帝都復興の検印紙を見つけた

 古本の著者検印について、しばらく書いていないが、興味深い検印紙と出くわした。「帝都復興に 努力しませう」と、大正12年9月1日に発生した関東大震災被災後に、特別に拵えた紅玉堂書店の検印紙を見つけたのだ。

 

 

 同出版社の住所は、東京市日本橋区元大工町。JR東京駅八重洲北口を出た辺りにあったようだ。同社の通常の検印紙は、ご覧のとおり=写真下=。

 樹の枝が伸び、鳥が左右で向かい合っているデザイン。帝都復興に賛同して、別途検印紙を拵えたことになる。

 

 検印紙を見つけたのは「新釈香川景樹歌集」。江戸時代末の京の歌人香川景樹の作品を、歌人窪田空穂の門下半田良平が評釈したものだ。大正14年2月の4刷に貼られている。震災後1年半たった時期だ。

 帝都復興の検印紙がほかで見つかるか、国会図書館デジタルアーカイブで探したが、紅玉堂の刊行物でもなかなか見つからない。やっと見つけたのが、震災7か月後の大正13年4月14日発行の「新釈大隈言道歌集」。これも編者は半田良平だった。

 続いて、同年6月17日発行の大泉黒石「人生見物」が見つかった。

 紅玉堂書店は、大正9年ごろから歌集を中心に出版業を開始したらしい。石川啄木、窪田空穂の歌集など詩歌関連のほか、ルパン、ホームズ、ファントマといった翻訳本を手がけた。

 同社の代表は前田隆一氏。震災後に、印刷所を確保できたことが大きかったようだ(神田区豊島町=現・東神田、岩本町辺り=の豊盛堂・東京印刷合名社)。

 翌13年には歌集(西村陽吉「第一の街」、松村英一「やますげ」、土岐善麿「緑の斜面」、半田良平「野づかさ」、尾山篤二郎「処女歌集」、豊島逃水「ゆく春」)、詩集(新島栄治「隣人」)、評論(窪田空穂「短歌随見」、花田比露思「歌に就ての考察」、服部亮英「スケッチと漫画自在」)。ほかにも上記の大泉の小説など数えきれない発行物がある。

 

 前に大阪の出版社の創元社を調べていて、大正12年の震災後、東京の出版界は壊滅し、印刷、製本の注文が京阪に押し寄せたことを知った。谷崎潤一郎ら作家も住まいを関西に移し、当分出版事業は関西がリードすることになると地元は考えていたー。

 ところが、後藤新平がラッパを吹いての帝都復興は着実に進行。大正14年には東京の出版界も予想を上回る速さで復興を遂げたのだった。

 

 紅玉堂の「帝都復興」の検印紙は、焦土から立ち上がった東京の出版界の心意気を伝える貴重なもののように思えて来た。

未乾画伯と壽岳文章

 「書物」の訳編者壽岳文章(1900-1992)という人物は大した方なのであるが、前に「セルボーン博物誌」(岩波文庫、49年)の訳者として触れたことがある。

 ホワイトが1767年に刊行した英国南部の動物誌「セルボーンの博物誌」の翻訳にあたって、壽岳は挿絵に英国北東部の木版画家ビューイックの作品を選んで岩波文庫にしたのだった。鳥類学者ハーディングが再編集した改版「セルボーンの博物誌」(1876)がビューイックを用いたのを参考に、自分なりに挿絵を選んだのだった。注釈もしっかりしていて、実に丁寧な本作りをする人物なのだ、と思った。

 若き頃、壽岳は柳宗悦民芸運動に参加し、全国の和紙作りの里をめぐり和紙研究に打ち込んだ。英文学の教壇に立つ一方、ウイリアム・ブレイクの書誌、紙漉村旅日記など、自宅で自ら見事な本作りをした。 

 壽岳は1924年京都帝大に入学以来、33年まで南禅寺周辺に住んでいて、船川未乾画伯と親交があったというのを知った。1930年に刊行された壽岳文章「書誌学とは何か」(ぐろりあそあえて)の扉の絵は、未乾のものだと中島俊郎甲南大名誉教授が推測した文章に出くわしたのだ。木の下で読書する人物の版画。

