刀水漁郎と木槿の花

  画家森田恒友にゆかりのある人の話を続ける。

 

 水墨画家の小川芋銭は、自然の残る茨城県取手で暮らし、利根川の向こう岸に住む、漁師の宮文助の人柄を愛した。文助も芋銭を尊敬し、揮毫をねだって、地元の連中に配った。

 芋銭の仲間の森田恒友小杉放菴も文助を好み、3人で大洗に旅行したこともある。とくに放菴は息子を連れて文助に鴨猟を教わり、茨城各地を文助と家族旅行して楽しんだ。宮を「刀水漁郎」(刀祢川=利根川の漁師)と名づけたのも放菴だった。

 

 画家中川一政は、宮の団扇を手に、胸元がはだけた姿は相撲取りのようだった、と書いている。若いころは五斗俵を片手で持ち上げ、四斗俵なら拍子木にして打ったという。曲がったことを嫌い、利根川にやって来た利権屋を池に放り込んだり、卓袱台を頭から被せたりしたのだった。(「遠い顔」)

 中川が、放菴に聞いた話では、宮は関東大震災の直後、東京に住む子供と孫を探したが見つからず、もう亡くなったのだと思い込み、この世に見切りをつけた。死ぬなら、悪い奴を道連れにしようと、近郷きっての悪議員を夕涼みに連れ出し、両足で「おっ挟んで」、舟から入水しようと企てた。

 直前息子と孫が無事戻って来て、議員は命拾いしたのだという。そんな任侠家を画家たちは好んだ。

 

 

 芋銭らは、刀水漁郎の馴染みの川魚料理店魚藤に集まるのを楽しみにした。利根川上流で育った恒友は、同じ川の鮭、鰻、鯉、鮎の川魚料理を喜んだ。昭和3年には、同年生まれの芋銭と刀水漁郎との2人の還暦祝いを、この店で開き、恒友、放菴、百穂、丹波からは西山泊雲が参加した。

 

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 翌年3月、なんと仲間に先立って刀水漁郎が亡くなった。放菴と恒友は取手に弔問に駆けつけ、5月下旬に墓参に行った。芋銭、放菴、恒友は、この時3本の樹木を墓に植えるよう寺に頼んだという。種類は任せたが、後日墓参に行った恒友は、樒(しきみ)、木蓮などが植えてあるのを見て、「木槿(むくげ)にしてほしかった」と、芋銭に漏らしたという。

 

 その4年後に亡くなった恒友への追悼文で、芋銭はその時のことを振りかえっている。「木槿は寂しい木である」とも書いていた。

 

 豪傑に、なぜ木槿がふさわしいと、恒友は思ったのだろう、私にはそれが気になった。夏の茶花でもある木槿は、千利休の孫、千宗旦(「わび宗旦」)が好んだ「宗旦木槿」がよく知られる。白くて、花の中心が赤い。

 そんな木槿と刀水漁郎のとり合わせが分からない。

 

 「遠い顔」を繰り返し読んでいると、中川は川魚料理店魚藤の女将のことを記しているのに気づいた。女将は画家たちの眼を惹く女性で、馴染み客の刀水漁郎との二人のやり取りは、石井鶴三、木村荘八の挿絵のモデルさながらだった、としている。

 恒友にとっては、木槿はあるいは女将だったのかと想像してみた。墓に入った刀水漁郎に、女将さんのイメージの木を添えてあげたかったのではないかと。

 

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 人にはそれぞれふさわしい花がある。アトリエの恒友追悼号で芋銭は、「東洋の思想に、清純の人死して花に化すると云ふことがある」(「憂鬱なる江村と森田氏」)。

 亡くなった恒友は「今野に咲きほこる辛夷(こぶし)の花に化せられたのではないか、此の清くして寂しい花に」と綴った。

 

 多磨霊園の恒友の墓石を思い起こし、辛夷の真っ白な花を頭の中で添えてみた。

 

 辛夷は当分見られないが、木槿はこれからあちらこちらで花を見ることができる。

 

 

 

 

