日本で鷹狩りはいつ始まったのだろう。
一般的には、日本書紀(720年撰上)の仁徳天皇の条に「鷹甘部(たかかいべ)」の創設の説話があり、仁徳天皇在位の5世紀の初めに百済の渡来王族「酒君」によって開始されたとされている。
そもそもは、摂津・住吉~河内・丹比付近にあった依網屯倉(よさみのみやけ)で網に珍鳥がかかったので、天皇に献上された。天皇は、ちょうど日本の使節に無礼を働き百済王から追放されて渡来した酒君が居たので、「これは何という鳥か」と質問した。
酒君は、「百済に多く居り、馴らすと人に従い、高速で飛んで諸々の鳥を掠めます。百済では俗にクチと言っております(「百済俗号此鳥曰倶知」)」と答えた。(なおこの箇所に細注がつけられ、「是今時鷹也」。つまり珍鳥クチは今の鷹であるとしている)
天皇は、それなら「養馴しろ」と命じた。酒君は幾らも時が経たぬ内に養馴し、足に革紐をつけ、尾に小鈴をつけたものを腕上にとめ、天皇に捧げた。天皇は、その日、すぐ鷹をつれて百舌鳥野へ狩りに出た。鷹に反応して雌の雉が多数飛び出し、天皇が鷹を放つと数十羽も獲ることが出来た。この月(秋9月)、天皇は鷹甘部を作ることを命じた。
仁徳紀の猟の様子を、「放鷹」(昭和6年、宮内省式部職編)に書かれたオオタカによる雉子猟の方法と重ねて想像してみると。
《鷹には狩りの一週間前から餌を増やしておく。萱場等で行うときは、鷹を腕に据えた者が数人一列に並び、間に挟んだ勢子とともに、一列横隊で前進する。雉子は飛び上がる瞬間が比較的遅いので、鷹を使う者は俊敏に鷹を放つタイミング(羽合せ)をつかまないとならない。もし鷹が雉子を逃すとどこまでも追って行く。雉子が草むらに逃げたときは近くの樹上に停まり、雉子の動きを待つ。勢子が雉子を追い立て、これを一二回続けると、雉子はおびえて、簡単につかまえられるようになる。このように鷹は長追いする事があるので、視界の開けた場所を選ぶ必要がある。》
仁徳紀の猟では、天皇以外の鷹使いも参加し、勢子とともに横列を作って雉子をけしかけ、鷹を放ったこと、雉子はやがて恐怖で動けなくなり、簡単に捕獲し、数十羽も獲ることが出来たこと、百舌鳥野は視界の開けた狩り場だったことなどが想像できる。
ここで、説話の内容で、気になる点を挙げてみる。
- 捕獲した鷹、隼の養馴には最低二ヶ月はかかる。暗い部屋で連日時間をかけて人にならし、餌を食べるようにし、野外での訓練を積み重ねてゆく。酒君がほどなくして連れてきたというのが事実だとすると、捕らえられたクチではなく、すでに養馴してある他の鷹を連れてきた可能性はないだろうか。
- 鷹狩りには、鷹の装具、鷹匠道具が必要であり、仁徳天皇による百舌鳥野の狩りが順調に行われたとすると、鷹甘部創設の前に、酒君周辺の百済系渡来人の間では鷹戸が存在し、鷹狩りが行われていたことをうかがわせる。
- 朝鮮半島では中国同様、ハヤブサを「鶻」と呼んでおり、捕らえられた「クチ」はハヤブサと思われる。しかし、天皇に持って来たものには尾に鈴がつけられており、オウタカであると思われる。(「鈴 鉄製。大鷹にて鷭(ばん)、雉子の猟の時用ふ」=宮内省式部職編「放鷹」)。クチがタカに替わっていて、1)の推測を裏付ける。
酒君の人となりは、この前の仁徳紀の記事に描かれている。
百済に渡った紀角宿祢が国、郡を分けて各地の特産物を記録していた時、百済王族の酒君が無礼を働いた。怒った角宿祢が百済王に詰め寄ると、王は酒公を鉄鎖で縛り、葛城襲津彦に進上するといったため、襲津彦は日本に連行した。到着すると、酒君は逃亡し、石川錦織首許呂斯に匿ってもらった。「天皇の許しが出た」と嘘をついて納得させたのだ。やがて天皇はそんな酒君を赦したという。
鷹の取り替えを考えても不思議でない、したたかな知恵の持ち主して描かれているように思われる。
とにかく、鷹狩り説話の主人公は、百済王族の酒君なのだった。珍鳥を捕らえた依網の阿弭古が目立って伝えられているのは見当違いのようだ。
さて、この鷹甘部の始まりの説話を証拠立てるものがあるのだろうか。
大和を中心に戦前から考古学調査を繰り広げた「考古の巨星」末永雅雄氏は、生前この説話の考古学的な立証がなかなか出来ないと書いていた。

鷹狩男子の立派な埴輪は東国の上毛野国(現群馬県)で6世紀後半のものが複数出て来るが、仁徳紀の依網屯倉のあった摂津、河内の辺りばかりか、近畿地方からの確かな出土がなかったのだ。
「本来なら大和河内の古墳にあるべきではあるが、まだ知られていない」と述べ、二つの可能性を想定していた。((「大和文華37」1962。5)
1 仁徳紀の記載の年代に信憑性がない
2 仁徳紀の記載は正しいが、遅れて「中期(古墳)の終り、後期古墳の時期に至っ
て、鷹匠埴輪の製作が行われた」
この文章から、60余年経って、新資料が出てきたのだろうか。
現在大阪府高槻市の今城塚古墳近くの埴輪公園に出土した武人埴輪、家形埴輪、動物埴輪とともに復元された鷹匠埴輪も並んでいる。2001年に多数の埴輪が見つかり、鷹匠をかたどったものも出てきたらしい。

発掘調査を調べると、鷹の埴輪は出ていない。発見された左腕にへこみがあって、そこに鷹が附けられていたと推測し復元されたものだった。
この古墳は継体天皇の奥津城とされており、没年の531年ごろ6世紀初めのもの。東国の埴輪より半世紀くらい早いことになるが、仁徳天皇まではあと100年隔たりがある。
鷹匠ではなく、鷹だけの埴輪が出土していた。和歌山の井辺八幡山古墳の長さ15cmほどの鷹形の埴輪。背中に羽根が線描されていて、鷹と推定される。6世紀の中頃らしい。墓主と推測される紀氏の一族が生前鷹狩りを行っていたと推測される(酒君に怒ったのは紀角宿祢だった)。
仁徳紀に近い5世紀にさかのぼる可能性があるものも、河内から出土していた。
古市古墳群の誉田御廟山古墳(宮内庁が応神天皇陵に治定)の近くの茶山遺跡で見つかった鷹のような埴輪。鷹と決定づけられないが鷹でもおかしくないように見える。同遺跡の二号墳(5世紀後半)からは、立派な飾り馬の埴輪が出土しており、可能性は低くないようだ。

さらに、河内の河内長野市の三日市遺跡三号墳から、鷹の爪と思えなくもないものが刻まれた埴輪の破片が出土した。河内長野市史には、鷹匠埴輪の一部と思われるとしているが、発掘調査報告書には、鷹匠埴輪とは踏み込んでいなかった。
いずれにせよ、末永雅雄氏の探求に応えるように、大和・河内から徐々にではあるが鷹関連埴輪が出土していることが分かった。
さて、文献の研究ではどうか。さらに突っ込んだ鷹狩関連氏族の探求が進んでいるのを今回調べ直して知ったのだった。