 根拠は示していないが、「近くに住んでいて交流していた船川未乾の絵筆になるものであろう」(「壽岳文章と読書甲南大学紀要文学編23年3月)と記している。昭和5年、本が上梓された年に未乾は没し、出来上がった本は見ていないことになる。この時、画伯は装幀が出来る体力を持ち合わせていなかったのかもしれない。

 その時の2人の年齢は未乾43歳、壽岳30歳。創元社の刊行本の装幀をしながら、壽岳のいうところの「書物演出家(book producer)」としても活躍していた未乾と、壽岳は本作りについて数年に亘って意見を交わしたのではなかったかと想像された。

 壽岳は、装幀など本作りの知識をさらに深めていく。震災後24年から京都へ移転していた柳宗悦との交流や、京都帝大の新村出教授とが、影響を与えた人物として知られるが、未乾もまたその一人に数えていいのかもしれない。

 出版元のぐろりあそさえての伊藤長蔵を紹介したのは新村出だったと、同書に記されているが、実は3年前に未乾はぐろりあそさえてが刊行した小田秀人「本能の聲」の装丁をしている。

 今まで追いかけて来た幻の洋画家船川未乾については、次の猫本3で扱う予定だが、未乾が壽岳と接点があり、京に滞在していた柳の民芸運動との関係を伺わせ、まだまだ未乾画伯に就いて分かっていないことに気が付いたのである。

 

 

 

 

 

 

 

猫本作りに熱が入って

 2冊目の猫本が出来た。

 人に読んでもらいたいと思ったわけでなく、こういう本を作りたいと思ったのである。限られた部数の私家版で―。 

 

 知り合いの編集スタジオのスタッフに、長谷川巳之吉第一書房が刊行した「野口米次郎ブックレット」を手渡し、「このサイズ、この活字の組み方で、本作りをしたい」とお願いしたのだった。

 ブックレットは、大正14-昭和2年に作られた100頁ほどの薄手のハードカバーで、35巻まで刊行された。

 

 神保町の古書店で見つけて、サイズ、本の薄さが気にいった。軽くて持ち歩ける大きさのハードカバー。活字の組みは、1頁12行で1行33字。同じように組んでもらった。1頁最大396字なので、ゆったりと読める。

 

 

 本のサイズは今使われていない変形のものだった。できるだけ近くとお願いした。

 再現出来ないことが分かったのは製本だった。100頁ちょっとの薄い本なので、大正時代のこの本のように、本の背を丸くして綴じる技術が今はないといわれた。うーん、と唸ったが、平たい背で我慢した。紙は中質紙を探してもらった。

 最初の猫本は2023年に出来上がった。一部の人は、手に持った瞬間、変わった本作りに気づいてくれた。事務所近くの明治からの印章店の主人は「随分マニアックな本ですな」と読後の感想を述べた。

 2冊目が出来上がると、「おっ、シリーズ本なんですね」と70年代に一世を風靡した詩人は面白がってくれた。

 茶系の地味な装幀で2冊目は茶のニュアンスを少し変えて拵えてくれた。文中の小さなカラー写真をより多く使った。

 

 猫本の扉

 今の年齢になって、子供のころから本を作りたいと思っていたことが分かった。小学生の時、国鉄(JR)の切符に刻まれた各駅の鋏の形の違いを書いた小さな本を拵えたのを思い出した。中学生の時にはガリ版で「邪馬台国」の本を作りだし、途中で挫折した。数ページで書くことが尽きてしまったからだった。

 

 工作するように本を作るのが楽しいのだった。

「人間の生活に正しいものと正しからぬものがあるやうに、書物の内容にも正しいものと正しからぬものとがあり、書物の外装にも正しいものと正しからぬものとがある」昭和11年に刊行された壽岳文章の訳編「書物」には、凄いことが書かれている。