五輪騒ぎの中の恒友

 画家の森田恒友が千葉医大(現千葉大)に入院したのは、昭和7年の12月。仲間たちには年が明けた正月に連絡をした。

 一番で見舞いに駆けつけたのが、小杉放菴木村荘八中川一政の春陽会の仲間と、画廊琅玕洞の林氏(數之助か)の4人だったことが、恒友の日記で分かる。

 一政はこの時のことを、「正月七日木村荘八と放菴に案内されて千葉の医科大学附属病院の病棟に恒友を見舞った」と「遠い顔」に書いている。

 

 蒲柳の質だった恒友だが、春陽会の仲間は元気なスポーツ愛好家が揃っていた。

 放菴は、体力自慢のスポーツマンで、明治末、田端文士村にテニスコートを作り、親睦組織「ポプラ俱楽部」を設立した。仲間を巻き込み、春陽会の野球チームも作った。

先ごろ見学した「田端文士村記念館」には、テニス選手をデザインした放菴の「ポプラ倶楽部ジュニアトーナメント」のトロフィーが飾られていた。

 

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 一政は、ボクシングの熱心なファン。石井柏亭の弟で相撲好きの彫刻家石井鶴三と真剣に相撲を取る写真も残されている。その時、行司役だったのが、一緒に見舞いに行った木村荘八だった。(中川一政「腹の虫」)

 

 この年の7月、第10回五輪がロサンゼルスで開催されていた。南部忠平(三段跳)ら日本は金メダル7個(銀7個、銅4個)を獲得したが、実は放菴や鶴三もまたロス五輪に関係していたのだった。

 当時の五輪には、スポーツのほか「芸術競技」なるものが同時に開催された。5回大会から始まり、日本はロス大会に初参加を決め、昭和6年大日本体育芸術協会が設立されていた。

 

 昭和7年2月同協会は、「日本オリンピック美術委員」に放菴や鶴三を委嘱したのだった。芸術競技は、スポーツの躍動美を表現する美術、音楽作品を出品して、メダルを競うもので、協会は、絵画、彫塑、版画、工芸、建築、写真部門の参加を決め29委員を選んだ。

 スポーツマンだった放菴のほか、スポーツとは無縁な鏑木清方平福百穂ら恒友が敬愛する日本画家も選ばれ、版画部門では、鶴三のほか、恒友の仲間の山本鼎も委員に推薦された。

 

 委員の仕事は、公募したロス大会出品作を選考することだったが、放菴は自ら「蹴球構図」と題してラグビーの油彩を描き、スポーツ絵画のPRに務めた。この作品は、五輪期間中にロサンゼルス美術館で開催された展覧会(非競技)に展示された。

 

 芸術競技の結果は、スポーツのようにはいかず、エントリーされた21作品のうち、版画部門で長永治良「虫相撲」が選外佳作となっただけだった。

 

 審査員クラスが参加すべきだった、という反省から次回のベルリン五輪には石井鶴三自らが相撲の版画を出品するおまけがついた。結果は、絵画部門で藤田隆治が銅、水彩部門で鈴木朱雀が銅。佳作に彫刻の長谷川義起、音楽の江文也が入り、鶴三は選外に終わったようだ。

 

 もの静かな恒友への見舞いは、当然にぎやかになったようだ。一政らは恒友の病状を知らされていたが、本人には伝えられていなかった。

「恒友は癌だと知らないのである。然し髭の中に光っている恒友の眼は、私達の心を窺わないだろうか。/私達は呑気に話をするのが息苦しく辛かった」と書いている。

 だが、恒友は分かっていたのだった。柩が、中野の家に運ばれた時、鞄の中に恒友のエンディングノートが見つかった。

「自分の葬儀の次第をかくせよと図面まで描いた紙片が出て来た。/恒友は知っていて、我々と生きている世の中の話をしたのである」と、一政は慟哭している。

 

 負けず嫌いの放菴、鶴三らが五輪で高揚していた時も、仲間の恒友は変わらずもの静かに暮らしていた。

 

