20年代パリの美術品収集

 石井柏亭「巴里日抄」を読んで、1923年当時のパリに沢山の邦人画家がいたのに驚いたが、おおきな要因は円高だったようだ。第一次世界大戦(1914-1918)の終結後、連合国側の日本は好景気で、円相場が高騰した。

 

 当時パリに遊学していた文学者成瀬正一をテーマにした関口安義氏の論文で次の文章に行き当たった。

 

第一次大戦戦勝国日本の円は強く、大戦前は1フラン39銭内外の為替ルートが、たちまち20銭台に、成瀬がのちフランス滞在中の1923(大正12)年には13銭を割り、以後も円高は続いた」(「成瀬正一の道程(Ⅱ)松方コレクションとのかかわり」(2006年3月、文教大学文学部紀要)。

 

 円が対フランで、大戦以前より3倍の価値を持ったことが分かる。22年に船川未乾画伯が夫人同伴で渡仏できた背景も、これで納得できる。

 

 上記の論文では、成瀬の興味深い松岡譲宛書簡を紹介していた。

 

先日出かけて絵を二枚買ひました。二枚で千七百フラン、即日本の二百五十円位です。日本人の油絵よりは上手で安いんだから面白いぢゃありませんか」(1921年4月30日付)

 

 石井柏亭の日記にも、画家たちの美術収集について書かれていた。洋画家より「懐具合がいい」日本画家がとくに買っていると。

 

 土田麦僊  ルノワル(ルノワール)、ルドン、セザンヌ、ヷン・ゴオグ(ヴァン・ゴッホ)、アンリー・ルーソー(アンリ・ルソー

 菊池契月  ビシエール、ブラック

 石崎光瑶  エジプト美術

 

    柏亭は画家たちが手に入れた作品の画家もチェックしている。

 

 洋画家にも珍しく懐具合のいい人がいたらしい。「硲君が相当なものを買ってゐる」と、硲伊之助がドラクロワの水彩、ピュヴィス(シャヴァンヌ)のパステル画、アンリー・ルーソー(アンリ・ルソー)の2作品を買ったと書いている。

 

 土田麦僊については、今ではクールベ、シャバンヌ、ドーミエも購入し、作品名も判明しているのだった。(豊田郁「土田麦僊の欧州遊学をめぐって」2015)

 ルノワール「婦人像」、クールベ「男のパイプを咥えた肖像画」、ゴッホ静物画、シャバンヌの素描、ドーミエの素描、ルドン「若き仏陀」、ルソー「風景」、セザンヌの水浴の画。

 

 この直前に、西洋美術を大量に収集した人物がいた。実業家松方幸次郎だ。日本から流出した浮世絵8000点以上を買い戻し、西洋美術も3000点以上購入した。

 柏亭の日記の前年まで、松方はパリを中心に2回目の収集事業(1921年4月から1922年2月)を行なっていたので、日記にはその余韻が伝わる箇所も出てくる。

 

1923年2月20日 ボアシイ・ダングラの町のマヌリイと云ふ画堂に其主人と会って、彼れが東京美術館(ミュウゼ・ヂュ・トウキャウ)に売りたいと云ふユウジェエヌ・カリエエルの画を三枚見た。成程その二枚は単色的ではあるが、よく仕上げられたカリエエルである。こちらの人はミュウゼエ・ヂュ・トオキョウと云ふけれど、そんなものは存在して居ない。それは多分松方氏の集を指すものであらうが、松方氏は既にカリエエルを持って居られるだらうと私は云った

 

 松方は「東京美術館」を名乗って大量の購入をしていた様子が知れる。松方の収集を手伝った上記の成瀬は「松方さんが来て方々絵を買ひに歩いてゐる。ゴオガンが十五六枚、セザンヌ四十八枚、クウルベ十枚を筆頭に沢山買った。矢代(幸雄)君も一緒だ。日本で展覧したら立派なものだらう。世界の大抵の美術館には劣るまい。八百枚以上の名画があるんだから」(松岡宛書簡、1921年9月5日付、関口論文から)

 

 これらの3000点以上のコレクションは、散逸、焼失。戦後フランス国内に保管してあった400点分が、フランス政府に没収された後、上野の国立西洋美術館建設を条件に日本に370点返還された。今私たちが見ることができる「松方コレクション」だ。

