銀猫を31両で売った西行法師

 北尾派の祖で、江戸時代中期に江戸の絵本を仕切っていた絵師北尾重政(1739-1820)の門下には、優秀な3人が居た。絵師としてばかりか戯作者として活躍するものもいた。

 窪俊満(南陀伽紫蘭。1757-1820)

 北尾政演(山東京伝。1761-1816)

 北尾政美(鍬形蕙斎。1764-1824)

 

 彼ら3人とも、西行源頼朝から下賜された銀猫を作品化していることに気づいた。

 前に取りあげたように、俊満は「鎌倉志」(1816年)で、「円位上人里童ニ銀猫をとらす」図を描き、蕙斎は樹下石上「人間万事西行猫」(1790)で銀猫ばかりか金猫の画も描いた。

   

 残る山東京伝は、銀猫の絵は描かなかったが、銀猫が登場する黄表紙を残していたのだった。

「小倉山時雨珍説(おぐらやましぐれのちんせつ)」(1788)とそれを基に芝全交の名で刊行した「百人一首戯講訳(ひゃくにんいっしゅおどけこうしゃく)」(1794)。

 いずれも、百人一首に登場する歌人を江戸に置き換えた戯作で、後者では小野小町の妹、小式部内侍が在原業平と駆け落ち。西行が借金で苦しむ甥(実際はもちろん違う)の業平のために、頼朝から拝領した銀猫を蝉丸法師に預けて金を工面するというものだ。

やり取りは以下の通り。

西行法師は、業平のおぢ坊主なりしが、業平が金ゆへに恥をかきしときき、気の毒に思ひ、頼朝公より賜りし、しろかねの猫をたづさへきたり、蝉丸に相談して、金三十一両に売りしろなし、業平が恥をすすいでやらんと思ふ」

 蝉丸は、お互い歌人だから「みそひともじの三十一両で手を打ちな」、「発句にして十七両に負けるきか」と駆け引きすると、

 西行は「せめて字あまりか、せんどう歌(旋頭歌、五七七、五七七=38両)のつもりで買ってくんなさい。わしといっしょにこしらえてある、今戸焼きの猫とは違ふよ」と吹っ掛ける。

 西行は、銀作りの猫は、江戸で人気の土人形、今戸焼の招き猫=下図=とは違うのだという。面白いのは「わしといっしょにこしらえてある」と西行の人形が今戸焼で作られたことが、このやり取りで分かることだ。伏見人形に西行があったように、今戸でも西行法師はフィギュア化されていたのだ。 

 さて、「百人一首戯講訳」の画は歌川豊国(1769-1825)が任された。

 西行の掌の銀猫をクローズアップすると=下図=、漫画のような顔で愛嬌はなくもないが、背中、尻尾は点線が描かれるだけで、全体の捉え方が明瞭でない。

 

 上記の窪俊満の銀猫もぼんやりした固まりのようだし、デッサン力がしっかりした蕙斎には、敵わないように見える。

 豊国は役者絵、芝居絵で一世を風靡するが、猫は苦手だったのだろうか。三代目豊国(国貞、1786-1865)が化け猫の絵を得意としただけに、興味が湧く。

 

 

 

五劫院の見返り地蔵と大仏殿の女人参詣

 見返り仏について探っているが、次に地蔵ついて整理してみた。

 日本の中世、どうして地蔵がクローズアップされたのだろう。

 どうやら日本製の経典(偽経)が大きく働いているようなのだ。

 まずは、地蔵を慕う老尼の姿を追ってみる。

 

 地藏は忙しく毎朝歩き回っている。それを聞き知った丹後国の老尼が、一目見ようと早朝に歩き回ったことが、13世紀初めの「宇治拾遺物語」に書かれている(1-16《尼、地蔵見奉る事》)。

 老いた尼は、「仏説延命地蔵菩薩経」の一節を知ったらしい。同経には、地蔵は毎朝、六道(天道 人間道 修羅道 畜生道 餓鬼道 地獄道)に出かけて、苦を除き楽を与えていると記されている。人間道でも朝方に探せば地蔵に出会えると思ったようだ。