「恒友を失って半年になるが、恒友の我々の間に張っていた根ざしは案外深いものである。/我々の喧噪の生活の絶え間に、心が澄む時にそれがわかる。/そして恒友の美術界の残した事業も、世間が考えているより案外深く根ざしているのである」と中川一政は「遠くの顔」に記している。

  コロナや五輪の喧噪が渦巻いている今また、恒友の生き方を思わずにいられない。

 

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  昭和7年「四季蔬菜冊」から

 

 

 

 

恒友の墓を探して

 土曜日に、息子一家と墓参りに出かけた。息子の運転で、いつも通り多磨霊園から小平霊園とハシゴする。今回は、多磨霊園のなかで寄り道してもらった。

 18区で細の実家の墓掃除をしてから、13区へ回ってもらったのだ。道は行き止まりが多く、やっと到着した13区も広く、独り車を降り、汗をかきかき、探し回った。

 見かねた息子が掲示板を見て、Ⅰ種37号は、もっと向うだから、車にまた乗って、という。

 

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 画家森田恒友の墓地に行きたかったのだ。

 墓は正面に森田家の墓石があり、右側手前に、左を向いた「森田恒友之墓」の墓石が建っていた。

 

 恒友の墓が、多磨霊園にあるのを知ったのは、閉店間際の本郷の古書店で見つけた、中川一政「遠い顔」だった。中川画伯は恒友の思い出や、追悼文を、心にしみる文章で描いていた。

 

 恒友は、熊谷の墓から分骨して、東京に埋葬するように遺言していたのだった。一周忌に、春陽会の仲間の画家が墓前に集まった、と中川画伯は書いていた。

 

 墓石には、恒友が慕った小川芋銭が恒友の事績を記した。

 

弘潤院謙山恒徳居士

   行年 五十三歳

   昭和八年四月八日歿

 埼玉縣大里郡玉井村大字久保島森田彦三郎三男に生れ畫を業とす

 大正三年歐洲に遊び歸來技益進み近年好みて淡墨平遠の風景を作る

 觀者讚嘆して新南畫と云ふ

 

   遺言に由りて骨を分ち此地に埋葬す

    知友芋銭子記す

 

 梅雨前とはいえ、墓石は強い日差しが照り返していた。

 

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    西洋留学で、セザンヌドーミエに刺激を受けて帰国した恒友は、日本の風景を水墨画で描き始めた。世間からは、洋画から日本画へ転向したと見られた。

 

 中川はこう書いていた。

「恒友は、水墨乾墨という二つの言葉を作って用いはじめた。/日本画を描いていますかと素人でなしに画家が聞く時には、恒友は潔癖に人に気に障らぬような言い方で水墨と言いかえた。/水墨とは墨絵である。/乾墨とはコンテである。/恒友は、乾墨を用いて写生をすることから水墨の仕事に入ったのである。恒友の水墨は、(鉄斎のような)胸中山水乃至書画一致の道ではない。/写生の道である。」

 

 水墨、乾墨と和洋で違っても、自然と向き合う「写生の道」は一貫しているのだ、と恒友は強く思っていたのではないか。

 

 水墨画の芋銭は、墓碑に「近年好みて淡墨平遠の風景を作る。觀者讚嘆して新南畫と云ふ」と記した。

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  知友の小杉放菴は、平野人と称した恒友の淡墨について、「アトリエ森田恒友追悼号」(昭和8年)で、こう書いていた。

「時とすると、平野人の平野の図に、限りなき遠さの平野を見た、日本の風景に相違なくして、地理的小国日本には、こんな幽遠なる野は有り得まい、と思ふほどの遥けさ遠さ、若干の凄さ、それがあの人の芸であり詩であったらう」(平野人の水墨)

 

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 墓石の「森田恒友」の刻字は、やさしい筆記だった。誰が書いたものなのだろう。恒友本人の字なのだろうか。

 

 恒友と身近で接した12歳年下の中川画伯は、「恒友は形というものの目立つことを、自分というものが極立つということをおそれたというより卑しんだ」と思い出を語っている。

 目立つこと、出しゃばることを好まなかった画家らしい、墓石であった。

 手を合わせて、大急ぎで車に戻った。

 