 

 柏亭の日記には、もう一か所、東京美術館が登場する。バスクの画家スビアウレ兄弟の個展を訪ねた時の記述。

見ごたへがあった。スビアウレの名と其画の写真とは知って居たが、原画を観るのは今度がはじめてである。其画の二つに『東京美術館買上』と云ふ札がついて居た。松方さんが買はれたのかと思って見た

 

 スビアウレ兄弟は、スペインの音楽家ヴァレンチン・スビアウレ(マドリッド音楽院教授)の息子たちで、ともに生まれながらに耳が不自由だったため、父はすぐに絵画を学ばせ、才能を伸ばしたのだった。パリでフランス美術に触れ、故郷にもどって地元バスク地方の風物を描き、20年代にはスペイン国内で知れ渡り、米国でも個展が開かれるようになった。

 1923年に小規模の個展がパリで開催され、柏亭が関心を持ち、その前に松方が購入していたことが分かる。

 

 日本にあるスビアウレ兄弟の作品は、兄ヴァレンチンJr(1879-1963)の2点が長崎県美術館の須磨コレクション(2次大戦中、駐スペイン外交官の須磨弥吉郎が購入し寄贈)、弟ロマン(1882-1969)の「オンダロアの港」が大原美術館に所蔵されている。国立西洋美術館の松方コレクションにはない。

 

 1923年に柏亭が目撃した「東京美術館買上の2点」はどうなったのだろうか。

1 ロンドンに保管された900点に含まれ、1937年に焼失したのか。

2 日本で保管された1000点に含まれ、世界恐慌の1927年に散逸したのか。

 

 世界恐慌で打撃を受けた松方は、日本保管分のコレクションを手放したが、そのうちの一部は大原美術館にも渡ったという。あるいは、柏亭がパリで見た2点のうちの1点がこの作品なのだろうか。興味は尽きない。

 



 こういった「懐具合のいい」人たちの美術収集の流れのなかで、未乾画伯は美術品など買って帰る余裕も、意志もなかったことは間違いない。

 パリからは版画のエッチング機械を買って帰った。版画制作にも意欲を燃やし、この機械で童話作家の尾関岩二と版画100枚入りの「イソップ画集」を計画したのだった。それなのに病魔に襲われて逝去。本当に惜しいことだと、あらためて思うのだ。

 

 

 

 

 

 

未乾のパリ滞在と石井柏亭「巴里日抄」

 船川未乾画伯夫妻のフランス留学の様子を知りたいと思っているが、たどり着けない。

 滞仏の時期が重なる画家の石井柏亭の2度目のパリ訪問の日記「巴里日抄」(「滞欧手記」大正14年)を見つけた。

 石井の1923年1月から2月の日記には、画家など沢山の在留邦人に会ったことが記されていた(こんなに留学生が居たのかと驚くくらいに)。

 

 画家=藤田嗣治、小山敬三、正宗得三郎、坂本繁二郎、児島虎次郎、平岡権八郎、大石七分、長谷川路可、田邊至、齋藤豊作、黒田重太郎、矢崎千代二、坂田一男、山本森之助、跡見泰。

 京都の画家では、土田麦僊、菊池契月、川端弥之助、国松桂渓、霜島之彦、中井宗太郎(美術評論)らと会っているが、船川の名はない。

 

 柏亭の巴里スケッチ「サンシュルピース広場」

 

 ただ船川画伯とつながりがある人物が出てきた。朝香宮鳩彦親王と画家ロオトだ。

 

 朝香宮鳩彦親王

 

 1月18日の日記。石井は、朝香宮が宿泊していたホテル・マジェスティックで開かれたレセプションに出席した。「軍事研究」を目的に渡仏した親王は、前年12月11日にパリ到着、随員2名とともに、ホテルの8室を借りて豪勢に暮らしていた。

 

朝香宮殿下のレセプションがあるのでそれに出席した。御傍の人は私の誰であるかを問はうとしたが、殿下は微笑されながら『知ってる知ってる』と仰せられた。/画家仲間の出席者は児島君と藤田君、それから正宗君、平岡君位なものであった。平岡君は殿下と御同船した関係があって既に御馴染になって居た。同じ出席者である大住君の誘ふままに、帰途同君の宿へ寄って夕飯を御馳走になった