 この話は、博打打ちがこの老尼を「じぞうにあわせてやる」と騙すものだ。この男は尼を、とある家に連れて行き、待っていろといって、報酬を手に去ってしまう。外から「じぞう」という名の子供が戻って来ると、尼は、本物の地蔵だと思い込みその場で満足顔で絶命した、というのだ。

 1052年、正法、像法の時代が過ぎ、世の中は仏の力がなくなる「末法」が始まり、地蔵菩薩だけが人間を救える、という考えが広まっていたことが、この話からも伺える。

 同経によれば、人は三途の川で地蔵を見、或は名前を聞いただけでも、天上世界や浄土に生まれ変わるのだという。末世になって、阿弥陀如来の役割を地藏菩薩が担っていると考える人も多かったろう。

 東大寺の北にある五劫院の「見返り地蔵」の石仏について考えてみる。永正13年(1516)の刻銘があることは前に記した。

 実は東大寺ではこの年4月、大きなイベントが開催された。8年前に焼失した講堂の本尊脇侍(千手観音、地蔵菩薩虚空蔵菩薩)の再造の資金集めのため、大仏殿内に女人の参詣を認めたのだ。散銭、寄付してでも、一目大仏を拝顔したい比丘尼衆生で長い列が出来たのだという。

 女人の地蔵信仰も力を貸したのであろう。焼けた講堂の地蔵はそもそもは光明皇后が日本で初めて造ったといわれていた。

 この企画が象徴するように、東大寺は荘園からの財源に頼れなくなり、新しい寺の運営方法を探っていたようだ。主要行事も、学侶、堂衆らが開催する法会「十二大会」から、大衆に開いた「追善講」へと移っていったのだという。

 この年、五劫院に造立された「見返り地蔵」は、東大寺僧恵順が菩提供養のため造立したと刻まれているという。東大寺の動きを反映する石仏なのだった。

 

 地蔵盆盂蘭盆、追善法要で大きな役割を果たす地蔵。東大寺末寺で、地蔵が「見返り地藏」の形をとっているのは大変興味深い。前に記したように東大寺東南院で学んだ永観の「見返り阿弥陀」を思い起こしてしまうのだ。

 

 さて、東大寺東南院を三論教学の拠点とした聖宝は、真言宗醍醐寺三宝院の修験道(当山派修験道)の祖であった。当山派修験道天台宗・聖護院派の修験道(本山派)としのぎを削りながら全国に拡大していった。東国では、1486年聖護院門跡の道興准后が本山派の拡大のため廻国したため、当山派修験道は圧倒されたが、やがて禅宗寺院(臨済宗曹洞宗)とともに巻き返しを図った。

 埼玉県東松山市の「見返り地蔵」の近くにある岩殿観音正法寺真言宗寺院であり、天正19年(1591)には、脇坊4寺とともに、修験の2院(正学院、正存院)があった記録がある。

「見返り地蔵」は、当山派修験道が行った追善供養で造られたものではないか。

 聖宝、永観の三論の教えのさざ波が武蔵国に届いていた、その証が「見返り地蔵」であると想像してみる。

 

 ただし、小川町にある見返り地蔵のある「龍谷薬師堂」が曹洞宗寺院である理由は未解決である。

 

 

 

 

 

 

 

 

見かえり阿弥陀像と東大寺東南院

 普段は公開されないが、京都東山の永観堂禅林寺に見返り阿弥陀如来像が安置されている。顔を左に向け、肩越しに視線をやっている。

「本尊みかへり阿弥陀仏は世に名高し」(「京都名勝帖」明治42年、風月堂)と、珍しい仏の姿は古くから信仰されてきたことが分かる。

 

「京都東山永観堂禅林寺略伝」(青井俊法編、明治28年)に目を通した。

 仏はもともと東大寺秘仏で、正面を向いていた。禅林寺の永観(ようかん、1033-1111)が東大寺勧進職として3年務めた際、この仏を深く信仰し、退任時、背に負って持ち出した。東大寺の宗徒は憤然と追いかけ、宇治の木幡山辺で追いついたが、「如来ハ恰モ小児ノ母ノ背ニ於ケルガ如ク律師ノ背ヲ離レ玉ハズ」、宗徒はあきらめて帰り、時の白河天皇も「永観有縁ノ尊像ナルベシ」と許可をしたという。