 

 

神保町のネコとジネズミ

 6月に入って、神保町の古書店街が店をあけたので、昼に散歩に出た。

 緊急事態宣言下の5週間は、古書店が一斉休業。街は寂しいものだった。6月になって宣言は継続されたものの、緩和措置とやらで、休業解除を決めたようだった。

 

 やっこ寿司に寄ってから、神保町の駅の方までぶらぶらすると、A書房の店先の100円コーナーも始まっていて、2、3人の人影があった。

 

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 岡鹿之助が装幀している中山義秀「なすな恋」(昭和23年、玄理社)があった。あれこれ4冊を択ぶ。100円本には袋は出さないという古本店の決まりがあるので、そのまま手に持って、古レコード店に向かう。

 

 まずは店の看板猫に挨拶する。休みの間、ご主人から猫の後脚に禿げが出来たと、メールが届いたので気になっていたのだ。動物病院に連れて行くと、原因不明といわれたが、処方された塗り薬で、毛は生えだしたと書いてあった。

 床に寝そべる猫。禿げはまだ残っているものの、元気な様子だった。ご主人は「やっと、店が開いたので、雰囲気が分かるんでしょうね、朝から喜んでいるんです」。

 伸びをする猫の脇腹を片側ずつ順番に撫で、首元を静かに柔らかく揉むと、気持ちよさそうに目をつむる。猫は猫。わが家の猫と同じ反応をする。

 

 お客さんも長い休みが終るのを待ちかねていたのだろう、年配の客が来店して、クラシックレコードの棚を忙しげに漁りだした。続いて馴染みらしい男性が来て店主と挨拶をかわし、ジャズLPを探している。次いで、若い男性も入って来た。

 神保町の一本裏の道にも人出が戻ったようで、なんだかうれしい。

 

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 4枚を択び、ビニールでなく大きな紙袋に入れてもらい、一緒に古本も収める。さあ、事務所に戻らなくては。

  戻って、岡鹿之助装幀の「なすな恋」を見ると、表紙絵の点描のアゲハチョウの絵は、点描画家らしいのだが、扉絵には、点描でない、ペン画のようなネズミのカットがあって、目を惹いた。

 鼻が長いネズミなので、気になって調べてみると、ネズミではなく「トガリネズミ科」のジネズミだった。ネズミの呼称はついているが、モグラの仲間だった。ただし、普通のモグラと違って、地中で暮らすことがなく、地上でのみ生活しているという。

 絵のように、尖った鼻が特徴で、猫もネズミだと勘違いしているようだ。モズ、蛇に加えて、猫もジネズミの天敵とされる。飼い猫がジネズミを咥えて、家に運んでくることもよくあるらしい。

 

 久々の神保町散歩は、ネコとジネズミに出会う楽しい午下となった。

 

 

 

 

 

 

吉祥寺の健脚版画家


 正福寺地蔵堂が掲載されていた「武蔵野1956年春号」には、東京・吉祥寺で暮らしていた版画家・織田一麿への追悼文が、考古学者後藤守一によって綴られていた。同誌の発行者の後藤が、織田に随筆を依頼に行き、豊富な話題に引き込まれた思い出や、奥多摩御岳の渓谷に咲く「エンレイソウ(延齢草)」を一緒に採りに行く約束を果たせなかった後悔を書いていた。

 翌号の1956年夏号は、「織田一麿・追悼号」(表紙の絵も織田画伯)として、武者小路実篤亀井勝一郎石井柏亭らが、追悼文を寄せた。

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 昭和6年吉祥寺に住いを定め、画業の他、武蔵野の昆虫、野草の採集に精出し、「土の会」という地元有志の会を立ち上げていた織田は、「武蔵野」を発行する武蔵野文化協会のメンバーも、一目置く存在だったようだ。

 

 おどろいたことに織田が、私が関心を寄せている画家の森田恒友と、縁の深い版画家であることが、追悼号掲載の「織田一麿年譜」で分かった。恒友が石井柏亭山本鼎らと明治40年に発刊した創作版画誌「方寸」に、織田は遅れて同42年から同人となって参加していた。