  正しくない生活を送ってきた自分なんぞは、たじろいでしまう文章だ。

「人間の生活が多くの困難に耐へねばならぬやうに、書物の生活も多くの逆境に耐へねばならぬ。即ち知る、紙葉はいつまでも強靭に、印字はいつまでも読みやすく、装幀はいつまでも崩れないところに書物の外装の正しい生活があり、この生活を統一して、つつましくはあれど裕なうるおひを与へるところに、書物の外装の正しい美しさがあることを。」

 

 私は、ささやかな「外装の正しい本作り」を手探りで始めながら、暮らしを楽しんでいる。「人間の生活の正しいもの」とやらに近づきたいとは思ってはいないが、3冊目の制作に取り掛かっている。35巻は難しいが、5巻くらいまでできあがれば、何かが見えてくる予感がするのだ。

 

 

 

 

銀猫を31両で売った西行法師

 北尾派の祖で、江戸時代中期に江戸の絵本を仕切っていた絵師北尾重政(1739-1820)の門下には、優秀な3人が居た。絵師としてばかりか戯作者として活躍するものもいた。

 窪俊満(南陀伽紫蘭。1757-1820)

 北尾政演(山東京伝。1761-1816)

 北尾政美(鍬形蕙斎。1764-1824)

 

 彼ら3人とも、西行源頼朝から下賜された銀猫を作品化していることに気づいた。

 前に取りあげたように、俊満は「鎌倉志」(1816年)で、「円位上人里童ニ銀猫をとらす」図を描き、蕙斎は樹下石上「人間万事西行猫」(1790)で銀猫ばかりか金猫の画も描いた。

   

 残る山東京伝は、銀猫の絵は描かなかったが、銀猫が登場する黄表紙を残していたのだった。

「小倉山時雨珍説(おぐらやましぐれのちんせつ)」(1788)とそれを基に芝全交の名で刊行した「百人一首戯講訳(ひゃくにんいっしゅおどけこうしゃく)」(1794)。

 いずれも、百人一首に登場する歌人を江戸に置き換えた戯作で、後者では小野小町の妹、小式部内侍が在原業平と駆け落ち。西行が借金で苦しむ甥(実際はもちろん違う)の業平のために、頼朝から拝領した銀猫を蝉丸法師に預けて金を工面するというものだ。

やり取りは以下の通り。

西行法師は、業平のおぢ坊主なりしが、業平が金ゆへに恥をかきしときき、気の毒に思ひ、頼朝公より賜りし、しろかねの猫をたづさへきたり、蝉丸に相談して、金三十一両に売りしろなし、業平が恥をすすいでやらんと思ふ」

 蝉丸は、お互い歌人だから「みそひともじの三十一両で手を打ちな」、「発句にして十七両に負けるきか」と駆け引きすると、

 西行は「せめて字あまりか、せんどう歌(旋頭歌、五七七、五七七=38両)のつもりで買ってくんなさい。わしといっしょにこしらえてある、今戸焼きの猫とは違ふよ」と吹っ掛ける。

 西行は、銀作りの猫は、江戸で人気の土人形、今戸焼の招き猫=下図=とは違うのだという。面白いのは「わしといっしょにこしらえてある」と西行の人形が今戸焼で作られたことが、このやり取りで分かることだ。伏見人形に西行があったように、今戸でも西行法師はフィギュア化されていたのだ。 

 さて、「百人一首戯講訳」の画は歌川豊国(1769-1825)が任された。

 西行の掌の銀猫をクローズアップすると=下図=、漫画のような顔で愛嬌はなくもないが、背中、尻尾は点線が描かれるだけで、全体の捉え方が明瞭でない。

 

 上記の窪俊満の銀猫もぼんやりした固まりのようだし、デッサン力がしっかりした蕙斎には、敵わないように見える。

 豊国は役者絵、芝居絵で一世を風靡するが、猫は苦手だったのだろうか。三代目豊国(国貞、1786-1865)が化け猫の絵を得意としただけに、興味が湧く。

 