 

 朝香宮は、石井と顔見知りだったようだ。巴里で活躍していた藤田、児島の両画伯が招かれている。「大住君」は哲学者大住舜氏、気の毒なことにこの年の11月パリで客死している。

 実はこの数か月後の4月1日、朝香宮は交通事故で瀕死の重傷を負ったのだった。一足先にパリで生活していた従兄弟の北白川宮成久親王からさそわれて、同房子妃らとともにドライブに出て大事故にあったのだ。

 パリ西方140キロ辺り。運転していた成久殿下は数時間後に死亡。後部座席に乗っていた房子妃と鳩彦親王は、複雑骨折などの重傷を負い長期の入院生活を強いられた。

 

 船川未乾氏の甥・港井清七朗氏が、「鮭の人生―間人より出でて間人に帰る」のなかで、帰国後の京都での船川夫妻の生活を回想し、パリの宮家の事故について記している(富士正晴「榊原紫峰」)。

 

叔父の渡仏中日本から行っておられた数人の宮様方が交通事故でパリの病院に入院され、叔父夫婦がよく見舞に行き、知遇を得ていた。わけても北白川宮大妃殿下の思召により、大作を買って頂いた話等聞かされた

 

 入院していた朝香宮鳩彦親王北白川宮房子妃を、船川夫妻が度々見舞い、とくに房子妃と懇意になって、画伯の大作を買ってもらうほどになった、ということになる。

 どういう経緯で見舞に行ったのかは皆目見当がつかない。

 

 北白川宮房子妃は明治天皇の第7皇女で、母は権典侍・園祥子。京都の公卿園家の血をひいている。夫を亡くし、心細いパリで治療を受ける同妃にとって、京都言葉を使う船川夫妻の見舞いに癒されたと想像できる。女性同士、咲子夫人の役割が大きかったのだろう。

 7か月入院生活を強いられた朝香宮親王の方は、事故を知った允子(のぶこ)妃が、6月にパリに駆けつけ看病にあたった。允子妃は、房子妃の実妹で、房子妃にとっても心強い来訪だったと想像できる。

 

 実は、石井柏亭も見舞に訪れたことが、「白京雑信」(滞欧手記)に記されていた。柏亭は正宗得三郎とイタリアへ旅行に出、ローマからアッシジへ向かう列車で、イタリア人から新聞を見せられて、事故を知った。パリに戻り、ブリュッセルに向かう時、画家の斉藤豊作宅を訪問し、入院先を知ったのだった。

 

斉藤君の室から新緑の木立を隔てて見えるのがアルトマンのサナトリュームで、其處に北白川宮朝香宮両殿下が入院してゐられるのだと聞いたからお見舞に廻ることにした」と書いている。

私の知ってゐる朝香宮附の武官の藤岡さんは留守だったが、北白川宮附の人に会って御見舞を申上げた」。事故後時間があまり経っていなかったせいか、あるいは簡単に宮様とはお目通りが出来ないものなのか、私にはよく分からない。

 

 船川夫妻は特別だったのだろうか。ふと思ったのは、船川画伯は、京都の美学者園頼三と友人だったことだ。同じ園姓というだけで、なにも根拠はないが、2人の妃とも遠いつながりがあったのかもしれない。

 

 船川画伯の数少ない遺作は、創元社創設者の矢部良策、詩人薄田泣菫とともに、北白川宮家に所有されていたことが分かったが、いずれも現在どうなっているのかは分からない。

 



 アンドレ・ロオト画伯とアカデミー・モンパルナス

 

 石井柏亭は、朝香宮のレセプションの8日後の1月26日に、船川が学んだキュビズム系の画家アンドレ・ロオトの教室を訪問している。

 

朝ロオト氏の教場へ行って見た。モンパルナスの停車場側のリュウ・ヂュ・デパアルにあると聞いたが、其入口があまりに汚いので始めは眼に入らなかった。庭木戸のやうな處に入ると、其處に家畜の小屋があったりする。屋外の階段を昇ってアカデミイ・モンパルナスの教場へ入ると、其處の学生の作品を批評しつつあるロオト氏を見出した。学生は大半を女性によって占められて居る。国松金左氏も其御弟子の一人となって居る。ロオト氏の批評を聴き又其筆をとって正すのを見ると、氏は各個人の性質に関しては頓着するところなく、誰もに対して同じ構成の方則を授ける様に見えた