 44年に恒友が大阪の帝国新聞社(薄田泣菫が文芸部長)に入社した際、一緒に織田も入社したのだった。

 

 慌てて、恒友の年譜とすり合わせると、

「1911年(明治44年)四月、帝国新聞社(薄田泣菫が文藝部長)に入社、大阪府西成郡勝間村一〇九四-一(現・大阪市)の帝国新聞の社宅に住む。織田一麿が二軒隣に住む。(織田一麿『アトリエ』1933.10)」とあるではないか。

 

 当時30歳の恒友、29歳の織田は一緒に大阪の新聞社に入社し、ともに社宅で近所住まいをしていたのだった。二人は、翌年には新聞社のゴタゴタがあって退社し、恒友は洋行の準備に入り、織田は、中山太陽堂広告部(現・(株)クラブコスメチックス)に入社したが、長続きしなかったようだ。

 

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 作風に共通点もなく、その後交流も疎になったのだろうか。織田は大正5、6年、「東京風景」「大阪風景」と、石版画を精力的に発表する。追悼文で、柏亭は「方寸」同人の頃の、織田の技法を振り返っていた。自分や山本鼎平福百穂が石版を手掛ける時は、砂目石版だったが、織田は砂目を立てず、石版石を磨きあげた上に描く「磨き石版」を主張していた思い出だ。

 

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  織田一麿≪自摺石版画全作品集≫(74年、三彩社)。表紙の絵は昭和2年「水亭夜曲(中央)」

 

 織田は北斎を研究し、その著作もある。

 吉祥寺に移住した2年後の昭和8年からは、山歩きを始めた。

 追悼文で娘さんは、73歳で逝去するまで、歩き回る父親像を書いていた。

 

「往年親交のあったフランス人から習ったとかで「僕の歩き方はハクライだよ」と、ともすると自惚の種になっただけ、その歩き方には特色があった。膝を曲げずに、腰で身体を運ぶやうな、見るからに楽しさうな足どりであった」

「戦前、私の幼い時分は、昆虫、植物の採集、登山、古本集め等に凝って、雨が降らうと、風が吹かうと、借金が有らうと、ガスが止められようと一切おかまひなくテクテク出かけては夜帰って遅くまで標本を作ったり、目録を作成したり」

 戦後も、吉祥寺の家から、「朝食が済むと何処かへ出てゆく習慣が始まったが、以前とは異り、何の目的も持たず、ただ歩くことを楽しむために出かけるやうになったのである。従って降らうが、照らうが必ず出てゆく。さうして夕方、日が暮れる頃ユラリユラリ帰ってくるのである」

 

 恒友は、山の人でなく海の人でもない、関東の平野で生まれ育った「平野人」として自覚するに至り、澄明な境地を追い求めて、平野を訪ねてスケッチに励むようになったが、若き頃の同僚の織田は、生涯通して毎日歩き続ける暮らしを続けていたのだった。老いてなお、朝から晩まで、吉祥寺の街や武蔵野を歩いて過ごす、超俗的ウォーキング生活は、興味津々である。

 

 実際、自分は事務所通勤のない日、一日中、外出して時を過ごせるだろうか。それも毎日であり、風雨の日もである。老いくる身に、大変興味深くも、謎めいている健脚版画家の暮らしである。

折れた板碑のたたり

 東京都の国宝建築物、地蔵堂のある東村山市の正福寺境内には、秩父青石(緑泥片岩)の大きな板碑が小堂に納められている。

 

 この板碑も、昭和2年に地蔵堂を発見した郷土史稲村坦元、建築史家田辺泰の両氏が関わっていた。

 

 稲村氏は当時、地元で農業を営みながら文化財調査をしていた遠藤若次郎氏の協力を得て、中世の板碑を探索していた。正福寺地蔵堂を発見した時も、近くの徳蔵寺の石碑を訪ねるのが目的だった。

 