 

 

五劫院の見返り地蔵と大仏殿の女人参詣

 見返り仏について探っているが、次に地蔵ついて整理してみた。

 日本の中世、どうして地蔵がクローズアップされたのだろう。

 どうやら日本製の経典(偽経)が大きく働いているようなのだ。

 まずは、地蔵を慕う老尼の姿を追ってみる。

 

 地藏は忙しく毎朝歩き回っている。それを聞き知った丹後国の老尼が、一目見ようと早朝に歩き回ったことが、13世紀初めの「宇治拾遺物語」に書かれている(1-16《尼、地蔵見奉る事》)。

 老いた尼は、「仏説延命地蔵菩薩経」の一節を知ったらしい。同経には、地蔵は毎朝、六道(天道 人間道 修羅道 畜生道 餓鬼道 地獄道)に出かけて、苦を除き楽を与えていると記されている。人間道でも朝方に探せば地蔵に出会えると思ったようだ。

 この話は、博打打ちがこの老尼を「じぞうにあわせてやる」と騙すものだ。この男は尼を、とある家に連れて行き、待っていろといって、報酬を手に去ってしまう。外から「じぞう」という名の子供が戻って来ると、尼は、本物の地蔵だと思い込みその場で満足顔で絶命した、というのだ。

 1052年、正法、像法の時代が過ぎ、世の中は仏の力がなくなる「末法」が始まり、地蔵菩薩だけが人間を救える、という考えが広まっていたことが、この話からも伺える。

 同経によれば、人は三途の川で地蔵を見、或は名前を聞いただけでも、天上世界や浄土に生まれ変わるのだという。末世になって、阿弥陀如来の役割を地藏菩薩が担っていると考える人も多かったろう。

 東大寺の北にある五劫院の「見返り地蔵」の石仏について考えてみる。永正13年(1516)の刻銘があることは前に記した。

 実は東大寺ではこの年4月、大きなイベントが開催された。8年前に焼失した講堂の本尊脇侍(千手観音、地蔵菩薩虚空蔵菩薩)の再造の資金集めのため、大仏殿内に女人の参詣を認めたのだ。散銭、寄付してでも、一目大仏を拝顔したい比丘尼衆生で長い列が出来たのだという。

 女人の地蔵信仰も力を貸したのであろう。焼けた講堂の地蔵はそもそもは光明皇后が日本で初めて造ったといわれていた。

 この企画が象徴するように、東大寺は荘園からの財源に頼れなくなり、新しい寺の運営方法を探っていたようだ。主要行事も、学侶、堂衆らが開催する法会「十二大会」から、大衆に開いた「追善講」へと移っていったのだという。

 この年、五劫院に造立された「見返り地蔵」は、東大寺僧恵順が菩提供養のため造立したと刻まれているという。東大寺の動きを反映する石仏なのだった。

 

 地蔵盆盂蘭盆、追善法要で大きな役割を果たす地蔵。東大寺末寺で、地蔵が「見返り地藏」の形をとっているのは大変興味深い。前に記したように東大寺東南院で学んだ永観の「見返り阿弥陀」を思い起こしてしまうのだ。

 

 さて、東大寺東南院を三論教学の拠点とした聖宝は、真言宗醍醐寺三宝院の修験道(当山派修験道)の祖であった。当山派修験道天台宗・聖護院派の修験道(本山派)としのぎを削りながら全国に拡大していった。東国では、1486年聖護院門跡の道興准后が本山派の拡大のため廻国したため、当山派修験道は圧倒されたが、やがて禅宗寺院(臨済宗曹洞宗)とともに巻き返しを図った。

 埼玉県東松山市の「見返り地蔵」の近くにある岩殿観音正法寺真言宗寺院であり、天正19年(1591)には、脇坊4寺とともに、修験の2院(正学院、正存院)があった記録がある。

「見返り地蔵」は、当山派修験道が行った追善供養で造られたものではないか。

 聖宝、永観の三論の教えのさざ波が武蔵国に届いていた、その証が「見返り地蔵」であると想像してみる。

 

