ガントルガさんに貰ったチンギス・ハーン画

 モンゴルニュースの電子版で、7月2日から7日まで台湾故宮博物院が所蔵しているチンギス・ハーン肖像画が同院で公開されると報道されていた。1278-79年に画家ホリハソンがハーンの没後に描いたのだとも記されていた。

 モンゴル国の創立者として尊崇されているチンギス・ハーンだけに、台湾での公開がモンゴルでも関心事なのだと理解できたが、建国の父の歴史的な肖像画が故国にはないことをあらためて知ることとなった。

 我が書室には、92年公開の映画「チンギス・ハーン」のロケを訪問した際、美術を担当していたガントルガさんが布に模写してプレゼントしてくれたチンギス・ハーン像が大事に飾ってある。この絵のオリジナル画は台湾にあるのだった。

 

 台湾故宮博物院の英文のカタログを見てみた。81年に夫婦で台湾旅行した際に博物院に寄って購入したものが書棚にあった。80年制作のカタログにはチンギス・ハーンの写真は掲載されていないが、収蔵品としての記述があった。

 

「元朝の皇帝と配偶者の肖像は半身像である。2つの大きなアルバムに分けて収められている。最初のアルバムには太祖(チンギス・ハーン)、太宗(オゴタイ・ハーン)、世祖(フビライ・ハーン、在位1279-1294)、成宗(在位1295-1307)、武宗(在位1308-1311)、仁宗(在位1312-1320)、文宗(在位1330-1332)、寧宗(在位1332)の肖像画が収蔵されている。/元朝の皇后の肖像は、Shih-tsung、Shun―tsung(3作)、Wu―tsung(3作)、Jenーtsung、Yungーtsun(2作)、Ning-tsunなどである。/これらの肖像画はとりわけ写実的である。あきらかにフビライ・ハーンの肖像はモンゴルのリーダーとなった英雄の気質を捉えている。」

 チンギス・ハーンではなく、元の皇帝となった孫のフビライ・ハーンの肖像に言及していた。

 中国の歴代皇帝の一員であるフビライ・ハーン(世祖)らとともに、世祖のおじ(オゴタイハーン)、祖父(チンギスハーン)も中国皇帝の系譜に入れられているのだった。清代も皇帝は満州人であり、中国皇帝は漢族にかぎらない。五輪前の北京で、チンギス・ハーンの話題で中国人とやりとりした際、「チンギス・ハーンは中国の人間であり、モンゴル人でない」と言われて驚いたことを思いだした。

 

 さらに調べると、堤一昭氏の論文「チンギス・カン画像の“興亡”」(2012)に出会った。台湾故宮博物院が所蔵する画像は、清代の乾隆帝が整備し、紫禁城南薫殿に保管されていた元朝関連の3冊のうちの2冊だった。

  • ①「元朝帝像」
  • ②「元朝后像」
  • ③「元朝后妃太子像」

 国民党が台湾に移った際、このうちの①②のみ運んだという(故宮博物院所蔵)。大陸の共産党政府は残った③だけでは帝王像、とくにチンギス・ハーン像が欠けるため、53年にモンゴル王家所蔵とされる「太祖皇帝像」を買い上げて、国家博物館に収めたという。像を比べると、似てはいるが、雰囲気がやはり違う。大陸所蔵のものは、やや険しい表情に見える。

 ここで思い出すのは62年にモンゴルで発行されたチンギス・ハーン切手のことだった。政治色を消してチンギス・ハーン生誕800年行事がモンゴルで開催されたが、実質支配するソ連政府の逆鱗に触れ、多くのモンゴル人が粛清された。そのイベントの一環で発行された4種の切手の1つがチンギス・ハーンの肖像切手だった。もちろん発行停止となった。

 博物院、博物館蔵の黄色の衣装ではなく、モンゴル民族の色、青色の衣装を着たチンギス・ハーンが切手には描かれている。民主化が進んだ89年に、保存してあった27年前の切手を含め1万枚を再発行して、民族の意地を見せたのだった。

 

 91年に、首都ウランバートルで開催された切手コレクター水原明窓さんのコレクション展の記念切手にも、この肖像切手が収められている。

 

 今日、目にしたモンゴルの電子版の記事から、いろいろと思い起こすこととなった。中露の大国の間に挟まれ、しかも物価高騰、経済悪化に直面している草原の国で、ガントルガさんはいまも元気に映画美術の仕事を続けているのだろうか、と思った。

 