 稲村氏は、近くを流れる小河川「前川」の川底に、板碑が埋もれているのを知り、田辺氏とともに掘り起こすことを決心した。3㍍近い長さ(高さ)で、元は前川にかけられ、「経文橋(けいぶんばし)」と呼ばれていた。牛が通った際に折れてしまい、川底に落ちたとのことだった。

 

 発掘にあたり、遠藤氏は、地元に伝わる「たたり」を心配していた。この石に手を付けるとたたりがあるので、そのまま川底に放置してあるという伝説だった。江戸時代文化文政年間に編集された「新編武蔵風土記稿」にも、板碑を動かすと、悪疫が流行したので元通りに埋めた、と記されていた。

 

 遠藤氏の情報を参考に、両氏は地元以外から人手を集め、石を引き上げる作業を行い、正福寺に運んだのだった。貞和5年銘(1349)の立派な板碑で、高さ285㌢、幅5Ⅰ-58.5㌢。板碑では最大級のスケールだった。釈迦如来の種子(梵字)が月輪に収まり、下に立派な蓮座が彫られている、中世東国で流行した逆修塔の板碑(生前に自分の死後の菩提を祈願して造る石造品)だった。

 

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「掘ったのは春でしたが、夏になるとえらい騒動がもち上がったのです。(遠藤氏が)私のところに飛んで来て『大変なことになった。先生は当分東村山に来ないでくれ』というんです」(田辺氏)

「今、村に赤痢が流行り出したが、これを経文橋を掘ったたたりだといって村の者が騒いでおるから、先生が来るとあいつが掘ったんだということで危ない」というのだった。

 罹患したのは数人だったが、橋のあった地域外では患者が出ていないため、石のたたりに違いないと、役場や警察に、一部の村民が、板碑を元へ戻せとねじ込む騒ぎが起きていた。

 

 田辺、稲村両氏は素早く対応した。付近の三寺の住職に集まってもらい、板碑供養の施餓鬼をとり行った。府の嘱託として活動していた稲村氏は「東京府知事の祭文」を作文し、知事の代読という形で読み上げるパフォーマンス。その後も講演会を開き、正福寺地蔵堂とともに、板碑がいかに重要な文化財か説明したという。

 赤痢が収まったこともあり、騒ぎは沈静化したのだった。

 

 ただ、地元の遠藤氏は、この件の後、精神的に病んでしまって、ほどなく50代で亡くなった、とのことだった。

 

 国宝の地蔵堂ばかりでなく、東村山市指定有形民俗文化財の板碑もまた、語るに値する来歴があり、発掘、発見に携った人の苦労があるのだった。

 

 以上は、対談「正福寺をめぐって」(「武蔵野」1956春号)で語られている内容をもとにした。

 

 

 

もっと知りたい正福寺地蔵堂

 前回触れた東京都下、正福寺の国宝・地蔵堂について、もう少し調べてみた。

 地蔵堂は1927年の「再発見」後、鎌倉の円覚寺舎利殿(国宝)とともに、「唐様(禅宗様)」の2つの代表建築とされた。

 しかし、円覚寺舎利殿については、その後重大な発見があり、「五山建築唯一の遺構」という定説が、崩れ去ったのだった。

 

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 それをわが目で確認しようと、図書館で厚い本を借りた。「円覚寺史」(64年、春秋社)。禅宗史の大御所、玉村竹二氏(元東大史料編纂所教授)が、舎利殿鎌倉時代に建立された遺構とされてきたが、1563年の永禄の大火で焼失しており、鎌倉の尼寺五山の一、太平寺の客殿(仏殿)を移築したものだったと、帰源院所蔵の仏像胎内銘札、富陽庵所蔵「円覚什物等并雑記」、「円覚寺文書」、「新編鎌倉志」などの史料をもとに推察し、結論を出していた。

 円覚寺が新仏殿復興の記念事業として刊行した「円覚寺史」に、はっきり書かれているのだった。

 

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 舎利殿鎌倉五山二位の円覚寺の創建時(1282年)の建物でなく、西御門にあった尼寺五山の太平寺の仏殿だったということは、日本最古とされる「五山建築の唯一の遺構」が否定されたことになる。玉村氏は「現存のものは、従来信ぜられゐたやうに中世以来その位置に存続した遺物ではなくなることになるのである。若しさうだとすれば、これは一応建築史の新課題とならう」としている。

