マツモトセンノウと四世松本幸四郎

妻と恒例の山野草展を覗いた。

2点のマツモトセンノウが出展されていた。

 

 マツモトセンノウは「松本仙翁」で、茶席でもよく生けられるナデシコ科。阿蘇山麓などで生育し、物の本には、歌舞伎の松本幸四郎の家紋(四花菱)に似ているからと書いてある。

 どうも私には判らないのは花と、上の家紋を比べても決して似ていないことだ。

 

 花の名は江戸時代に命名されたのだろうから、誉れ高かった五世松本幸四郎やその父の四世について調べてみた。

 四世は、宝暦から明和、安永、天明、寛政のころ活躍し、写実的な演出で人気を博し、幡随院長兵衛の元祖は彼より他なし、などといわれた名優だった。

 しかし、意地が強く、協調性に欠けていたらしく、市川団十郎とけんかして共演拒否となり、尾上菊五郎からは恩知らずとして、真剣で斬りつけられた人物だったという。 

 それでも天明年間には押しも押されもしない重鎮となった。

 

 

 この四世は、謎の浮世絵師として知られる東洲斎写楽によって描かれた錦絵が残されている。

「山谷肴屋五郎兵衛」の芝居絵で、衣裳をよく見てみると、四花菱でない紋が見つかった。これはなんだろう。

 

 歌舞伎役者の家紋について書いた河竹繁俊「概説日本演劇史」を見つけた。それによると、四世までは幸四郎の定紋は「三つ銀杏」で、「四花菱」が定紋にかわるのが五世の時だという。それまでは「四花菱」は「替紋」であり、五世が入れ替えたのだった。

 四世と五世は舞台の上でも張り合った記録が残されている。《千本桜》で権太役の五世が、梶原役の父に「親父はのめってくたばろうとかまいません。褒美のお金がもらいとうございます」と台詞を替え、大喝采をうけたという(河竹繁俊「歌舞伎名優伝」)。五世は家紋も、定紋と替紋を替えて父親に対抗心をしめしたのだろう。

 

 

 どうだろう。家紋を見比べると、この銀杏を三つ並べた家紋のほうが、マツモトセンノウに近くはないだろうか。「四菱」は四つ菱形を並べたものだから、これを花の名にするには無理がある。

 

 松本仙翁は、四世松本幸四郎の定紋「三つ銀杏」に花が似ていたので、18世紀後半から末にかけて、花に命名されたのではなかろうか。それほどに、四世もまた当代の人気者だったのだろう。

 

 今年の山野草展から、ひょんなことを考えることになった。

 

 

 

 

 

 

 

 

墨蜻蛉の由来をAIに尋ねてみた

 神保町では将棋囲碁の古書で知られるアカシア書店が3月で店舗を閉じ、ネット通販だけになってしまった。古書の街が少しずつ崩れているようで悲しくなる。

 この古書店で、最後に購入した百円本、阿波野青畝句集「國原」(昭和17年、天理時報社)を大事に読んでいる。

 1月の句から12月の句まで、月ごとに分類している。6月にハグロトンボらしき句があった。

 入り亂れ此許をこのめる墨蜻蛉(すみとんぼ)

 羽とぢし墨蜻蛉(すみとんぼう)の失せにけり

 墨蜻蛉出水の道のへりへりを

 ハグロトンボを墨蜻蛉と呼んでいる。

 ハグロトンボは、羽を合わせることから、神様トンボ、佛トンボ、極楽トンボ、合掌トンボと呼ぶ地域があり、オハグロ(お歯黒)トンボから、あねさんトンボという所もある。しかし、「墨蜻蛉」は知らなかった。

 長年使っている水原秋桜子編の新編歳時記の「蜻蛉」(盛夏)に、青畝の「入り亂れここを好める墨蜻蛉」が挙げられていた。新潮文庫の歳時記(夏)1951年刊行では、青畝の「墨蜻蛉出水の道のへりへりを」を採用していた。

 

 国会図書館のアーカイヴで墨蜻蛉を探ってみた。高浜虚子に大正年間の句があった。

木賊刈る翁に飛べり墨蜻蛉 (零余子編「袖珍俳句歳時記」大7,春水社)

川水に映り羽ばたく墨蜻蛉 (大10)

 戦後の出版物にも墨蜻蛉は、数はすくないが登場する。ただし俳句関係がほとんどだ。

七月のダム満ちて翔ぶ墨蜻蛉 大中祥生 83年

墨蜻蛉岩にすがりてはなれざる 松代嶺子 91年

 

 そこで、思い切ってgoogleのAIに質問してみた。

羽黒蜻蛉を俳句では「墨蜻蛉」と呼ぶことがあります。昭和17年頃、阿波野青畝が句にしています。大正には高浜虚子が墨蜻蛉の句を作っていました。ひょっとして、地域の呼び方(方言)ではなく、虚子が造語した可能性もあるのかと疑っています。AIさんはどうお思いですか。》

回答は―。1秒もかからず以下の通り。

 