三世瀬川菊之丞と狼狽散人

 京都東山の俳諧師で洒落本作者の富土卵は、歌舞伎役者の三世瀬川菊之丞とも懇意にしていたようだ。菊之丞と言えば、女形の名跡で知られ、写楽の浮世絵で今でも親しまれている。


 その菊之丞が高瀬川路考(俳名は瀬川路考)の名で、「仮名手本穿鑿抄」を文化元年(1804)に大坂で刊行している。仮名手本忠臣蔵をパロディにした一種の洒落本で、その跋(後書き)を東山狼狽散人(富土卵)と、粋川士(西村定雅)がそれぞれ書いている。

 編者は江戸の狂言師、「東都旅客篠田槿々堂」と記されるが、篠田金治、萬壽亭正二、葛葉散人の名や号を持つ。

 歌舞伎役者として評価を得ている三世菊之丞を、槿々堂や真葛が原の戯作者/俳諧師コンビの定雅、土卵が洒落本の世界に引き込んで、もり立てた印象を受ける。

 内容は、歌舞伎の「仮名手本忠臣蔵」に出て来る登場人物に関連のある品々(すべてもっともらしい偽物)を紹介する図を掲載したものだ。前に紹介した定雅が拵えたと推測した「睡余小録」(文化2年)の作り方とよく似ている(大石良雄手簡、芭蕉蛮刀図など掲載)。

 

 「穿鑿抄」に掲載されたものは十一品あり、

  • 高師直(吉良上野介)の艶書(ラヴレター)

    ・桃井若狭之助(津和野藩主亀井茲親)の枕自鳴鐘(目覚まし時計付枕)。若狭之助はやはり高師直にいじめられたが、賄賂で切り抜け、その分、矛先は塩冶判官に向けられたのだった

  • 足利館四足門(松の間で刃傷沙汰のあった足利館の門)の古瓦

  軒丸瓦が、足利の家紋引両紋になっている

  • 伯州藩士分限牒(伯州藩=赤穂藩藩士の名簿)
  • 山崎邑狩人訴人写(勘平が潜んでいた愛人おかるの実家で、狩人3人がおかるの父を殺し、金を強奪した。そのときの訴状)

  •  於加留弘札(遊女おかるを祇園の揚屋から呼び出した際のチケット)
  •  一力紅裾まえだれ(一力茶屋で由良之助の密書を覗き見するおかるは紅衣装を 着ていたがその前だれ)
  •  金閣寺拝見信牌(勘平の母の台詞の「金閣寺拝見の良い伝手」)
  •  本蔵尺八露取(師直の部下ながら大星に同情する加古川本蔵が虚無僧を装って 由良之助の隠れ家近くで吹いた尺八の手入れ道具)
  • 良松迷子牘(本蔵の幼い息子良松が、迷子になったときのために身につけていた迷子札)
  • 太田了竹秘書(大星を支援し、妻と偽装離婚した天川屋義平と喧嘩した舅の藪医者了竹の秘伝書)

  以上である。

 

 槿々堂が十一品のうち四点解説、菊之丞は於加留弘札、良松迷子牘、太田了竹秘書の三点を、定雅は金閣寺拝見信牌一点を解説している。

 土卵は後書きで東山狼狽散人として「加古川知略はじめ忠臣蔵藩士の論評」をしており、翌年に歿する大坂の俳諧師大伴大江丸の賛が、大星力弥・小濱祝言の絵に記されていた。(尾崎久弥「珍本駄本」)

「八十六歳大江丸」の署名と、「たなばたのこよひ大星力弥かな」の著名な句。大江丸も応援していたのだった。菊之丞を前面に出し大坂、京の俳諧師が協力しもり立てたことがうかがわれる。

 跋で定雅は「世界は忠臣蔵、趣向は寸錦雑綴いかにも書たり見出したり」と記している。当時、興行は仮名手本忠臣蔵なら失敗しないとされていたほどの人気だったこともあって、洒落本も仮名手本物が沢山刊行されたという。

 寛政10年(1798)に発行禁止になった「寸錦雑綴」(作者は江戸の狂歌師緑青人が有力らしい)には、

 大関・谷風梶之進の手形、

 松尾芭蕉の米瓢箪とともに、

 堀部弥兵衛の笄、

 赤穂浪士討ち入り月の元禄暦など、

忠臣蔵ものが掲載されている。これを意識して、しかも発禁にならないように、「仮名手本忠臣蔵」の仮構の世界を対象にして巧妙に拵えたように思える。

 この9年後篠田槿々堂が戯作者式亭三馬とともに、「穿鑿抄」を拡大し、あらたな仮名手本関連の品目を加えた「蔵意抄」(文化10年)を刊行。内容も充実していたため、仮名手本関連の「贋図録」としては「蔵意抄」が高い評価を受けている。