 

 太平寺は、東慶寺などとともに、鎌倉の尼寺五山の一で、房州の里見義尭が1526年海上から鎌倉を襲撃した際、太平寺の住持青岳尼を拉致し上総に連れ去り、同寺は廃墟となったと伝えられている。本尊の観音像は東慶寺に移されており、仏殿は東慶寺と近親関係にある円覚寺が大火の後に目を付けたことになる。

 

 伽藍の規模は、五山と尼寺五山は大きく違う。舎利殿の建築史上の位置が再考されることになった。

 

 実は、前に書いた1956年春号の「武蔵野」で、地蔵堂を調査した建築史家の田辺泰氏が、稲村坦元氏との対談で、興味深いことを語っていた。

 田辺氏は円覚寺を調査した経験を持つが、舎利殿円覚寺創建時のものではなく、時代が下ったものではないか、と推論していたのだった。

舎利殿そのものの建立年代がはっきりしません。(略)円覚寺に泊りこみで実地について調べたりしたんですがどうもはっきりしない」「舎利殿禅宗七堂伽藍の規格の外にあってどうも一緒にできたものではないらしい」

 創建後、20年経った正安年代の建立ではないかと、一応の推論をしたが、その後の玉村氏がたどりついた「移築」は想定外だったようだ。しかし、舎利殿を「禅宗の七堂伽藍の規格の外」の建物と指摘、確かな目を持っていたことが伺える。

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 さて、地蔵堂を、円覚寺舎利殿の新知見で、見直すとどうなるのだろう。

 

 地蔵堂は、昭和8年に修復が行われた。文部省の大瀧正雄氏が監督技師となり、奈良市生まれのベテラン宮大工、吉田種次郎氏が出張して腕をふるった。吉田氏は、法隆寺南大門、西円堂細殿、東院鐘楼の修復を手掛けている。

 

 修復という行為は、簡単でないことが今回分かった。元の形をどうイメージして、復元するのか。それによって、修復の方法、結果が大きく変わる。HPで、建築史学者の青柳憲昌氏の論文「昭和戦前期における「唐様」概念の変容と禅宗様仏堂の修復」(2013年、日本建築学会計画系論文集第78巻 684)に行き当たった。

 鎌倉時代に広まった禅宗様(唐様)の建物は、明治から修復が行われてきたが、修復の仕方は、その時代の「唐様」の捉え方で、変化してきたというのだ。

 自分流に咀嚼すると、「唐様」は、1)すくっと立ち上がるような垂直性を感じさせ、2)各所に曲線を用い、3)無彩色である、というのが特徴とされる。

 吉田氏は当時の「唐様」のイメージに沿って、舎利殿を手本にして地蔵堂を修復したのだった。

  舎利殿と同じように、妻飾を変更し、長押を撤去し、「発見」時になかった弓欄間(弓のような連続模様がある欄間)を新たに加えた。さらには、茅葺の屋根を「柿葺(こけらぶき)」に変えた。木の薄板を重ねる柿葺は、曲線を強調でき、優美な屋根のシルエットを作ることができる。舎利殿も茅葺だが、柿葺によって、屋根の勾配を緩め、さらには棟反を付けて、吉田氏の「唐様」のイメージに近づけたのだった。

 

 「こけら葺のため屋根が軽快です。非常にきれいでスマート過ぎるくらいです」と、田辺氏は修復後の印象を述べている。美しい地蔵堂は、こうして生まれたのだった。

 

 正福寺地蔵堂は、修復の際に、室町時代の1407年の建立を示す書き付けが発見された。今では、円覚寺舎利殿の方が、地蔵堂を参考にして、建立年代を1407年前後とされるようになっていた。

 

 尼寺から移築された舎利殿と、舎利殿を参考に「化粧」が施された地蔵堂と、2つの国宝は、室町時代の様式を伝える美しい「双子の姉妹」のように思えてきた。