 ただし、小川町にある見返り地蔵のある「龍谷薬師堂」が曹洞宗寺院である理由は未解決である。

 

 

 

 

 

 

 

 

見かえり阿弥陀像と東大寺東南院

 普段は公開されないが、京都東山の永観堂禅林寺に見返り阿弥陀如来像が安置されている。顔を左に向け、肩越しに視線をやっている。

「本尊みかへり阿弥陀仏は世に名高し」(「京都名勝帖」明治42年、風月堂)と、珍しい仏の姿は古くから信仰されてきたことが分かる。

 

「京都東山永観堂禅林寺略伝」(青井俊法編、明治28年)に目を通した。

 仏はもともと東大寺秘仏で、正面を向いていた。禅林寺の永観(ようかん、1033-1111)が東大寺勧進職として3年務めた際、この仏を深く信仰し、退任時、背に負って持ち出した。東大寺の宗徒は憤然と追いかけ、宇治の木幡山辺で追いついたが、「如来ハ恰モ小児ノ母ノ背ニ於ケルガ如ク律師ノ背ヲ離レ玉ハズ」、宗徒はあきらめて帰り、時の白河天皇も「永観有縁ノ尊像ナルベシ」と許可をしたという。

 見返りの姿に変わったのは、永保2年(1082)2月15日晨朝。桜の咲く、きさらぎの望月のころ、ではないか。永観が道場で行道(堂内を読経しながら回る儀式)をすると阿弥陀如来が壇上から降り、先に立ってともに行道した。律師が感涙の余り、乾(西北)の隅で躊躇した時、如来が左に振り向き、「永観遅し」と告げた。

 律師はこの「顧リノ尊容ヲ依然永代ニ留メ末世ノ衆生ヲ済度シ玉ヘ」と誓願し、如来もそれに応えて今の形となり、「回顧阿弥陀如来」と号したのだという。

 

 もちろん信じがたいが、永観と如来像の超親密な関係は伝わってくる。見返り如来像はそもそも東大寺にあったか、あるいは永観が指示して制作したかのどちらかだろう。

 カギは東大寺にありそうだ。永観が学んだのは、三論教学の拠点の東大寺東南院だった。南都六宗のひとつ三論宗は、平安時代になると宗派としての独立性は失われたが、教学的に真言宗天台宗に大きな影響を与えた。「八不」「中道」と正直分かりにくいが、分別の哲学を排する反ドグマの傾向が特徴のようだ(自信はないが)。

 その重要人物が、聖宝(しょうぼう、832-909)で、鬼神が出る、と誰も利用しなかった東南院に入り拠点を作った伝説が残されている。

 法相宗三論宗など南都六宗は総じて、教学とともに実践修行(瑜伽)が重視されたものの、教学に傾く傾向があったようだ。瑜伽は、役行者のような山岳修行として、奈良盆地を取り巻く葛城、金剛、吉野、多武峰などの山林で行われたと考えられる。

 聖宝は、寂れていた吉野金峰山の山岳修行を整備、復興し、自らも笠取山の山上に醍醐寺上醍醐)を開創したのだった。宇多天皇らが支援し、東寺長者、僧正と真言宗の僧として地位を昇りつめたが、聖宝の面目は三論教学が持つ実践の精神だったと考えられる。

 永観は東南院浄土教を学び、民衆への布教に力を注いだが、これも聖宝の分別を排する実践精神を受け継いだように見える。

 聖宝の逸話で有名なものがある。貪欲な上位僧のおかげで、東大寺の僧たちは支給が不足していた。上位僧と賭けをした聖宝は、人出で賑わう賀茂祭で褌姿に干鮭を太刀として差し、牝牛に乗って大声で名乗りながら通るという、上位僧の無理難題をやってのけ、ハナをあかしたというものだ。

 仏像を東大寺から持ち出し、背負って京都東山に向かったという永観の逸話は、聖宝と似た精神が伝わる。儀軌という仏像制作の細かな規則に縛られず、顔を曲げた如来像を拵えてしまう大胆さも同様だ。