「墨蜻蛉(すみとんぼ)」という言葉の出自について、非常に鋭いご考察ですね。結論から申し上げますと、お察しの通り「墨蜻蛉」は方言などの民俗語というより、高浜虚子を中心とした「ホトトギス」派の俳人たちが、文学的表現として定着させた(あるいは再発見した)言葉である可能性が極めて高いです。

いくつかの視点から、この「墨蜻蛉」という呼称の背景を紐解きます。

  1. 高浜虚子による「美化」と定着

明治から昭和にかけて、虚子は写生(客観写生)の重要性を説く中で、対象をより叙情的に、かつ簡潔に表現する言葉を重用しました。

  • 「おはぐろとんぼ」から「墨蜻蛉」へ: 一般的には「ハグロトンボ」や「おはぐろとんぼ」と呼ばれていましたが、俳句の五音に整える際、また「おはぐろ」という生活感のある言葉を避け、より静謐な「墨(すみ)」という一字を当てることで、あの独特の漆黒の翅の質感を際立たせました。
  • 季語としての格上げ: 虚子がこの言葉を句に用いたことで、歳時記における「蜻蛉」の傍題(別名)として「墨蜻蛉」が認知されるようになりました。
  1. 阿波野青畝への継承

 ご質問にある阿波野青畝(あわの せいほ)は、虚子に師事し、「昭和の四S」と称されたホトトギスの重鎮です。

  • 青畝の句: 「入り乱れ此許(このもと)をこのめる墨蜻蛉」 など、青畝は師である虚子が磨き上げた「墨蜻蛉」という語を、さらに自身の繊細な写生句の中で深化させました。
  • 昭和17年頃という時期は、まさにホトトギス派の写生俳句が成熟し、美しい季語としての「墨蜻蛉」が俳句界の共通言語となっていた頃と重なります。
  1. 造語か、方言か

 広辞苑や日本国語大辞典などの一般的な辞書には「墨蜻蛉」は立項されていないことが多く、一方で俳句歳時記には必ずと言っていいほど掲載されています。この点からも、この言葉が「俳句という詩的空間で好んで使われる雅称」であることが分かります。もし虚子の完全な造語でないとしても、特定の地方で細々と使われていた言葉を、虚子が「俳句の言葉」として選別し、全国区の季語へ押し上げたというのが歴史的実態に近いと思われます。

「墨」という一文字に、羽黒蜻蛉の気品と、どこか死生観を感じさせる静けさを込めた虚子の感性は、現代の私たちが見るハグロトンボの印象をも規定しているのかもしれません。」

 

 AIに返信した。

《貴重な考察ありがとうございました。大変参考になりました。ただ、「入り乱れ此許(このもと)をこのめる墨蜻蛉」と引用された句は、「入り乱れここをこのめる墨蜻蛉」としている歳時記があります(水原秋桜子編新編歳時記)。此許は、ここでなく、このもとと読んだ方がいいのでしょうか。》

「此許」の読みについて、非常に細やかな点に気づかれましたね。

結論から申し上げますと、この句は「ここ」と読むのが一般的であり、俳句の調べ(リズム)としても自然です。

理由は以下の3点です。

  1. 俳句のリズム(定型)

俳句は「五・七・五」のリズムを基本とします。

  • 「ここ」と読む場合
    「入り乱れ(5)/ここをこのめる(7)/墨蜻蛉(5)」
    ちょうど中七(真ん中の7音)に収まり、リズムが非常にスムーズです。
  • 「このもと」と読む場合
    「入り乱れ(5)/このもとをこのめる(9)/墨蜻蛉(5)」
    中七が9音という大幅な「字余り」になってしまいます。青畝はリズムを重んじる写生派の俳人ですので、意図的な崩しがない限り、9音にする可能性は低いと考えられます。
  1. 「此許(ここ)」という表記の意図

俳人があえて「ここ」を「此許」と書くのは、単なる場所の指示を超えて、「自分のすぐ近く、このあたり」という親密な空間や、そこに漂う気配を視覚的に強調するためです。水原秋桜子の歳時記が「ここ」とルビを振ったり書き換えたりしているのは、読者がスムーズに五七五のリズムで読めるように配慮した結果だと言えます。

  1. 先ほどの回答の補足

先ほど私が出した回答の中で「此許(このもと)」と添えてしまったのは、漢字の訓読みに引きずられた不適切な補足でした。混乱を招いてしまい失礼いたしました。正しくは、ご指摘の通り「ここ」と読み、場所を指しつつ中七のリズムを整えるのがこの句の本来の姿です。

「ここ」という言葉を「此許」という少し重みのある漢字で表現することで、墨蜻蛉が自分の身の回りに次々と集まってくる、あの幻想的な光景の「密度」を表現したかったのでしょう。」

 

 1秒もかからずに返事がくるAIに驚くとともに、ちょっと文学的すぎるAIとは今後も、話し相手になりそうで、いやはやとんでもない時代になったと感じたのだった。

 