 

 国松金左氏は、国松桂渓画伯のこと。滋賀県生まれ、京都で活動した。

 石井氏は初め、学び舎の入口の汚いこと、女性の画学生の多さ、学生に対する一様なロオト氏の教え方が気になった様子。耳を傾けていくと、

 

曲線の按排、運動の方向の按排、暖寒色の按排、明暗の按排と云ふ様なことのみに氏は学生の注意を向けさせる。それは絵画の構成上欠く可からざる方則であるが、これは物象の写生に相当の経験ある者が聴いてはじめて有益なる可く、また筆のもち方を碌々分らぬ様な令嬢などが聴いても余り役に立たないのではないかと察せられた。此教場には午後又別にコムポジションのクラスがあると云ふ事である

 

 石井氏は、ロオト氏の高度な内容の授業に気づいたようだ。「相当の経験ある者が聴いてはじめて有益な」ものと理解し、午後のコムポジションの授業にも関心を抱いたように見える。

 

 

 パリの美術界を観察した石井氏は、キュビスムについても詳しく別に書いていた。

以前のやうなキュビズムは今すっかり影を収めてしまった。それはピカソの両面で代表されて居る様に、一方は其単純化を古典的の方向へ運び、他の一方は自然の再現を全く無視した幾何学的形像の調整に向って居る。…アンドレ・ロオトや、ビシェエルや、アクリス…等は後者に属する。(中略)ロオトやビシェエル等は自然物の形象を保ちながら其處に線形色の自由な配合を図ろうとし」ていると、ロオトの目指しているものを捉えている。

 

 船川氏はパリ留学中、この家畜小屋のようなものがある庭先から屋外階段を昇る教場で、ロオト氏から「曲線の按排、運動の方向の按排、暖寒色の按排、明暗の按排」など、貴重な教示を受けていたことが伺われる。「自然物の形象を保ちながら其處に線形色の自由な配合を図ろう」という方向は、帰国後の船川氏の発言と重なっている。

 

 船川画伯は、パリの邦人画家たちとは交流をせず、黙々とロオトの教場で学んでいたこと、そして、事故にあった「宮様」たちの見舞いにも行っていたことがぼんやりとながら分かって来た。

 

 

 

 

 

 

 

比叡の大蟻伝説とヘロドトスの大蟻

 孫娘のおかげで、蟻について気に留めていたことを思い出した。

 比叡山と比良山系の2つの滝に、「大蟻伝説」があることだ。不思議な大蟻なのだ。

1) 大津市坂本本町 「蟻が滝」の大蟻伝説

 若き日の伝教大師最澄が、日吉大宮の橋殿あたりから比叡山を目指し、初めて登った時、滝を見つけ、滝壺でのどを潤そうとした。滝壺には大蛇が居て、赤い舌を出して最澄を一飲みしようと狙っていた。

「その大蛇の様子が如何にも腑に落ちかねるところがあるので、ずっと近づいて行って静かに語をかけた。/『お前はそんな恐ろしい姿をして、此の余を脅かさうとするのか知らないが、しかし余の見る所によると、お前はもとからの大蛇では無いだらう。……さあ、余は先きを急ぐのだから、一刻も早く其の本性を見せて呉れ』」

 大蛇は図星を指され、尾を二三度打ちはたくと煙のように掻き消え、「やがて其所には一匹の米俵の如き大きな山蟻が横たはって居た。」

 最澄は山で仏法弘通の道場を開くから、事業の外護をするように命じ、「今後は誰が来やうとも、断じて今日のやうな姿をして人を脅かしてはならぬ」こと、そして川下の住民はこの水を唯一の頼りにしているので、永遠に水が絶えないように守ることを言い渡した。

 じっと聞いていた山蟻は、大きな渦を巻いて滝壺に潜って行った。(硲慈弘「伝説の比叡山」昭和3年、近江屋書店を引用)

 

2)大津市北小松 「楊梅の滝」の大蟻伝説

 

 滋賀県で最も落差のある滝で知られるこの滝(76Mの落差)は、比良山系の北部の奥にあり、琵琶湖からも見渡せる。雄滝、薬研の滝、雌滝の3段からなって、雄滝は大蛇で、雌滝は小女郎ケ池の女房が大蛇になって移って来たという伝説がある。