 見返りの姿に変わったのは、永保2年(1082)2月15日晨朝。桜の咲く、きさらぎの望月のころ、ではないか。永観が道場で行道(堂内を読経しながら回る儀式)をすると阿弥陀如来が壇上から降り、先に立ってともに行道した。律師が感涙の余り、乾(西北)の隅で躊躇した時、如来が左に振り向き、「永観遅し」と告げた。

 律師はこの「顧リノ尊容ヲ依然永代ニ留メ末世ノ衆生ヲ済度シ玉ヘ」と誓願し、如来もそれに応えて今の形となり、「回顧阿弥陀如来」と号したのだという。

 

 もちろん信じがたいが、永観と如来像の超親密な関係は伝わってくる。見返り如来像はそもそも東大寺にあったか、あるいは永観が指示して制作したかのどちらかだろう。

 カギは東大寺にありそうだ。永観が学んだのは、三論教学の拠点の東大寺東南院だった。南都六宗のひとつ三論宗は、平安時代になると宗派としての独立性は失われたが、教学的に真言宗天台宗に大きな影響を与えた。「八不」「中道」と正直分かりにくいが、分別の哲学を排する反ドグマの傾向が特徴のようだ(自信はないが)。

 その重要人物が、聖宝(しょうぼう、832-909)で、鬼神が出る、と誰も利用しなかった東南院に入り拠点を作った伝説が残されている。

 法相宗三論宗など南都六宗は総じて、教学とともに実践修行(瑜伽)が重視されたものの、教学に傾く傾向があったようだ。瑜伽は、役行者のような山岳修行として、奈良盆地を取り巻く葛城、金剛、吉野、多武峰などの山林で行われたと考えられる。

 聖宝は、寂れていた吉野金峰山の山岳修行を整備、復興し、自らも笠取山の山上に醍醐寺上醍醐)を開創したのだった。宇多天皇らが支援し、東寺長者、僧正と真言宗の僧として地位を昇りつめたが、聖宝の面目は三論教学が持つ実践の精神だったと考えられる。

 永観は東南院浄土教を学び、民衆への布教に力を注いだが、これも聖宝の分別を排する実践精神を受け継いだように見える。

 聖宝の逸話で有名なものがある。貪欲な上位僧のおかげで、東大寺の僧たちは支給が不足していた。上位僧と賭けをした聖宝は、人出で賑わう賀茂祭で褌姿に干鮭を太刀として差し、牝牛に乗って大声で名乗りながら通るという、上位僧の無理難題をやってのけ、ハナをあかしたというものだ。

 仏像を東大寺から持ち出し、背負って京都東山に向かったという永観の逸話は、聖宝と似た精神が伝わる。儀軌という仏像制作の細かな規則に縛られず、顔を曲げた如来像を拵えてしまう大胆さも同様だ。

 

 永観の歌が「千載和歌集」(1183)の巻19釈教に残されている。

「みな人を渡さむと思ふ心こそ極楽にゆくしるべなりけれ」

 歌としては、説経臭く面白みはないが、「一人残さず、皆で極楽に行くのだ」という永観の強い意志を感じさせることは確かで、こぼれて居るものはないかと振り返る「見返り阿弥陀仏」の姿とは確かにつながっている。

 東大寺東南院の2人の三論宗の僧と、武蔵の見返り地蔵とどういう関係が見つかるのか。あるいは見つからないのか。さらに探ってみる。

 

 

 

 

見返り地蔵と目蓮口説

 孫たちが埼玉県こども動物自然公園東松山市)に行ってポニーに乗ってきたと喜んでいる。動物公園から坂を上った近くに岩殿観音があり、今度は一緒に寺の近くを散策したいと思う。寺の参道を下って行くと、阿弥陀堂跡に池があり、立派な板碑や石仏が並んでいる。そこに気になる地藏石像が混じっているのだ。

 