 

 

 

桓武天皇の《放鷹遊獦》から見えること

 桓武天皇が鷹狩りを好んだことは、菅原道真編集の「類聚国史」に明らかである。

 長岡京遷都前年の「延暦二年(783)十月戊午(14日)行幸交野放鷹遊獦」と、淀川沿いの東、交野(枚方市、交野市)で、鷹犬を用いた放鷹を行なった記載がある。

 遷都後の六年十月、十年十月にも同じ狩り場、交野で同様の鷹狩りを行なった。

 鷹犬を用いたことが、「遊獦」の語から判る。獦は、狩りのことだが、「口の短い犬」という意味があり、「猟」と区別されて筆記されている。このときは長岡京遷都後であり、都から南下して川を渡って狩り場に向かったと推定される。

 同十一年から猟の回数が一気に増え、大原野、水生野、栗前野など狩り場も多岐にわたり、同年だけで冬場に十四回猟に出かけている。ただ、「獦」は一度きり。他は「猟」なので、鷹犬は用いなかったのだろう。

「仁徳紀」の鷹狩りの記載には、獲物の雉子を「雌雉」とまで細かく表記しているにもかかわらず、鷹犬は出てこなかった。

 奈良時代になって鷹犬を重視したことは、天平宝字2年(758)設置の兵部省主鷹司の任務内容が鷹犬の養成だった、ことから明らかだろう。

 

 興味深いのは、桓武天皇が歴代天皇のなかで始めて天を祀る郊祀を行なった場所が「交野柏原」であること。「交野」で行なった初の鷹狩りの2年後の延暦4年11月に開始した。二度目の郊祀は同6年の11月であり、その一ヶ月前に交野で「放鷹遊獦」を行っている。郊祀と放鷹行幸との関連も考える必要があるのかもしれない。

 

 鷹狩りに関心を持った桓武天皇は、延暦十年に鷹司の制度を改変した。詳細は分らないが、従来の鷹戸を廃止し、諸衛府の鷹飼の統合を行なったという。

 同時に、「仁徳紀」の鷹甘部記事に登場した百済系渡来氏族に対して、改賜姓を一斉に行なったのだった。鷹甘邑のあった摂津国住吉郡や河内国古市郡、丹比郡に居住していた渡来氏族たちだ。

 摂津/河内/和泉の国境の辺りの鷹甘邑周辺のことも、秋吉正博氏の「日本古代養鷹の研究」が大変参考になる。

 難波京の朱雀門から道を南下すると、西・住吉大社~東・八尾方面の磯歯津路と交差する。その左手前の角に鷹甘邑があった。さらに南下して進むと依羅沼(依羅屯倉)が右手に見え、大津道(長尾街道)、丹比道を過ぎると右手に百舌鳥野が開けてくる。

 仁徳紀に登場するこの地域に住んでいた7氏が新しい姓を受けたのだった。

葛井連 → 葛井宿祢

船連  → 宮原宿祢

津連  → 中科宿祢

池原公 → 住吉朝臣

文忌寸 → 文宿祢

武生連 → 武生宿祢

広井造 → 広井連

 

 

 この中で、鷹甘邑のあった住吉郡(住吉神社の東側、現在の東住吉区鷹合付近)に住んでいた池原公が「朝臣」と、より高い賜姓だったことが興味深い。桓武天皇から恩寵を受けた住吉朝臣綱主は、「日本後紀」に死亡記事が残っている。近衛、将曹、将監と勤勉に勤め上げ、宿衛怠らず、従四位下となったこと、そして「好愛鷹犬」という四文字がわざわざ記されている。

 よく鷹犬を愛した。桓武天皇が交野で行なった「放鷹遊獦」で鷹犬を伴って活躍したことが想像される。

 

 話を続けると、上記の七氏は、百済から上毛野君の先祖によって日本に連れてこられたという伝承をもっている。

 上毛野臣(君、朝臣)といえば、鷹飼男子像の6世紀後半の埴輪が出土した群馬県太田市、伊勢崎市辺りを支配した氏族。隣の「下毛野臣」(現栃木県辺り)のほか、大野、佐味、池田、車持の同族六氏で東国を治めたとされる。

 上毛野の同祖とするものは三十六氏にも及び、この摂津河内和泉国境の鷹甘部の百済系渡来氏族も含まれるのだった。

 

 先祖の名前は「竹葉瀬」で、たかはせと呼ぶ。「新撰姓氏録」では「多奇波世」と表記している。

 いずれにせよ、「タカハセ」を同祖とする上毛野グループが鷹狩技法を伝承しているのは見過ごせない。

 このほか、百済系渡来氏族の田辺史も同祖氏族にあたり、750年に上毛野君の姓を得、810年に上毛野朝臣となっている。田辺史は継体天皇を支えた氏族として知られているが、同天皇の墳墓として有力視されている今城塚古墳から、鷹匠らしき埴輪が出土したのは、前に記したとおり。継体天皇の鷹狩は田辺史がもたらしたと考えればわかりやすい。