 美貌、演技力で定評のあった三世菊之丞(1751-1810)は、大坂の市川流市川七十郎の子で、上方で活躍していたが、江戸にも評判が届き、1773年江戸に呼ばれ、やがて三世を襲名することになった。

 土卵が贔屓した中村芝翫=三世歌右衛門とも三世菊之丞は多数共演しており、俳句を学ぶ菊之丞とは「穿鑿抄」以外でも接点があったと想像される。

 土卵は、上方の女形嵐小六四世とも交流があった。

「はつ舞台より大立もの乃器量備わり、女かたを情を守り、行義といひきやりうといひ申は此お人、其上、去秋故人と相成られましたる京都ひがし山の俳士、土卵先生の門人にて、ふう雅の道を好ミ、常に閑情を楽しミと致され升る」と「翻刻役者更紗目録」の若女形之部「嵐小六」に記されている。

 土卵の交流範囲は思った以上に広いようだ。

 

 

 

 

芝翫をめぐる蜀山人と土卵

 享和3年(1803)に京を訪れた滝沢馬琴と出会って以降、東山・真葛が原に住む俳人の富土卵は江戸に戻った馬琴と書簡のやりとりをしていた。

 国立国会図書館に土卵から曲亭(馬琴)に当てた書簡が収蔵されている。それによると、貼紙に次のように記されている。

 

(貼紙)土卵  京都東山隠居 俳人

        中村芝翫贔屓連の頭取

 

 差出人の土卵が自らを、上方を代表する歌舞伎役者芝翫の贔屓連の頭取としている。

 三馬いわく、俳人の西村定雅、江森月居とともに、京で芝居の「評を定て、筆をとっていた」土卵が、とりわけ初代中村芝翫(三世歌右衛門)をひいきにしていたことがうかがえる書き付けだ。

「国立国会図書館所蔵貴重書解題第12巻(書簡の部 第2)」に掲載の書簡には、日付が書かれていないが、文中に「日光御忌」のことが書かれているので、東照宮二百回忌(家康二百回忌)の文化12年(1815)と推定される。

 

 当時、江戸っ子の芝居好きの間で、上方役者の芝翫がどう見られていたのかが判ると、この書き付けは大変興味深いように思われる。

 順を追って書いてみると。 

 芝翫は初代中村歌右衛門の実子で、寛政6年(1794)、十八歳で三世歌右衛門を襲名、中村座を率いて、文化5年(1808)に江戸に下り、初興行(同9年まで)を行なった。

 江戸では、市川男女蔵を立てて座頭としたものの、劇中で男女蔵を下駄でたたく演出をしたものだから、物議を醸した。

 急先鋒が江戸の狂歌師大田蜀山人。《歌右衛門は役者としては上手いかもしれないが、江戸に下ってきて早々、座頭の市川男女蔵を下駄で叩くような真似をした。男女蔵の芝居が下手だとしても、『市川』という苗字は江戸っ子にとって最も大切で神聖な名前だ。それを上方者が下駄で叩くとは何事か》と日記に綴り、以下の狂歌を作った。

 江戸っ子の 水市川の おめおめと など京談(きょうがたり)の 下駄をいたゞく

 

 

 さらに、江戸で3年目の同7年、歌右衛門が勝手に中村座の座頭となったと、日本橋魚河岸の小田原町連が怒りだした。江戸歌舞伎のパトロン的存在の小田原町連に挨拶がなかったのが理由で、出演する江戸の役者を呼び出し下りるよう説得、結局出演する2人(沢村源之助、尾上松助)の名に「スケ」(特別出演)の字を加えたチラシを配り直させた。

 小田原町連は中村座に祝儀を出さず、代わりに歌右衛門以外の役者に金五両三両を配り、座頭のために新たに染める恒例の幕も、歌右衛門には作らない仕打ちをした。

 蜀山人は「嘲芝翫」という狂詩を作って、小田原町の柳屋伝六にエールを贈った。

 

 江戸を去った同9年には、せいせいした様子で、

 吾妻なるふじをみすててなには江のあしべをさしてかへりつるかも

(鶴は芝翫のかへ紋なり)と狂歌を作っている。

 