 そして、その滝壺の主が、大蟻というのだ。

十畳ばかりの深さ何丈もある滝壺に主がゐて、一寸他に例のない大蟻で、其糞のおちた水を飲んだものは、力量衆に秀づることができるとの云ひ伝≫がある。

 

 共通点は、大蛇の姿をした大蟻が滝の主であり、大蟻には不思議な能力があること。糞の落ちた水は、飲むと力量が発揮できたり、また大蟻は水源が絶えない力を持っている。

 他に例を知らない大蟻伝説が比叡山近辺にだけ残っているのだ。

 

 私には、全く見当がつかない。

印度の北方にある砂漠地方には狐よりも大きい蟻が沢山棲んでゐる。この大蟻共は、よく旅行者を襲ひ、喰ひ殺すことがある。ところが、この地方からは、夥しく砂金を産するので、印度人は、二頭の雄駱駝と一頭の仔持ちの雌駱駝とを連れて、危険を冒して、その砂漠地へ赴く・・・」

 インドの北方の砂漠地帯に、大蟻が住むという。「この奇話は、ヘロドトス以後、西暦十三世紀乃至十四世紀に至るまで、全く同じ筋のまま語り継がれてゐる」

 昭和11年発行の「世界旅行奇譚史」(平路社編)に、ギリシャヘロドトス以来の伝説が紹介されていた。

 

 このインド北方の大蟻伝説は、中世ヨーロッパで広がった、ライオンとアリの混血の「アリライオン(ANTLION)」の伝説に膨らんでゆく。

 



 私は、このアリライオンの姿を描いた中世のイラストを見て、今回蟻が滝の「米俵のような大蟻」となんだか、似てなくもないと思ったのだ。

 

 知の宝庫で、大陸から有象無象の書籍が集められていた比叡山延暦寺には、ヘロドトス以来のインド北の大蟻伝説の史料も含まれていたのではないか、とひそかに思うのだが、それがなぜ、滝壺の主なのか正直分からない。

 

 

 

 

「あれ何?」散策

 連休中に、一時預かった3歳の孫娘を連れて、近くの沼まで散歩に出た。孫は、舗道沿いや、舗石の隙間の土に咲いているヒメジオンアカツメクサカタバミを指さして、「あれ何?」とやたら質問して名前を聞きたがる。タンポポは知っているらしく、質問しない。

 小さいので目の位置が地面に近い。そのせいか大人が見落としてしまう小さな生き物に目が行くらしいのだ。

 沼沿いの遊歩道では、桜樹の下で「蟻がいるよ」と座り込み、地面近くを細かく方向転換して飛んでいるシジミチョウを指して、「あれ何?」と聞いてくる。

 

ヤマトシジミかな。シジミチョウの仲間」。

 

 濁った沼で開花していた蓮の花が気に入ったらしく、石段を下りて沼の柵から乗り出す。「あれ何?」

 

 

「あれはね、濁った水の中から純白の花を咲かせる蓮…」と言いかけて、「蓮、ハクレン」とだけ答える。濁世の中でも独り清らかに花開く蓮だから、絵でも彫刻でも、仏さまは蓮の上に坐っているのだよ、とでも伝えたくなるが、押し付けはだめ、だいいち3歳の子には訳が分からないだろう、と反省する。

 

 蟻とシジミチョウの不思議な関係も知ってもらいたいなと思う。

 

 シジミチョウの幼虫は、蟻に守られて成長すると。

 幼虫は寄生蜂が大敵だ。隙あらば、蜂は幼虫の体に産卵。孵化すると幼虫を食べつくしてしまう。

 その対策としてシジミチョウの幼虫は蜜を出して、蟻を引き寄せ、数匹をボディガードにし、寄生蜂から護ってもらっている。シジミチョウの幼虫は蟻に守られ、一方、蟻も蜜を貰い、お互い助け合っているとー。

 

 しかし、もっと大きくなったら、その先を知ってほしい。

 この関係は、シジミチョウと蟻の、美しい共生(相互利益の相利共生)だと思われてきたのが、7年前に神戸大の研究者(北條賢氏)らが新事実を突き止めた。

 シジミチョウ(ムラサキシジミ)の幼虫の蜜の作用を解明したのだ。糖、アミノ酸たっぷりの蜜を食べた蟻(アミメアリ)は、脳内物質ドーパミンの働きが抑えられ、体の動きが悪くなり、歩行活動が減少し、攻撃性を増すことが分かったという。