 

 永観の歌が「千載和歌集」(1183)の巻19釈教に残されている。

「みな人を渡さむと思ふ心こそ極楽にゆくしるべなりけれ」

 歌としては、説経臭く面白みはないが、「一人残さず、皆で極楽に行くのだ」という永観の強い意志を感じさせることは確かで、こぼれて居るものはないかと振り返る「見返り阿弥陀仏」の姿とは確かにつながっている。

 東大寺東南院の2人の三論宗の僧と、武蔵の見返り地蔵とどういう関係が見つかるのか。あるいは見つからないのか。さらに探ってみる。

 

 

 

 

見返り地蔵と目蓮口説

 孫たちが埼玉県こども動物自然公園東松山市)に行ってポニーに乗ってきたと喜んでいる。動物公園から坂を上った近くに岩殿観音があり、今度は一緒に寺の近くを散策したいと思う。寺の参道を下って行くと、阿弥陀堂跡に池があり、立派な板碑や石仏が並んでいる。そこに気になる地藏石像が混じっているのだ。

 

 

 錫杖を両手で持ち、頭を左にひねり、振り返る姿。初めて見た時、どきりとした。蓮台の上に龕が作られ、その中に厚肉彫りで「見返り地蔵」が作られている。石工の思いが伝わるものだった。

 野ざらしの地蔵は大概、立像でも坐像でも正面を向いている。地藏の短歌で忘れがたいのがある。

「ならざかのいしのほとけのおとがひにこさめながるるはるはきにけり」

(奈良坂の石の仏の頤に小雨流るる春は来にけり)。

 歌人会津八一は旅人として奈良を廻り、般若寺近くの地蔵立像のあごに雨が流れる様子を見、春の到来を感じたのだった。地藏はその土地に馴染み、住民、子供達を見守り、正面を見据えている存在である、ふつうは。

 

 

 どうして振り返る地藏が生まれたのだろう。岩殿観音近くを流れる都幾川、槻川の上流、小川町の龍谷薬師堂(平安末の薬師如来像を安置)にも、同様の「見返り地蔵」があることが分かった。元禄12年(1699)の銘があるという。

 離れた場所では、奈良市東大寺の末寺、五劫院に高さ2mの立派な「見返り地蔵」があった。右手の錫杖を肩に当て、右足を前に出し、左を振り向く姿。衣の裾が後ろになびいている。歩いている地蔵が、振り向く様を描いているよう。永正13年(1516)の刻銘があり、さらに古いものだった。

「見返り地蔵」という用語も見つからない。やっと、藤沢衛彦「日本民謡の流」(昭和9年、東明堂)で、盆踊りで歌われた口説節(躍口説というらしい)に「見返り地蔵」という言葉があるのを見つけた。目蓮という仏弟子が、地獄(餓鬼道)に堕ちた母を救う「目連救母」の説話。 

 

〽釈迦の御弟子の目蓮が(ドッコイ)

恒沙の川へ修行に出て(ソラヨーホイヨーホイヨーイヤセー)

見返り地蔵に逢ひました(ソラヨーホイヨーホイヨーイヤセー)

其時目蓮申すには、いかになうこれ地藏さん、私こそと申するは、母に別れて六年目、母の行方が分りません、どうぞ教へてくださんせ」

 

 見返り地蔵は、歌に出てくるほど知られる地蔵だったことになる。しかし沢山ある目蓮の口説の中で他には、「見返り地蔵」は見当たらない。またこの口説がどの地方のものであるかも記されていない。

 室町時代に生まれたらしい口説は、やがて木遣り音頭に取り入れられ、江戸時代初めの17世紀半ばには、お盆の躍(おどり)口説として各地で広まったという。

 流行時期は、小川町の元禄時代の見返り地蔵の制作年代とも重なっている。

 見返り地蔵のことはわからないことだらけ。京都・東山の永観堂の見返り阿弥陀仏をヒントにさらに考えてみた。