 

 錫杖を両手で持ち、頭を左にひねり、振り返る姿。初めて見た時、どきりとした。蓮台の上に龕が作られ、その中に厚肉彫りで「見返り地蔵」が作られている。石工の思いが伝わるものだった。

 野ざらしの地蔵は大概、立像でも坐像でも正面を向いている。地藏の短歌で忘れがたいのがある。

「ならざかのいしのほとけのおとがひにこさめながるるはるはきにけり」

(奈良坂の石の仏の頤に小雨流るる春は来にけり)。

 歌人会津八一は旅人として奈良を廻り、般若寺近くの地蔵立像のあごに雨が流れる様子を見、春の到来を感じたのだった。地藏はその土地に馴染み、住民、子供達を見守り、正面を見据えている存在である、ふつうは。

 

 

 どうして振り返る地藏が生まれたのだろう。岩殿観音近くを流れる都幾川、槻川の上流、小川町の龍谷薬師堂(平安末の薬師如来像を安置)にも、同様の「見返り地蔵」があることが分かった。元禄12年(1699)の銘があるという。

 離れた場所では、奈良市東大寺の末寺、五劫院に高さ2mの立派な「見返り地蔵」があった。右手の錫杖を肩に当て、右足を前に出し、左を振り向く姿。衣の裾が後ろになびいている。歩いている地蔵が、振り向く様を描いているよう。永正13年(1516)の刻銘があり、さらに古いものだった。

「見返り地蔵」という用語も見つからない。やっと、藤沢衛彦「日本民謡の流」(昭和9年、東明堂)で、盆踊りで歌われた口説節(躍口説というらしい)に「見返り地蔵」という言葉があるのを見つけた。目蓮という仏弟子が、地獄(餓鬼道)に堕ちた母を救う「目連救母」の説話。 

 

〽釈迦の御弟子の目蓮が(ドッコイ)

恒沙の川へ修行に出て(ソラヨーホイヨーホイヨーイヤセー)

見返り地蔵に逢ひました(ソラヨーホイヨーホイヨーイヤセー)

其時目蓮申すには、いかになうこれ地藏さん、私こそと申するは、母に別れて六年目、母の行方が分りません、どうぞ教へてくださんせ」

 

 見返り地蔵は、歌に出てくるほど知られる地蔵だったことになる。しかし沢山ある目蓮の口説の中で他には、「見返り地蔵」は見当たらない。またこの口説がどの地方のものであるかも記されていない。

 室町時代に生まれたらしい口説は、やがて木遣り音頭に取り入れられ、江戸時代初めの17世紀半ばには、お盆の躍(おどり)口説として各地で広まったという。

 流行時期は、小川町の元禄時代の見返り地蔵の制作年代とも重なっている。

 見返り地蔵のことはわからないことだらけ。京都・東山の永観堂の見返り阿弥陀仏をヒントにさらに考えてみた。

 

 

 

 

 

天平時代のキョンシー

 猫と僵屍を調べて行くうちに、妙な事が分かってきた。キョンシー僵屍の考えが日本に伝わったのは、はるか昔の奈良時代。それも仏典を通してで、しかも、僵屍は、「殺人兵器」だというから、驚いてしまった。

 

 キョンシーは「起屍鬼」と表記されて「本願薬師経鈔」に「起屍鬼の呪法」として登場する。死体を蘇生させて操り、標的の人間を殺す呪法なのだった。

 

 法相宗六祖の一人とされる高僧の善珠(723-797)が「根本説一切有部毘奈耶」などの経典を参考に、この「本願薬師経鈔」を記したらしい(山口敦史「日本霊異記と東アジア仏教」2013年、笠間書院

 

 「日本霊異記と東アジア仏教」には、死体を生き返らせて、指名した人物を殺す呪法の方法が書かれている。

  • 墓場で新しい死体、蟻などに食われていないものを択び香水で洗浄する。
  • 死体に黄色の土を塗り、白布で包み、金の鈴2つを首に掛ける。
  • 死体の両手に刀を持たせ呪文を唱えて、「一輪」に載せると死体が起き上る。
  • 起き上った死体は呪師に「お前は私に誰を殺させるのだ」と聞く。
  • 質問に呪師が答えれば、死体は殺害を実行する。
  • 方法を間違えると呪師が殺される。