 蜜の効果で、蟻は幼虫の傍にとどまって長い間随伴し、幼虫に接近する寄生蜂を攻撃して撃退するのだった。

 つまり、シジミチョウの幼虫は、蜜を使って蟻を操作し、ボディガードに仕立てているのだと。実にしたたかなのだ。

 

 子どもにどこまで伝えるか。

 なにも教えず、もし関心を持ったら、自分で調べるのを手伝ってあげよう。

 

 ドラえもんのアイスが食べたいというので、コンビニに向った。

 

 

知恩院三門を舞台にした「織田信長」

 大正11年(1922年)京都の洋画家船川未乾は、京都商業会議所で個展を開いた後、4月に夫人と一緒にフランスに渡航した。

 京都ではこの年、龍谷大、大谷大、立命館大が大学設立の認可を受け、大学都市へと歩を進め、全国を回っていたフランスのクローデルが京都帝大で講演、改造社が招聘し大フィーバーを巻き起こしたアインシュタインも京都に滞在し、御所などを見て回った。

 鉄道省は「神まうで」(大正8)についで、この年「お寺まゐり」という観光ガイド本を発行し、大正時代に大都会に登場した新中間層を対象に、京都の寺院観光を宣伝推奨した。京都は明るい雰囲気が漂っていたように推測される。

 

 私が興味を持ったのは、この年の10月1日、京都知恩院の三門で、300人近い出演者による大規模な野外劇「織田信長」が計画され、上演されたということだ。

 イベントの中心人物は、二代目市川左団次(1880-1940)。初代から明治座の座元を受け継ぎ、明治39年に左団次を襲名すると、9か月欧米視察。帰国後に歌舞伎の近代化を推し進めるとともに、新劇に参加。小山内薫自由劇場で翻訳劇を上演した。

 

 1922年のイベントは、明治座を売却後に左団次が所属した松竹の創業者大谷竹次郎が、出身地の京都を択んで一大野外劇(当時はページェントと呼んだ)を企画したものだった。総指揮小山内薫。松居松翁が脚本を書き、左団次が信長に扮した。出演者は左団次一座。

 

 私が興味を持ったのは、船川画伯が装幀した「心の劇場」に紹介されていた「友達座」を調べていたところ、創立メンバーの土方与志がこの野外劇にかかわって、当時のことを書き残していたからだった。土方は、小山内に助手を頼まれて「演出原案」を作成した。

 

 どんな野外劇だったか。土方の「なすの夜ばなし」(河童書房、1947)をもとに、再現してみた。

 

                戦前の知恩院三門と楼上(「華頂聚宝」から)

 

 メーン舞台は知恩院の「三門(山門)」(1621年建造の国宝=当時は特別保護建造物、日本最大級の木造二階建築)の楼上だった。三門から神宮道へ下る短い石段と、下ったスペースでスペクタクルが繰り広げられる予定だった。

 観客スペースは、道の向かいの広場を当て、柵、綱で舞台と仕切られた。広場中央に演出用のやぐらを立て、総指揮の小山内とともに、楽屋(周辺の小寺院)に出番を電話で知らせる役目の土方が陣取った。日曜日の日中とあって、広場は早々と埋めつくされていた。

   楽屋には、武士、騎馬武者、歩卒、仮装舞踊者に扮した200名余りのエクストラが控えた。

 劇は、

  • コーラスに続いて、黒い羽根の多数の大悪魔、小悪魔が、三門の下を廻って舞踊を繰り広げて始まった。終ると、客席はシーンとなった。
  • 次いで、三門の楼上に、左団次扮する織田信長がきらびやかな衣装で、家臣と共に登場した。左団次がセリフを披露した。「セリフは朗々と響いて、吾々のいるやぐらにもはっきりと聞えた。/ラジオもなく、マイクロフォンなど、まだない時代だ。私は、今も時々この時の事を思い出しては左団次の声量に驚いている」(土方、上掲書)
  • 下手から佐々成政の手勢が駆けつけた。
  • 三門の石段を、出演依頼した祇園稚児が数十人降りて来る。