 さて「多奇波世(たかはせ)」のように、「奇」を「か」と読ませるのは、百済本記を元にした「欽明紀」に集中しているのだという。百済の独特の表記らしい。百済本記は7世紀ごろの編集で、5世紀はもちろん6世紀にもさかのぼらない。

 

 こう考えてくると、「仁徳紀」の鷹狩記事は、大宝律令の制定(701)の実質的指導者だった下毛野古麻呂がカギを握っているように思われてくる。藤原不比等の元で活躍した古麻呂は、上毛野グループの人物の中でも突出した知識の持ち主だったことは間違いない。

 大宝律令の19年後の完成された日本書紀(720年)の編集にあたって、古麻呂も関与し、古事記の仁徳の条にはない、毛野一族の鷹狩伝承を「仁徳紀」にはめ込んだと考えるのが自然だと思われる。

 問題はこの伝承が仁徳天皇の治世まで遡るのかどうか。考古学的にも、文献からも、現段階ではせいぜい、継体天皇の時代あたりまでではないか、と思われるのだった。

 

鷹狩技法から仁徳紀を見直す

 日本で鷹狩りはいつ始まったのだろう。

 一般的には、日本書紀(720年撰上)の仁徳天皇の条に「鷹甘部(たかかいべ)」の創設の説話があり、仁徳天皇在位の5世紀の初めに百済の渡来王族「酒君」によって開始されたとされている。

 そもそもは、摂津・住吉~河内・丹比付近にあった依網屯倉(よさみのみやけ)で網に珍鳥がかかったので、天皇に献上された。天皇は、ちょうど日本の使節に無礼を働き百済王から追放されて渡来した酒君が居たので、「これは何という鳥か」と質問した。

 酒君は、「百済に多く居り、馴らすと人に従い、高速で飛んで諸々の鳥を掠めます。百済では俗にクチと言っております(「百済俗号此鳥曰倶知」)」と答えた。(なおこの箇所に細注がつけられ、「是今時鷹也」。つまり珍鳥クチは今の鷹であるとしている)

 天皇は、それなら「養馴しろ」と命じた。酒君は幾らも時が経たぬ内に養馴し、足に革紐をつけ、尾に小鈴をつけたものを腕上にとめ、天皇に捧げた。天皇は、その日、すぐ鷹をつれて百舌鳥野へ狩りに出た。鷹に反応して雌の雉が多数飛び出し、天皇が鷹を放つと数十羽も獲ることが出来た。この月(秋9月)、天皇は鷹甘部を作ることを命じた。   

 仁徳紀の猟の様子を、「放鷹」(昭和6年、宮内省式部職編)に書かれたオオタカによる雉子猟の方法と重ねて想像してみると。

《鷹には狩りの一週間前から餌を増やしておく。萱場等で行うときは、鷹を腕に据えた者が数人一列に並び、間に挟んだ勢子とともに、一列横隊で前進する。雉子は飛び上がる瞬間が比較的遅いので、鷹を使う者は俊敏に鷹を放つタイミング(羽合せ)をつかまないとならない。もし鷹が雉子を逃すとどこまでも追って行く。雉子が草むらに逃げたときは近くの樹上に停まり、雉子の動きを待つ。勢子が雉子を追い立て、これを一二回続けると、雉子はおびえて、簡単につかまえられるようになる。このように鷹は長追いする事があるので、視界の開けた場所を選ぶ必要がある。》

 仁徳紀の猟では、天皇以外の鷹使いも参加し、勢子とともに横列を作って雉子をけしかけ、鷹を放ったこと、雉子はやがて恐怖で動けなくなり、簡単に捕獲し、数十羽も獲ることが出来たこと、百舌鳥野は視界の開けた狩り場だったことなどが想像できる。

 

  ここで、説話の内容で、気になる点を挙げてみる。

  • 捕獲した鷹、隼の養馴には最低二ヶ月はかかる。暗い部屋で連日時間をかけて人にならし、餌を食べるようにし、野外での訓練を積み重ねてゆく。酒君がほどなくして連れてきたというのが事実だとすると、捕らえられたクチではなく、すでに養馴してある他の鷹を連れてきた可能性はないだろうか。
  • 鷹狩りには、鷹の装具、鷹匠道具が必要であり、仁徳天皇による百舌鳥野の狩りが順調に行われたとすると、鷹甘部創設の前に、酒君周辺の百済系渡来人の間では鷹戸が存在し、鷹狩りが行われていたことをうかがわせる。
  • 朝鮮半島では中国同様、ハヤブサを「鶻」と呼んでおり、捕らえられた「クチ」はハヤブサと思われる。しかし、天皇に持って来たものには尾に鈴がつけられており、オウタカであると思われる。(「鈴 鉄製。大鷹にて鷭(ばん)、雉子の猟の時用ふ」=宮内省式部職編「放鷹」)。クチがタカに替わっていて、1)の推測を裏付ける。