 成功した場合も、羊と芭蕉の樹木を殺すこと。それを怠れば呪師が殺される。

 なんとも物騒な経典だ。

 

 著者の善珠は、法相宗唯識学の泰斗であり、インド論理学の「因明学」の祖とされる学問僧だった。秋篠寺の開基、延暦寺根本中堂落慶の折の導師などでも知られている。出自についても入唐し法相を学んだ僧侶玄昉と藤原宮子(聖武天皇母)が密通して生まれた子供であるとか、玄昉と光明皇后の子であると、後年流言が多くの書に取りあげられている(扶桑略記元亨釈書多武峰縁起、七大寺年表)。興味深い人物だ。

 

 大仏開眼に象徴される奈良時代は、仏教興隆の時代の印象が強いが、一方では長屋王の変橘奈良麻呂の乱藤原仲麻呂の乱藤原広嗣の乱と血腥い時代であり、祟りや呪詛などに恐れた時代でもあった。

 

 仏教がもつ包含力やら多面性を(一例ではあるが)「起屍鬼」で知ると、仏教=平和の先入観が目を曇らせて、奈良時代を見誤るような気がした。

 

  それより、呪法でキョンシーの首に金の鈴を掛ける点が興味深い。猫も(飼猫だが)首に鈴をつけている。鈴を手掛かりにもう一歩前に進めないかと思う。

 

 

江南の蚕猫と僵屍伝承

 

 猫が死体をキョンシー僵屍)として生き返らせる話が、中国にあることを知ったのは、劉金挙・夏晶晶「近代初頭に至るまでの日本文芸における『猫』」(札幌大学総合論叢46号、18年10月)でだった。

 WEBで閲覧出来て、「確かな記録はないようであるが、猫に近寄られたら、死んだ人が大暴れをしてしまう伝説が中国各地にある」と書いていた。

 参考文献として「中国民間伝説集」(上海普通書局、1933)をあげていて、「確かな記録はない」中で、貴重な著書のようだった。

 都の中央図書館に収蔵されているらしいが、二の足を踏んでいたところ、澤田瑞穂氏「修訂鬼趣談義」(平河出版社、99年)で紹介されているのが分かった。

 

「中国民間伝説集」の猫の一節「僵屍と老和尚」。以下紹介すると。

 

ある人が死んだ。家人は遺骸を室内の木板の上に横たえておいた。夜間に一匹の猫がその上にきてから、たちまち僵屍に変じ、板の上から這い出して裏口から出ていった

(死体は立ち上がったのではなく、這い出ていったと書かれている)

 家人は内緒にしておいたところ、幾年か後、家の鶏や家鴨がいなくなる変事が続いた。「ある日、一和尚が訪れ、僵屍が鶏などを取って食うことを教えた」。

 和尚は家人を避難させて、僵屍と対決する。

「老和尚ひとり燭を点じ、箒を手にして室に坐する。夜半に物音がしてかの僵屍があらわれ、和尚に跳びかかる。身を躱して箒を投げつけると、僵屍は地に倒れて動かなくなった

 箒で僵屍を退治したのだった。

僵屍は四肢が硬直して自由に屈伸しないので、倒れると二度と起き上がれないのであった。翌日、家人が帰ってみると、瓜や歯は長く伸びておそろしく、膚には細毛が生えて白い冬瓜のようであった」。

新潟県など日本に残る、和尚が化け猫を退治する話とよく似ている)

 

 この話を採集した者によると、「この伝説は長江流域に流布する。人が死んだとき、猫が屍体の脇を通ると復活して、人を見ると抱きつき、人の口から息を吸う。吸われた人はすぐ倒れて死ぬ」と記している。

 揚子江流域でこの説話が広がっていたことが分かる。

 