 ところが、ここで、観客がなだれ込んできた。

続々つめかける観衆によって、広場の周囲に張りめぐらされた竹柵や綱が破られて了った。押しひしめいてわりこんで来る観客の波のために、遂に前の方に演技の余地を残して坐っていた観衆が立ち上がった。/佐々成政の手勢が下手寺院から仮装して踊り出たのが、観衆の中に捲き込まれて了う。/上手の楽屋外につないであった馬が観衆のどよめきに驚いて逃げ出す。祇園の稚児数十名が山門から石階を下りかけた時観衆は雪崩うって石段に押し上った。子供達の叫喚」(なすの夜ばなし)。

 

 演出のやぐらの上から小山内はメガホンで、土方も大声で群衆を制止しようとしたが、効果がなかった。

 

 この場にいた土方夫人の梅子もこんなふうに書いている。「あまりにも大勢の見物によって、広場に張り廻らしてあった柵がこわれ、見物人が野外舞台にどっと流れ込みました。馬が驚いてあばれ出す、お稚児さんは泣き叫ぶ、芝居はめちゃめちゃになってしまいました」(土方梅子自伝)

 

 芝居はここで打ち切り。「遂にこのページェントは、会場設備の欠陥、場内整理の不完全によって無残に踏みにじられて了った」と土方は振り返っている。「最後まで上演できたらすばらしかったのにと、与志も先生たちも残念でたまりませんでした」(土方梅子自伝)

 

 けが人については記されていないので、大丈夫だったのだろうか。観客数は、新国立劇場情報センターの「日本演劇史年表」に10万人と記されていた。

 

 土方夫妻はこの後、ドイツへ旅立ってしまった。演劇仲間の獅子文六も、船川夫妻の滞在するフランスへ向かった。関東大震災の前年のことだった。

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 昨年から、知恩院の三門は特別公開されるようになったようだ。極彩色の楼上内部で、釈迦如来十六羅漢(ともに重文)を拝観し、楼上から参道を眺め下ろせば、左団次が見た光景を想像することができそうだ。

 

ワニゴチの涙

 玄関正面の壁に、母親が生前に書いた「般若心経」を掛けることにした。多くの知人友人が相次いで亡くなり、なんだかこんな気分になった。

 

 玄関の棚には、ワニゴチの陶芸を置いた。どこに置こうか、あるいは掛けようか迷っていたのだが、この魚にはトゲトゲしい鰭が沢山あり、節分の折のヒイラギの葉のトゲの様に、鬼や魔物を寄せ付けない辟邪として恰好だ、と思いついたのだ。

 



 このワニゴチを見つけたのは、細の通う陶芸教室の先生の個展。器の外に、海や川の生物を象った作品を制作し、展示していた。温厚な風貌の女流陶芸家なのだが、モデルの選び方に偏りがあるのが面白かった。

パイク

ダツ

エイ

フグ

 人間に危害を与える凶器を持ったものばかりー。パイクは鋭い歯があるし、ダツは突進してくる槍のようだし、エイはナイフのようなトゲをもっている。そして毒を持つフグ。

 俄然興味がわいてきて、「どうして、危ないものばかりえらんだのでしょうか」と尋ねると、「ただ、カッコイイ形のものを択んで焼いているだけですよ」とのことだった。

 

 殆どが売約済みや非売品となっていたが、このワニゴチが残っていた。ワニのような大きな口をしているコチの仲間で、ヒレに刺されると厄介だが、食べれば美味しいし、危険度もこれくらいが私にはちょうどいいと思い購入した。

 

 ワニゴチは、比較的深い海底の砂に身を潜めて、目だけ出し、魚やエビ、カニの類が近づくと、大きな口を開けて一呑みするらしい。興味深いのは、コチの仲間だけに、性転換をする。生まれた時は雄ばかりなのだが、身体が成長し4-50センチの体長になると、雌に変化するという。

 このワニゴチは、体長33㌢。大きさから見て、オスからメスに変わりつつあるころではないかと、勝手に想像した。

 

 夜、洗面所に行ったとき、この雌ワニゴチが泣いているのに気づいた。左目から長い涙を流していたのだ。涙はわずかに動いている。

 ぎょっとして明かりをつけ、近くで観察すると、涙に見えたのは細い青虫だった。隣の花瓶の花木についていたものが夜、這い出して魚の上にやって来たらしい。

 