 歌右衛門が二度目の江戸興行に打って出るのが、まさに富土卵が曲亭に書簡を送った文化12年であった。書簡は2月14日付。

 土卵が「中村芝翫贔屓連の頭取」とあえて記した理由も理解できる。

 芝翫の二度目の江戸興行をよろしく、と馬琴に暗に伝えたのだろう。曲亭は蜀山人と懇意にしており、二人の間の書簡も多数残っている。

 芝翫は都合、3度の江戸興行を行なっているが、いずれも興行的には成功だったと伝えられる。あれほど嫌っていた蜀山人の芝翫への評価も二回目以降徐々に変わっていく。

 立役、女方、七変化と芝翫の技量を認めざるを得なかったのか。初代歌川豊国作の歌右衛門の屏風絵に、蜀山人が賛の狂歌を書き添えるほどになった。

 きっかけに、富土卵の働きがあったと想像するのも面白い。

 

 蜀山人に土卵(狼狽窟)へ贈った狂歌が残されている。

「真葛が原にすめる狼狽窟のあるじによみてつかはし」とて

「長き日のあしにわらびの手をそへて真葛が原の風のとがなり」

 以前にもこの狂歌は紹介したが、どうしてこの歌が作られたのか、専門家にも判っていないらしい。土卵から蜀山人への狂歌に応えたのではないかと、想像する解説もあるが、証拠は残されていない。

 

「芝翫きらひという事はないしょないしょ」と芝翫嫌いを公言した大田蜀山人と、

「芝翫贔屓連頭取」を自認する狼狽散人が、お互い意識しあったのは間違いないだろう。

 芝翫を介した両者の知られざるいきさつがあったのではないか。

 

 

 

 

 

 

 

土卵の不思議絵の元ネタについて

 江戸時代中後期の京都の俳諧師で戯作者の富土卵(とみとらん)が、下級公家下毛野敦光であり、近衛府の随身として最後は近衛将監、従五位下となり、「最もえらい洒落本作者」として京では知られていた、ことは前に記した。

 下毛野家という、鷹飼渡の儀礼を勤め、また近衛家の散所などを預かり、鷹狩りの技術を伝える家系の次男に生まれた土卵は、さらに鷹狩りを伝承する富家を再興するために富家に入った。

 富家は、神武記、紀に登場する登美毘古や鵄(トビ)に関連する、毛野一族とは別の鷹狩を伝承する氏族らしい。いま大型蛇行剣の出土で話題の富雄丸山古墳がある「鳥見郷」が、記紀での彼らの舞台となっている。

 下毛野、富を名乗っているにもかかわらず、土卵には鷹狩の匂いがまったくしないのはなぜだろうか。

 謎めいている土卵だが、少し判ってきたことがある。宿題にしていた富土卵が狼狽散人(うろたへさんじん)の名で刊行した「花實都夜話」(1793、寛政5)の不思議な挿絵について、少しだけだが手がかりがつかめたのだ。

 神保町のアカシア書房で水谷不倒「選択古書解題」(昭和十二年)を手に入れ、花實都夜話の内容の輪郭ををなんとかつかむことから始めた。

一の巻 火打石が質素な生活ぶりを自慢

二の巻 すりこぎが火打石の自慢をへこまし、さらに相棒のすり盆の誇りのなさを嘲笑

三の巻 鍋釜が自慢

四の巻 出席の諸々の器物が出しゃばって、我田引水論を闘わす

五の巻 台所の総元締めの竈が意見をまとめて裁断する

 

 挿絵に比べて話は、さほど突飛でなく、常識的である。

 似たもの探しをしたところ、「滑稽文学全集12巻」(大正7年,文芸書院)で、編者の古谷知新の文章に行き当たった。

 釜、茶碗などの器具が衣裳を着て、人間のように話すのは、宝暦9年(1759)大坂で刊行された儒者桂井蒼八作、月岡丹下(雪鼎)絵の「滑稽雌黄」があり、

「器具衣装の類各自其身の上をかたりて、或は時弊を論じ、或は俗説を弁ぜる趣を叙せるものは、概ね本書のもとづけりといふべし」。

 器物衣装の物語を開拓したのが「滑稽雌黄」であり、この後

 当世不問語 西村吾友 明和元年 1764

 花實都夜話 狼狽散人 寛政五年 1793

 質屋庫 滝沢馬琴    文化七年 1810

がこれに続いて刊行されたというのだった。

 

 そこで他の「当世不問語」「質屋庫」を挿絵に限って調べると、器物が登場するものはなかった。かぶりものが登場するのは、月岡丹下のほかは狼狽散人(挿絵も担当)のみだった。