 酒君の人となりは、この前の仁徳紀の記事に描かれている。

 百済に渡った紀角宿祢が国、郡を分けて各地の特産物を記録していた時、百済王族の酒君が無礼を働いた。怒った角宿祢が百済王に詰め寄ると、王は酒公を鉄鎖で縛り、葛城襲津彦に進上するといったため、襲津彦は日本に連行した。到着すると、酒君は逃亡し、石川錦織首許呂斯に匿ってもらった。「天皇の許しが出た」と嘘をついて納得させたのだ。やがて天皇はそんな酒君を赦したという。

 鷹の取り替えを考えても不思議でない、したたかな知恵の持ち主して描かれているように思われる。

 とにかく、鷹狩り説話の主人公は、百済王族の酒君なのだった。珍鳥を捕らえた依網の阿弭古が目立って伝えられているのは見当違いのようだ。

 

 さて、この鷹甘部の始まりの説話を証拠立てるものがあるのだろうか。 

 大和を中心に戦前から考古学調査を繰り広げた「考古の巨星」末永雅雄氏は、生前この説話の考古学的な立証がなかなか出来ないと書いていた。

 鷹狩男子の立派な埴輪は東国の上毛野国(現群馬県)で6世紀後半のものが複数出て来るが、仁徳紀の依網屯倉のあった摂津、河内の辺りばかりか、近畿地方からの確かな出土がなかったのだ。

 「本来なら大和河内の古墳にあるべきではあるが、まだ知られていない」と述べ、二つの可能性を想定していた。((「大和文華37」1962。5)

1 仁徳紀の記載の年代に信憑性がない

2 仁徳紀の記載は正しいが、遅れて「中期(古墳)の終り、後期古墳の時期に至っ

て、鷹匠埴輪の製作が行われた」

 この文章から、60余年経って、新資料が出てきたのだろうか。

 現在大阪府高槻市の今城塚古墳近くの埴輪公園に出土した武人埴輪、家形埴輪、動物埴輪とともに復元された鷹匠埴輪も並んでいる。2001年に多数の埴輪が見つかり、鷹匠をかたどったものも出てきたらしい。

 発掘調査を調べると、鷹の埴輪は出ていない。発見された左腕にへこみがあって、そこに鷹が附けられていたと推測し復元されたものだった。

 この古墳は継体天皇の奥津城とされており、没年の531年ごろ6世紀初めのもの。東国の埴輪より半世紀くらい早いことになるが、仁徳天皇まではあと100年隔たりがある。

 

 鷹匠ではなく、鷹だけの埴輪が出土していた。和歌山の井辺八幡山古墳の長さ15cmほどの鷹形の埴輪。背中に羽根が線描されていて、鷹と推定される。6世紀の中頃らしい。墓主と推測される紀氏の一族が生前鷹狩りを行っていたと推測される(酒君に怒ったのは紀角宿祢だった)。

 

 仁徳紀に近い5世紀にさかのぼる可能性があるものも、河内から出土していた。

 古市古墳群の誉田御廟山古墳(宮内庁が応神天皇陵に治定)の近くの茶山遺跡で見つかった鷹のような埴輪。鷹と決定づけられないが鷹でもおかしくないように見える。同遺跡の二号墳(5世紀後半)からは、立派な飾り馬の埴輪が出土しており、可能性は低くないようだ。

 さらに、河内の河内長野市の三日市遺跡三号墳から、鷹の爪と思えなくもないものが刻まれた埴輪の破片が出土した。河内長野市史には、鷹匠埴輪の一部と思われるとしているが、発掘調査報告書には、鷹匠埴輪とは踏み込んでいなかった。

 いずれにせよ、末永雅雄氏の探求に応えるように、大和・河内から徐々にではあるが鷹関連埴輪が出土していることが分かった。

 

 さて、文献の研究ではどうか。さらに突っ込んだ鷹狩関連氏族の探求が進んでいるのを今回調べ直して知ったのだった。

 

 

催馬楽の鷹の子を推理してみた

 鷹について、書いておきたいことがある。催馬楽で見つけた鷹狩の歌のこと。

 催馬楽(さいばら)は、平安時代の初めに笙、篳篥、箏などの管絃、打楽器の笏拍子などにのせて、当時流行した民謡、風俗歌が取り入れられた新しい音楽とされている。

 当時の人たちに、鷹狩や鷹がどう歌われていたのか。

 「鷹の子」と「鷹山」の2曲が残っている。

 「鷹の子」は、以下の通り。

 

 鷹の子は麻呂に賜らむ

 手に据ゑて

 粟津の原の御栗栖の辺(わたり)の

 鶉(うずら)捕らせむや

 さきむだちや

 

 粟津の原は、現在の大津市の辺り。御栗栖は栗林があった御料地らしい。さきんだちや(さ公達や)は囃し言葉で意味はないという。

 口語訳は、西角井正慶氏のものが分かりやすい。

「鷹の子は僕に下さいよ。そしたら僕が鷹を手にとまらせて、粟津が原の野原の鶉を上手に狩らせますよ」

≪此の歌は夏に用いてはいけません。夏に鷹狩はしませんから。また鶉は秋の鳥で春の鳥ではないのに、春の宴会で用いる例がありますが、多くは秋に用いています≫との注意書きが残っている。

