いま調べ出している大正時代の彫塑家今戸精司が、猫の塑像をしばしば手掛けていたことがわかった。
大正3年に、「陶土着色猫」。
亡くなる前年同6年には、「猫の研究」と名づけた素焼7種。ともに大阪三越での「十五日会」の展覧会に出品している。
さらに、没年の大正7年、今戸は第2回大阪府図案及び工芸品展覧会褒賞で14人のうちの1人として金賞を受賞したが、対象となった作品は「眠れる猫」だった。
どこかに写真でも残っていればいいのだが、著色の陶製の猫は、木彫彩色天平美人とともに出品されており、美しい作品であったかと想像される。
7種の猫の研究は、猫の姿態を捉えた動きのある作品でなかったか。死を前に賞を得た、眠れる猫は、おだやかな猫の像だったろうな、といずれも想像するしかない。
39歳で早逝したこの彫塑家は猫好きで、最期の日々を愛猫と過ごしていたのではないだろうか。
画家の森田恒友が東京に去った後の大正2年、今戸は京阪の美術家が三越呉服店を拠点に結集した「十五日会」に参加したことが分かった。「工芸界ノ向上ヲ図ルノ目的ヲ以テ」組織されたもので、意見交換と作品発表を大阪三越で行なうというものだった。
京都から清水六兵衛、河村蜻山、杉林古春、迎田秋悦、西川一草亭
大阪から田中祥雲、天岡均一、今戸精司、大国寿郎
奈良から富岡憲吉
別途、東京から朝倉文夫、香取秀真、建畠大夢
翌大正3年、大阪三越で開催された第6回児童博覧会で、三越から今戸に加藤清正と虎の塑像の制作依頼があった。豊臣秀吉をテーマにした1か月間に亘る催しで、店内に再現された桃山城唐門とともに、会場入り口の左右で入場者を迎える今戸制作の清正、虎の像は「会場に一段の光彩を齎すこと」(「三越4」、1914年)になったという。
今戸が同じネコ科の虎をどう拵えたのか興味深いが、残念ながらこれも資料が見つからない。
「十五日会」のメンバーに猫の作品で知られる人物の名があった。東京から参加した彫刻家の朝倉文夫。猫の像を生涯作り続けたことで知られる。
今戸の確認される猫の作品は大正3年「陶土着色猫」が初めだが、朝倉は明治42年に「吊るされた猫」を制作している。首をつまんだ手とともに作品化された26歳の時の作品だ。同44年には「産後の猫」、大正に入っても羽子板の羽根を追う猫、背伸びをする猫が制作される。
今戸の猫は幻となってしまった。決して劣らない作品だったのだろうが、猫をしのぶすべがない。