは、文化9年(1812)の8-10月。11…

1725年、謎のオランダ油絵

江戸時代・文化年間。京都の以文会のメンバーには、高倉六角南に住む松山藩留守居役の金子風竹、洛西西院村の近藤式部、麩屋町六角北の小島濤山などがいた。 みな好事家なりの得意ジャンルがあり、画家の話となれば、メンバーでは、挿絵や伽藍図、俯瞰図など…

応挙の馬の絵、鶏の絵の噂話

石山寺の塔頭の紅葉。今年の紅葉はどうなのだろう。 京都での大正時代の文人の興味深い集まりについて、前に少しふれたが、江戸時代からの伝統らしい。 江戸時代後期の京都で、毎月10日になると、医師や文人が集って知識を交換していたのを知った。 「 以文…