万博で7mの像を制作した今戸精司

 引き続き、今戸精司という彫塑家を追ってみる。

 大正時代、大阪でのモダニズムの旗手のひとりだった今戸精司は、じつは明治36年に大阪天王寺で開催された万博、第5回内国勧業博覧会に大作を出品していた。

 万博は、殖産興業を旗印に政府が主催し、153日の会期中、全国13万人の商工業者、芸術家が出展し、530万人が来場した大成功のイベントだった。

 英独仏米露など十数国が参加し、米は8台の自動車を展示。ウーターシュート、エレベータで昇る45mの望塔もお目見えし、夜間開業されライトアップされた大噴水も人気を呼んだという。

 

 今戸は正面本館前に二丈三尺(約6.9m)の楠正成公乗馬像を作ったのだった。話題となったかは分からない。エレベータの望塔(大林高塔)がきっかけになって、天王寺通天閣が作られたほどには、来場者の目に新時代の到来のインパクトがあったとは思えない。

 

 長崎生まれの今戸は、家族とともに仁川、大分と転居。彫塑家を目指し、大阪に出て江戸時代から受け継がれた弘仏師田中主水の工房入りする。さらに、上京し山田鬼斎に学んだあと東京美術学校に入学。同校教授で帝室技芸員高村光雲の門下となった。

 日露戦争が始まると補充兵として召集されたが除隊後、東郷平八郎元帥の肖像を委嘱されている。光雲の門下だったということもあり、22歳にして万博の楠公騎馬像の話が来たのだと推測される。

 しかし、大正時代を迎えると、今戸の作品は一変する。9年後の明治45年「吾八」で森田恒友、織田一麿と展覧会を開催。大阪での大正モダニズムの先頭を走るようになる。スバルの影響を受けた大阪の短歌の新しい波にも合流し、作歌も試みている。仲間の佐竹守一郎が始めた「文芸誌サソラ」(明治45年)にも、森田、織田とともに参加した。同誌には武者小路実篤、有島生馬、河東碧悟桐らが執筆した。

 大阪毎日新聞記者だった伊達俊光によると、今戸からは東京から来る実篤、彫刻家の戸張孤雁らを紹介されたという。戸張は当初は版画家だったが、ロダンに学んだ荻原守衛と出会ってから彫刻をはじめた人物で、風貌も今戸と似ていたと伊達は振り返っている。

 今戸は、高村光雲門下で学んだ際、長男高村光太郎と交流を持っている。東京での新しい創作の気運に触れ、大阪で花開かせようとしたのではないか。明治末に東京から大阪に来ていた「方寸」の版画家森田、織田らを仲間に入れて。

 森田が去った後は、大正3年に開店した道頓堀のカフェ「旗の酒場 キャバレー・ド・パノン」の常連たちと交流をもった。道頓堀川に面した洋風2階建て、ビアズレーの版画が飾られたこの店には、画家や作家が根城にし、足立源一郎、鍋井克之、斎藤与里宇野浩二薄田泣菫、百田宗治、実業家小林一三が集まったという。

 大正7年には、「貧婦」=写真=が院展に入選したが、これからという翌8年に病没する。39歳。

「わが友の今戸精司は色しろくまなこつぶらに骨太かりき」

 高村光太郎は上記の歌を含む追悼の3首を捧げている。

 病気もあって暮らし向きは苦しかったという。

 晩年今戸は、住居の近くの住吉大社で、参詣人のお土産となる「おもと人形」という縁結びの神の人形を考案して制作している。

「不思議に人に愛される人だと今更に思ひました」と実篤が評するこの早世した人物をもう少し探ってみたい。