 浮世絵師の丹下の絵はさすがに動きがあって巧いが、シュール(超現実)な味わいは感じられない。

 桂井蒼八、月岡丹下を調べると、ともに興味深い人物で、

 蒼八は経歴に謎が多い。生年生地とも不明で、大阪の儒者であり、「生涯放蕩不羈、明和二年五月十五日、納涼中橋上より落ち溺死」(中村幸彦 「近世文学未刊本叢書三巻」養徳社、49)と書かれている。大坂の戎橋から落下したのだった。交友関係は、当世痴人伝(寛政七)に、名優中村文七の学問の師とある程度。

 雪鼎は正徳元年生―天明六年十二月四日歿 享77。近江・日野の在で生まれ、狩野派高田敬甫に学び、大阪心斎橋の傍らに住み、門弟を数千人抱えたという。肉筆を主とし、艶麗な美人を描いて、関西の浮世絵師として西川祐信とともに知られる存在だった。

 春画もよくし、「近世逸人画史」に逸話が残されている。明和に京で大火があり、ことごとく家が燃えたが、とある店の倉庫だけが焼け残った。調べると、月岡の春画を入れた小函があった。京では「月岡の春画は火伏」になると評判になり、買い求めるものが増え、値段も七倍に跳ね上がったという。

 

 蒼八が溺死した年、土卵は七歳だった。その約三十年後に、蒼八、丹下が醸し出す猥雑な上方の雰囲気を京風にアレンジしながら、シュールな挿絵を生み出したことになる。

 下毛野敦光

 富土卵

 二つの顔がまだ結びつかない。

 富土卵の顔のほうは、同じ東山の真葛が原に暮らす先輩の俳諧師、洒落本作者の西村定雅とともに、歌舞伎に入れ込んで、芝居の批評を始め、京の役者が土卵に俳諧の入門をする。

 滝沢馬琴への書簡に土卵は

「京都東山隠居 俳人/中村芝翫贔屓連の頭取」

と記している。上方歌舞伎の初代芝翫(三代目中村歌右衛門)のひいき仲間の代表を名乗っている。これも当ってみることにしよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

マツモトセンノウと四世松本幸四郎

妻と恒例の山野草展を覗いた。

2点のマツモトセンノウが出展されていた。

 

 マツモトセンノウは「松本仙翁」で、茶席でもよく生けられるナデシコ科。阿蘇山麓などで生育し、物の本には、歌舞伎の松本幸四郎の家紋(四花菱)に似ているからと書いてある。

 どうも私には判らないのは花と、上の家紋を比べても決して似ていないことだ。

 

 花の名は江戸時代に命名されたのだろうから、誉れ高かった五世松本幸四郎やその父の四世について調べてみた。

 四世は、宝暦から明和、安永、天明、寛政のころ活躍し、写実的な演出で人気を博し、幡随長兵衛の元祖は彼より他なし、などといわれた名優だった。

 しかし、意地が強く、協調性に欠けていたらしく、市川団十郎とけんかして共演拒否となり、尾上菊五郎からは恩知らずとして、真剣で斬りつけられた人物だったという。 

 それでも天明年間には押しも押されもしない重鎮となった。

 

 

 この四世は、謎の浮世絵師として知られる東洲斎写楽によって描かれた錦絵が残されている。

「山谷肴屋五郎兵衛」の芝居絵で、衣裳をよく見てみると、四花菱でない紋が見つかった。これはなんだろう。

 

 歌舞伎役者の家紋について書いた河竹繁俊「概説日本演劇史」を見つけた。それによると、四世までは幸四郎の定紋は「三つ銀杏」で、「四花菱」が定紋にかわるのが五世の時だという。それまでは「四花菱」は「替紋」であり、五世が入れ替えたのだった。

 四世と五世は舞台の上でも張り合った記録が残されている。《千本桜》で権太役の五世が、梶原役の父に「親父はのめってくたばろうとかまいません。褒美のお金がもらいとうございます」と台詞を替え、大喝采をうけたという(河竹繁俊「歌舞伎名優伝」)。五世は家紋も、定紋と替紋を替えて父親に対抗心をしめしたのだろう。

 

 

 どうだろう。家紋を見比べると、この銀杏を三つ並べた家紋のほうが、マツモトセンノウに近くはないだろうか。「四菱」は四つ菱形を並べたものだから、これを花の名にするには無理がある。

 

 松本仙翁は、四世松本幸四郎の定紋「三つ銀杏」に花が似ていたので、18世紀後半から末にかけて、花に命名されたのではなかろうか。それほどに、四世もまた当代の人気者だったのだろう。