 鷹狩シーズンから外れての演奏はならない、夏はダメとのルールだ。「鷹の子」は、鶉を狩る曲なので、本当は秋の宴が相応しいと。

 

 平安時代も時代が進んだ12世紀、笙の名手であり、「中右記」を残した公卿藤原宗忠が童のころの鳥羽天皇と催馬楽で「鷹の子」を演奏している。しかも秋でなく春3月に。

 天永3年(1112)3月18日白河法皇60歳の宮中御賀の後の宴で催馬楽の演奏会(御遊)が行われた。宗忠が仕切り、笏拍子を担当し、基綱ら殿上人に箏、笛、笙、和琴、篳篥の管弦楽器や琵琶が割り当てられた。そして歌は天皇。「主上(鳥羽天皇)催馬楽を付うたはせ給ける。めずらしくめでたかりける」(古今著聞集)。しかも、一連の演奏後「鷹の子」と「更衣」を何遍も歌ったと記されている。

 鳥羽天皇は5歳で即位しこのときは9歳。「鷹の子は麻呂に賜らむ」の歌詞に姿が重なって見えてくる。 

 歌に出てくる鷹の子は、おそらくコノリだろう。もっぱら鶉、鶯などの小鳥を取る鷹であり、また若い「麻呂」にはオオタカ、ハイタカはまだ荷が重いと思われるからだ。鷹狩にはオスより体の大きいメスばかり用いられるが、ハイタカに関しては体が一回り小さいオスのコノリも狩りに重用された。(「放鷹」によると、成鳥のハイタカの翼長は240-257mm。コノリの翼長は203-215mm)。下図はハイタカの若鷹(「放鷹」より)

 

 

 もう一つの歌「鷹山」は

 

 高山に 鷹を

 鷹を放ちあげ

 招(を)くをなみ あはれ

 招(を)くをなみ はれ」

 

 招(を)くをなみ 我がす

 我がする時に

 逢へる兄(せな)かもや

 逢へる兄(せな)かもや

 

 高山で鷹狩の鷹を放ったが、戻らない。招き寄せたいが術がない、と歌が始まる。

 この歌の口語訳を西角井氏に頼ると、

「鷹狩をする山に狩人が鷹を逃がしたのを招き寄せる術もない。それではないが、思う人を呼び寄せる方法がなくて、わびしくしている時に、意外にもやって来てくれた人よ」

 と女ごころの歌として解釈している。いささか分かりづらいが、源氏物語などによく出て来る、男がもう通ってこなくなった女性の思いの歌らしい。男を戻らせる術がなかったが、なんと戻って来たではないかと、鷹狩で鷹を逃がしてしまった鷹匠の思いに託して表現したと、解釈されているのだった。

 明治に評釈した千秋季隆氏も同様。宮内庁式部職の編纂した「放鷹」(昭和6年)も、「男女の情事に比擬せり」としている。

 鷹狩で大空に放った鷹が戻ってこない。鷹を失った喪失感(あの大伴家持が歌った)を、家に通っていた愛する男が突然来なくなった喪失感に例えたというものだ。しかも、戻って来たこの喜びも同様だと。

 この解釈が正しければ、平安時代の女性にとって通ってくる男は、鷹匠の愛鷹のようなものであったことになる。

 そして当時の女性は、鷹狩のことを良く知っていたことになる。

 此の短い歌から、ここまで引き出す国文学の先生に驚くとともに、ちょっとひっかかる点もある。西角井氏も「ひょっとすると『会へる夫(せな)かもや』は、鷹に対する愛称かも知れないとふと思うのである」

 と、男女の歌でなくて、「せな」という名の鷹が戻って来た嬉しさの歌の可能性も一言付け加えていた。

 ハイタカ(鷂)はメスなので「兄(せな)」ではおかしいし、オウタカにはオスの「兄鷹」がいるが主にメスの「弟鷹」が用いられる。重用されるコノリならば「兄」でおかしくないし、また「兄鷂」とも呼ばれてもいる。

 となると、鷹狩を歌った催馬楽の2曲は、ともにコノリによる鷹狩を歌ったことになる。

 想像の域を脱しないが、少なくとも、自分の鷹が欲しい、やら、鷹が逃げてしまった、やら、単純ではあるものの、鷹狩への思いが短い平安時代の歌から読み取れるのだった。

 

 

海東青と呼ばれたシロハヤブサ

 出雲風土記の話を続ける。出雲風土記には、ワシ、ハヤブサ、タカの猛禽類とともに、ウズラ、ヒバリ、キジ、ヤマドリ、ハト、クグイ、ツグミと野鳥の生息情報も書かれている。