 さて、揚子江流域の下流の南岸、江南には「蚕猫」の信仰が今も残っている。養蚕の天敵のネズミ退治のため、猫が飼われたのだった。蚕室に置かれて鼠に睨みをきかせる猫の土人形(泥人形)も盛んにつくられた。カラフルな「蚕猫」の人形は、今でも江蘇省無錫市恵山区、浙江省嘉興市海塩県で作られている。(「江南地方の泥蚕猫」日本玩具博物館HP)

 日本でも江戸時代に養蚕が盛んになると、養蚕守護の猫画や、猫のお札が栃木、群馬など各地で作られ蚕室に貼られた。

 山梨県では、泥蚕猫のような土人形の「お猫さん」が作られ下吉田(富士吉田市)で売られていたという。(山梨県立富士山世界遺産センター「富士山と養蚕」)

 

 江戸時代に養蚕振興の波が押し寄せた時、江南地方の僵屍伝承が、猫人形、猫絵、猫札などとともに、日本の農村に紛れ込んできたのではなかったか。

 

 養蚕を副業とする農家では、猫は役立つ一方で、通夜の時だけはご用心と、猫を避ける迷信が日本でも始まったのではなかったか。

 前に中国北京の風習、通夜で死体が立ち上がって暴れないように、足を大麻で縛る「絆脚糸(パンチャオス)」のことを記したが、糸が巻かれている織物の道具(杼、桛)を遺体の上に置くことで絆脚糸のかわりにした風習が、いつの間にか、猫を近づけないおまじないと思われるようになった。

 やっとここまで、たどり着いたが、まだまだ実証不足のようだ。

 

 

 

 

通夜のキョンシー説話と蚕猫

 死体に猫が近づくと死体が起き上る下総国の話が、平岩米吉「猫の歴史と奇話」(85年、動物文学会)に記されている。

「小金の脇の栗ヶ沢村(現、千葉県東葛飾郡)という所のやもめ暮しの老女が死んだ時、土地の若者どもが戯れに三毛の大猫を捕えて死人の上に置き、障りをなすかどうか試してみた。すると、不思議や死人は起き上って屏風を打ち倒し、針のような白髪を逆立て、眼光鋭くにらみつけたので、皆おどろいて逃げ出した」

 土地の若者が、通夜で猫を遺体に近づけると、死体が起き上るという迷信を、試してみたという話で、本当に老女が起き上って暴れたというものだ。

 出典は「反古風呂敷」と記されているが、「反古風呂敷」のデータが見つからず、いつの頃の話なのかはっきりしないのがもどかしい。

  

 明治、大正時代に報告された茨城、相模、壱岐に残る猫と遺体の迷信について、長い間手掛かりすらつかめなかった。

 

 やっとヒントらしきものが見えて来た。まず、遺体の猫除けに用いられた織物道具(杼、桛)と猫の関連から話を始めたい。

 

 両者が結びつくのは、江戸時代に農村で兼業として始まった養蚕である。江戸中期の養蚕専門書、野本道玄「蚕飼養法記」に、「家々に必ず能くよく猫を飼置べし」と記されていたという(近藤良子「蚕と猫と馬」岩手県立博物館だより、17年6月号)。

 蚕は鼠が大敵だった。蚕蛾が産みつけた大事な卵や幼虫、蛹を、鼠はむしゃむしゃ食べ尽くしてしまう。養蚕に大打撃を与える生物だった。

 鼠の被害を防ぐためには、やはり猫。養蚕術の必須のアイテムとして猫がクローズアップされ、養蚕指導書にも記された。

 明治以降に農家に養蚕が導入された岩手県南部、福島県の例ではあるが、猫が信仰され、地元の神社(猫淵神社という名の神社など)に猫の絵馬を奉納し、鼠除けを祈願したという。

 

 養蚕が日本の農家に伝えられた時、猫とともに遺体が立ち上がる僵屍キョンシー)の迷信も紛れ込んだのではないか、と私は考えたのだ。

 迷信で織物の道具が遺体に置かれたことも納得できると。

 

 ついで、養蚕と猫と迷信が結びつく漠然としたイメージが出て来た。

 養蚕が盛んであった中国江南地方に、猫と僵屍キョンシーの説話が広がっていたという情報だ。(続く)