 

 今年の山野草展から、ひょんなことを考えることになった。

 

 

 

 

 

 

 

 

墨蜻蛉の由来をAIに尋ねてみた

 神保町では将棋囲碁の古書で知られるアカシア書店が3月で店舗を閉じ、ネット通販だけになってしまった。古書の街が少しずつ崩れているようで悲しくなる。

 この古書店で、最後に購入した百円本、阿波野青畝句集「國原」(昭和17年、天理時報社)を大事に読んでいる。

 1月の句から12月の句まで、月ごとに分類している。6月にハグロトンボらしき句があった。

 入り亂れ此許をこのめる墨蜻蛉(すみとんぼ)

 羽とぢし墨蜻蛉(すみとんぼう)の失せにけり

 墨蜻蛉出水の道のへりへりを

 ハグロトンボを墨蜻蛉と呼んでいる。

 ハグロトンボは、羽を合わせることから、神様トンボ、佛トンボ、極楽トンボ、合掌トンボと呼ぶ地域があり、オハグロ(お歯黒)トンボから、あねさんトンボという所もある。しかし、「墨蜻蛉」は知らなかった。

 長年使っている水原秋桜子編の新編歳時記の「蜻蛉」(盛夏)に、青畝の「入り亂れここを好める墨蜻蛉」が挙げられていた。新潮文庫の歳時記(夏)1951年刊行では、青畝の「墨蜻蛉出水の道のへりへりを」を採用していた。

 

 国会図書館のアーカイヴで墨蜻蛉を探ってみた。高浜虚子に大正年間の句があった。

木賊刈る翁に飛べり墨蜻蛉 (零余子編「袖珍俳句歳時記」大7,春水社)

川水に映り羽ばたく墨蜻蛉 (大10)

 戦後の出版物にも墨蜻蛉は、数はすくないが登場する。ただし俳句関係がほとんどだ。

七月のダム満ちて翔ぶ墨蜻蛉 大中祥生 83年

墨蜻蛉岩にすがりてはなれざる 松代嶺子 91年

 

 そこで、思い切ってgoogleのAIに質問してみた。

羽黒蜻蛉を俳句では「墨蜻蛉」と呼ぶことがあります。昭和17年頃、阿波野青畝が句にしています。大正には高浜虚子が墨蜻蛉の句を作っていました。ひょっとして、地域の呼び方(方言)ではなく、虚子が造語した可能性もあるのかと疑っています。AIさんはどうお思いですか。》

回答は―。1秒もかからず以下の通り。

 

「墨蜻蛉(すみとんぼ)」という言葉の出自について、非常に鋭いご考察ですね。結論から申し上げますと、お察しの通り「墨蜻蛉」は方言などの民俗語というより、高浜虚子を中心とした「ホトトギス」派の俳人たちが、文学的表現として定着させた(あるいは再発見した)言葉である可能性が極めて高いです。

いくつかの視点から、この「墨蜻蛉」という呼称の背景を紐解きます。

  1. 高浜虚子による「美化」と定着

明治から昭和にかけて、虚子は写生(客観写生)の重要性を説く中で、対象をより叙情的に、かつ簡潔に表現する言葉を重用しました。

  • 「おはぐろとんぼ」から「墨蜻蛉」へ: 一般的には「ハグロトンボ」や「おはぐろとんぼ」と呼ばれていましたが、俳句の五音に整える際、また「おはぐろ」という生活感のある言葉を避け、より静謐な「墨(すみ)」という一字を当てることで、あの独特の漆黒の翅の質感を際立たせました。
  • 季語としての格上げ: 虚子がこの言葉を句に用いたことで、歳時記における「蜻蛉」の傍題(別名)として「墨蜻蛉」が認知されるようになりました。
  1. 阿波野青畝への継承

 ご質問にある阿波野青畝(あわの せいほ)は、虚子に師事し、「昭和の四S」と称されたホトトギスの重鎮です。

  • 青畝の句: 「入り乱れ此許(このもと)をこのめる墨蜻蛉」 など、青畝は師である虚子が磨き上げた「墨蜻蛉」という語を、さらに自身の繊細な写生句の中で深化させました。
  • 昭和17年頃という時期は、まさにホトトギス派の写生俳句が成熟し、美しい季語としての「墨蜻蛉」が俳句界の共通言語となっていた頃と重なります。
  1. 造語か、方言か