 これは、鷹狩りのためにも役立つ情報に思える。鷹狩りが盛んだった当時、中央政府も知りたかった知識ではなかったか。

 鷹狩り人気の好例がある。「出雲風土記」撰上の13年後の天平18年(746)、29歳の大伴家持は越中国守に赴任し、5年間の在任中鷹狩りに夢中になったことが、家持の長歌、反歌でうかがえる。

 赴任の翌747年の長大な作品の前書きは、こう始まる。

 

「射水郡古江村に蒼鷹を取り獲たり。形容美麗にしてを鷙ること群に秀でたり」

 

 日本ではオオタカ(蒼鷹)が鷹狩りの主流となるが、早くも家持はオオタカでキジの狩猟を楽しんでいたことが分る。現在の富山県射水市辺りで捕獲された優れた鷹は、「大黒」と名付けられた。

「養吏山田史君麿」(鷹を育てる役人がいたことも分る)が、野外での調教中に大黒を取り逃がしてしまった。家持は怒り嘆く。死んだ鼠で呼び寄せようとし、またあちこちに鳥網を張ったが、効果なし。神に祈り、消沈していたところ夢中に少女が登場し、近々戻ってくると予言したので、ホッとして「恨を却くる歌を作」ったというものだ。

 

 オオタカ

 

 長々と大黒の鷹狩りの様子が歌で表現される。

「露霜の秋に至れば 野も多に鳥多集けりとますらをの伴いざなひて 多加(鷹)はしも 数多あれども 矢形尾の我が大黒に白塗の鈴取り附けし」

 と、通常の鷹の尾羽(12枚)よりもう1枚多い「矢形尾」の大黒に、飛ぶ位置を知らせる白塗りの鈴を附け、ともに野鳥があふれる秋の野に繰り出した様子が描かれる。

 鷹狩りの技術が天平の世に随分定着していたようだ。

 養老律令(718年撰集)の職員令には「主鷹司条」が組み入れられていて、職掌は鷹狩りに連れて行く鷹犬の教習だった。定員は「正1人、令史1人、使部6人、直工1人、鷹部」。

 鷹犬の飼育のようすも長屋王邸で出土した木簡からうかがえる。鷹に米を食べさせていたのだった。松井章氏が指摘したもので、鷹犬の飼育では、犬が鷹の捕らえた獲物の肉に飛びつかないように、普段から米を食べさせる工夫していたというのだ。実際海外の鷹犬飼育の事例でも、鷹犬が獲物を噛まないように植物性の餌で育てている。

 


 奈良時代の鷹狩り技術は相当整備されていたことがうかがわれる。

 では、出雲風土記でも、日本の鷹狩りではマイナーであるハヤブサに関心を寄せていたのだろうか。

 現在、いちばん鷹狩りがさかんな地域は中東諸国で、花形の猛禽類はセイカーハヤブサなど大型のハヤブサである。獲物を追い、猛スピードで激突して、獲物を傷つけて捕らえるハヤブサの活躍の舞台は、大平原、大草原、或るいは砂漠が必要だ。鷹犬や馬(現代は車)に乗った鷹匠は延々と疾走してハヤブサを追いかける。スケールの大きさではハヤブサ狩り(Falconry)には、どんな鷹狩りもかなわない。

 奈良時代当時も、日本以外はハヤブサが主流だった。そしてその頂点として注目されていたのがシロハヤブサ(写真上)だった。皇帝など権力をもった貴族はこぞって捕らえようとした。英語でgylfalcon。

 そのシロハヤブサの産地として、日本海の対岸地域(東北地区から沿海州)が注目を集めていたのだった。シロハヤブサは「海東青」と呼称された。

 他のハヤブサと違って、「天鵝(白鳥)を能く撃つ」(三朝北盟会編)、「鵝、雁、鸛鶴(コウノトリ)、雉兎の類、捕らえないものがない」(鷹鶻総論)と賞賛された。唐から宋の時代、渤海、朝鮮から中国に献上され、元朝でもフビライハーンが海東青で鶴を捕らえた壮大な狩りがマルコポーロの「東方見聞録」に記されている。

 

 さて、話は変わる。日本書紀(欽明紀)に、佐渡へ「粛慎(みしはせ)」いう異民族が上陸し、住民が恐怖した記載がある。斉明紀では日本海沿岸で阿部臣が「二十隻あまりの」粛慎と戦ったこと、飛鳥に呼んで粛慎47人に饗応したことが記載されている。

 実はこの粛慎の居住地が海東青の産地であり、粛慎は女真語で「東方之鷹(海東青)」と解釈できるのだという(崔広彬「粛慎一名之我見」=北方文物1987.3」)。粛慎は謎の民族とされているが、自らを海東青(シロハヤブサ)を名乗ったとすると、斉明紀の次の記載が興味深い。

 

「粛慎は船軍を連ねて、鳥の羽を木に掛け、それを上げて旗としていた」

 