 辟邪の役割に加えて、悲しいことがあると代わりに涙を流してくれるワニゴチだったらいいな、と思いながら、そのままうっちゃって床についた。

 

 朝、出がけに見ると、涙はどこかに消えていた。

 

 

山野草の会で見つけた武蔵鐙

 

 春の山野草の会に、細と連れ立って行ってきた。毎回、面白い名称の草と出会う。

 

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 今回は、ムサシアブミの展示が数鉢あった。鐙(あぶみ)の形に似ているので、命名されたらしい。

 

 鐙についておさらいしてみた。

 鐙は、日本では、古墳時代に騎馬文化の流入とともに、馬具の一つとして作られるようになった。当時は、主に2系統のものがあった。

 

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 輪鐙(上左) 丸い鉄製の輪で、乗馬の際に足掛かりにした。乗馬した後では、足を外した。というのも馬が暴れ、トラブルがあったとき、輪鐙から足が抜けにくく大変危険なものだからだ。片方だけ吊るされていたと思われる。

 

 壺鐙(上右) 壺を横にした形の鐙で、足先を入れ、乗馬後も用いられた。危険度が少なく、馬術に長けていない者も重宝した。左右両方に吊るされていた。

 

 ムサシの国が含まれる関東地方の古墳からは、両方の鐙が埴輪などによって確認される。

 

 さて、ムサシアブミの花から推測される鐙は、輪鐙にも、壺鐙にも似ていない。

 

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 花を逆さにすると、壺鐙が発展して生まれた平安時代の半舌鐙(はんしたあぶみ)によく似てくる。鎌倉武士が登場してさらに半舌鐙の「舌」が長くなった舌長鐙(したながあぶみ)に変って行くが、これにも似ている。

 

日本では、平安時代に壺鐙から半舌鐙(舌の長さ四寸五分)に変り、さらに平安時代後期から鎌倉時代に、重装備に変ってきたため、騎馬戦で鐙を強く踏み込む必要から、絵巻物や屏風絵によく見られるような舌長鐙(舌の長さ八寸以上)に変っていった」と坂内誠一氏の「碧い目の見た日本の馬」(聚林書林、1988年)に書かれている。

 

 舌の長さ13.6cmが、24.2cm以上に長くなったということは、足の前半分程の長さから、足の裏を全体を乗せる鐙に変ったということが分かる。

 

 さて、平安時代伊勢物語の13話に「武蔵鐙」という短い歌物語があるのだった。「むかし、武蔵なる男、京なる女のもとに、聞ゆれば恥し、聞ねば苦し、と書きて、上書に武蔵鐙と書きておこせてのち、おともせずなりにければ

 

 東国に行った男が、京都の女に、耳に入ったら恥ずかし、耳に入れないのは心苦しいと記し、上書きに「武蔵鐙」とだけ書いて、手紙を出した。

 

 当時の鐙は半舌鐙。武蔵鐙も半舌鐙だったようだ。

 男は、京の妻に、東国で妻が出来たということを示すのに、馬に乗って左右に二俣かける鐙「武蔵鐙」ということばを択んだのだった。

 しかも、足の半分だけ乗せる半舌鐙2つ。これで分かるだろうと。

 

 京の女は、

 武蔵鐙を さすがにかけて 頼むには 問はむもつらし 問ふもうるさし

 

 と返事を書いた。

 武蔵鐙を「さすが」でしっかり鞍に止めて吊るすように、あなたを頼りにしたいのだが、話を聞かないでいるのもつらいし、また問いただすのも煩わしい、どうしたらいいのか、といった内容のようだった。

「さすが」は、刺金、刺鉄と書かれ、鐙を鞍に留める金具だという。私たちのベルトでいうと、バックルの真ん中の真っすぐな棒のことを「さすが」といったのだ。

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 半舌鐙には、さすがのあるものと、鎖を連ねた2種類がある。さすがのあるもの(上左)が、武蔵鐙であることが、この京の女の歌から判明するのだった。

 

 馬具の知識が、平安時代の女性たちにも良く行きわたっていたのだ。私は、ムサシアブミの花の名を、今頃になって知ったというのに。