 広辞苑や日本国語大辞典などの一般的な辞書には「墨蜻蛉」は立項されていないことが多く、一方で俳句歳時記には必ずと言っていいほど掲載されています。この点からも、この言葉が「俳句という詩的空間で好んで使われる雅称」であることが分かります。もし虚子の完全な造語でないとしても、特定の地方で細々と使われていた言葉を、虚子が「俳句の言葉」として選別し、全国区の季語へ押し上げたというのが歴史的実態に近いと思われます。

「墨」という一文字に、羽黒蜻蛉の気品と、どこか死生観を感じさせる静けさを込めた虚子の感性は、現代の私たちが見るハグロトンボの印象をも規定しているのかもしれません。」

 

 AIに返信した。

《貴重な考察ありがとうございました。大変参考になりました。ただ、「入り乱れ此許(このもと)をこのめる墨蜻蛉」と引用された句は、「入り乱れここをこのめる墨蜻蛉」としている歳時記があります(水原秋桜子編新編歳時記)。此許は、ここでなく、このもとと読んだ方がいいのでしょうか。》

「此許」の読みについて、非常に細やかな点に気づかれましたね。

結論から申し上げますと、この句は「ここ」と読むのが一般的であり、俳句の調べ(リズム)としても自然です。

理由は以下の3点です。

  1. 俳句のリズム(定型)

俳句は「五・七・五」のリズムを基本とします。

  • 「ここ」と読む場合
    「入り乱れ(5)/ここをこのめる(7)/墨蜻蛉(5)」
    ちょうど中七(真ん中の7音)に収まり、リズムが非常にスムーズです。
  • 「このもと」と読む場合
    「入り乱れ(5)/このもとをこのめる(9)/墨蜻蛉(5)」
    中七が9音という大幅な「字余り」になってしまいます。青畝はリズムを重んじる写生派の俳人ですので、意図的な崩しがない限り、9音にする可能性は低いと考えられます。
  1. 「此許(ここ)」という表記の意図

俳人があえて「ここ」を「此許」と書くのは、単なる場所の指示を超えて、「自分のすぐ近く、このあたり」という親密な空間や、そこに漂う気配を視覚的に強調するためです。水原秋桜子の歳時記が「ここ」とルビを振ったり書き換えたりしているのは、読者がスムーズに五七五のリズムで読めるように配慮した結果だと言えます。

  1. 先ほどの回答の補足

先ほど私が出した回答の中で「此許(このもと)」と添えてしまったのは、漢字の訓読みに引きずられた不適切な補足でした。混乱を招いてしまい失礼いたしました。正しくは、ご指摘の通り「ここ」と読み、場所を指しつつ中七のリズムを整えるのがこの句の本来の姿です。

「ここ」という言葉を「此許」という少し重みのある漢字で表現することで、墨蜻蛉が自分の身の回りに次々と集まってくる、あの幻想的な光景の「密度」を表現したかったのでしょう。」

 

 1秒もかからずに返事がくるAIに驚くとともに、ちょっと文学的すぎるAIとは今後も、話し相手になりそうで、いやはやとんでもない時代になったと感じたのだった。

 

 

 

 

桓武天皇の《放鷹遊獦》から見えること

 桓武天皇が鷹狩りを好んだことは、菅原道真編集の「類聚国史」に明らかである。

 長岡京遷都前年の「延暦二年(783)十月戊午(14日)行幸交野放鷹遊獦」と、淀川沿いの東、交野(枚方市、交野市)で、鷹犬を用いた放鷹を行なった記載がある。

 遷都後の六年十月、十年十月にも同じ狩り場、交野で同様の鷹狩りを行なった。

 鷹犬を用いたことが、「遊獦」の語から判る。獦は、狩りのことだが、「口の短い犬」という意味があり、「猟」と区別されて筆記されている。このときは長岡京遷都後であり、都から南下して川を渡って狩り場に向かったと推定される。

 同十一年から猟の回数が一気に増え、大原野、水生野、栗前野など狩り場も多岐にわたり、同年だけで冬場に十四回猟に出かけている。ただ、「獦」は一度きり。他は「猟」なので、鷹犬は用いなかったのだろう。

「仁徳紀」の鷹狩りの記載には、獲物の雉子を「雌雉」とまで細かく表記しているにもかかわらず、鷹犬は出てこなかった。

 奈良時代になって鷹犬を重視したことは、天平宝字2年(758)設置の兵部省主鷹司の任務内容が鷹犬の養成だった、ことから明らかだろう。

 