 旗のように、鳥をシンボルにしていたことが分るが、崔氏の考えが正しいとすると、この鳥は「シロハヤブサ」であることになる。戦った敵を饗応した背景に「シロハヤブサ」があったかどうかは分らないが、そそるものがある。

 いずれにせよ、鷹狩りに夢中だった奈良時代の貴族たちはハヤブサの情報に無関心だったはずがないと思われる。

 歴史的にハヤブサによる狩りが、日本では鷹狩りを応用した狭い地域のつまらない狩りで終わったのは、森林の多い日本の地形でハヤブサが活躍する舞台がほとんどなかったからだと考えられている。

 

出雲風土記のハヤブサについて

 断捨離のため、古いノートを眺めていると、またぞろ、気になることが沸いてきた。しばらく何も書いていないが、これからつれづれに書き散らすことにした。

 始めに、以前夢中になったタカ、ハヤブサのことから。

 

 天平5年(733)にまとめ上げた出雲国の地理誌、出雲風土記は、地理、伝承ばかりか、生息する鳥獣、魚介について細かい調査報告が行われ興味深い。

「ハヤブサ」が全九郡で生息していたことも分かる。

 しかし、ハヤブサの表記は二通りあって、なじみのある「隼」は、そのうちの2郡。「晨風」と表記する郡が7郡ある。

 9郡のうち最初に紹介される意宇郡では、「禽獣には、すなわち鵰(わし)、晨風(はやぶさ)=字あるいは隼に作る=」とあり、各郡からの報告をそのまま活かしたため、「隼」「晨風」とに分かれたと推測される。

 

 当時日本では、ハヤブサはハヤブサと呼ばれていたのは間違いない。その根拠は、712年撰上の古事記(仁徳記)でハヤブサを「波夜夫佐」と記しているからだ。また登場人物のハヤブサワケを「速總別」と表記している。古事記の漢字表記は「速總」ということになる。

 一方、720年に遅れて撰上された「日本書紀」(仁徳紀)では、ハヤブサが「隼」、ハヤブサワケが「隼別」となっていて「」のみ使用されている。

 速總、隼に、733年の出雲風土記で「晨風」が加わったことになる。

 

 晨風がどうして出雲風土記に登場するのだろう。出雲風土記は、修辞などに漢籍の「文選(もんぜん)」の影響があると、小島憲之氏が指摘していたのを見つけて、今回「文選」を調べてみることにした。出てきたー。

 

晨風夕逝/託與之期」 はやぶさの夕べにゆかんとせば、託して之と期せん

「亮無晨風翼/焉能凌風飛」 まことにはやぶさの翼なし いずくんぞよく風を凌いで飛ばんや

 

 とすると、出雲国の7郡の担当者は、「文選」を読んで「晨風」と書いたことになる。推定される担当者は、

意宇郡 郡司主帳 無位海臣(あまのおみ)/無位出雲臣 

秋鹿郡 郡司主帳 外従八位下 勲十二等 日下部臣

楯縫郡 郡司主帳 無位物部臣

出雲郡 郡司主帳 無位若倭部臣

神門郡 郡司主帳 無位刑部臣

仁多郡 郡司主帳 外大初位下 品治部

大原郡 郡司主帳 無位勝部臣

 

「文選」は、周から梁まで約1000年にわたる譜・詩・文章を800首あつめた詩譜集で、梁の昭明太子(501-531)が編集したものという。

 遣唐使によって日本に将来され、漢文を習得するための教科書として採用され、養老令(718年撰集)では、官僚になるための日本版科挙、「進士」の試験の課題となった。定員400人の大学寮を目指すものは、「進士試」「明経試」「秀才試」と3段階の試験があり、「進士試」では、論文2本と、「文選」、「爾雅」の帖試が課されたのだった。

「文選」は平安時代の清少納言「枕草子」などでも教養をひけらかすものとして登場するが、それよりも前に、出雲国の官人たちも必死に暗記していたことが、晨風の用語使用からうかがえるようだ。

 

 

 さて、晨風は中国では、シュンフウと発音したのであろう。前に書いたように、ションホルは、蒙古、中国、朝鮮半島、中央アジアで共通したハヤブサの呼び方だった。ションコルやションコンと、多少の変化はあるが、鷹狩り文化圏では一致した名称がションホルだ。

 ションホルを漢字で表記するさいに「文選」では、「晨」と「風」を選んだのだろう。

 

 実は、中国ではこのほかハヤブサを「コツ」とも呼んでいて、「鶻」と表記された。「鶻」はコル、グル、フルとも呼ばれたことは、ウイグルを「回鶻」と表記したことで想像できるため、ションホル、ションコルが「ホル」「コル」と省略され、やがて「鶻」と表記されたと考えている。コツもションホルから派生したと。

 

 日本では仁徳紀に、隼別の説話の直後の「鷹甘部」の話で、謎の鳥「倶知」クチとして、「鶻」が登場するから大変面白い。

 仁徳紀の筆記者は、隼と倶知が同じ鳥種だと知っていたのか、知らなかったのか。これも探れば興味深いことだと思う。