 興味深いのは、桓武天皇が歴代天皇のなかで始めて天を祀る郊祀を行なった場所が「交野柏原」であること。「交野」で行なった初の鷹狩りの2年後の延暦4年11月に開始した。二度目の郊祀は同6年の11月であり、その一ヶ月前に交野で「放鷹遊獦」を行っている。郊祀と放鷹行幸との関連も考える必要があるのかもしれない。

 

 鷹狩りに関心を持った桓武天皇は、延暦十年に鷹司の制度を改変した。詳細は分らないが、従来の鷹戸を廃止し、諸衛府の鷹飼の統合を行なったという。

 同時に、「仁徳紀」の鷹甘部記事に登場した百済系渡来氏族に対して、改賜姓を一斉に行なったのだった。鷹甘邑のあった摂津国住吉郡や河内国古市郡、丹比郡に居住していた渡来氏族たちだ。

 摂津/河内/和泉の国境の辺りの鷹甘邑周辺のことも、秋吉正博氏の「日本古代養鷹の研究」が大変参考になる。

 難波京の朱雀門から道を南下すると、西・住吉大社~東・八尾方面の磯歯津路と交差する。その左手前の角に鷹甘邑があった。さらに南下して進むと依羅沼(依羅屯倉)が右手に見え、大津道(長尾街道)、丹比道を過ぎると右手に百舌鳥野が開けてくる。

 仁徳紀に登場するこの地域に住んでいた7氏が新しい姓を受けたのだった。

葛井連 → 葛井宿祢

船連  → 宮原宿祢

津連  → 中科宿祢

池原公 → 住吉朝臣

文忌寸 → 文宿祢

武生連 → 武生宿祢

広井造 → 広井連

 

 

 この中で、鷹甘邑のあった住吉郡(住吉神社の東側、現在の東住吉区鷹合付近)に住んでいた池原公が「朝臣」と、より高い賜姓だったことが興味深い。桓武天皇から恩寵を受けた住吉朝臣綱主は、「日本後紀」に死亡記事が残っている。近衛、将曹、将監と勤勉に勤め上げ、宿衛怠らず、従四位下となったこと、そして「好愛鷹犬」という四文字がわざわざ記されている。

 よく鷹犬を愛した。桓武天皇が交野で行なった「放鷹遊獦」で鷹犬を伴って活躍したことが想像される。

 

 話を続けると、上記の七氏は、百済から上毛野君の先祖によって日本に連れてこられたという伝承をもっている。

 上毛野臣(君、朝臣)といえば、鷹飼男子像の6世紀後半の埴輪が出土した群馬県太田市、伊勢崎市辺りを支配した氏族。隣の「下毛野臣」(現栃木県辺り)のほか、大野、佐味、池田、車持の同族六氏で東国を治めたとされる。

 上毛野の同祖とするものは三十六氏にも及び、この摂津河内和泉国境の鷹甘部の百済系渡来氏族も含まれるのだった。

 

 先祖の名前は「竹葉瀬」で、たかはせと呼ぶ。「新撰姓氏録」では「多奇波世」と表記している。

 いずれにせよ、「タカハセ」を同祖とする上毛野グループが鷹狩技法を伝承しているのは見過ごせない。

 このほか、百済系渡来氏族の田辺史も同祖氏族にあたり、750年に上毛野君の姓を得、810年に上毛野朝臣となっている。田辺史は継体天皇を支えた氏族として知られているが、同天皇の墳墓として有力視されている今城塚古墳から、鷹匠らしき埴輪が出土したのは、前に記したとおり。継体天皇の鷹狩は田辺史がもたらしたと考えればわかりやすい。

 さて「多奇波世(たかはせ)」のように、「奇」を「か」と読ませるのは、百済本記を元にした「欽明紀」に集中しているのだという。百済の独特の表記らしい。百済本記は7世紀ごろの編集で、5世紀はもちろん6世紀にもさかのぼらない。

 

 こう考えてくると、「仁徳紀」の鷹狩記事は、大宝律令の制定(701)の実質的指導者だった下毛野古麻呂がカギを握っているように思われてくる。藤原不比等の元で活躍した古麻呂は、上毛野グループの人物の中でも突出した知識の持ち主だったことは間違いない。

 大宝律令の19年後の完成された日本書紀(720年)の編集にあたって、古麻呂も関与し、古事記の仁徳の条にはない、毛野一族の鷹狩伝承を「仁徳紀」にはめ込んだと考えるのが自然だと思われる。

 問題はこの伝承が仁徳天皇の治世まで遡るのかどうか。考古学的にも、文献からも、現段階ではせいぜい、継体天皇の時代あたりまでではないか、と思われるのだった。