生類憐みの令を調べているなかで、竹柏会を主宰した歌人の佐々木信綱に行き当たった。歌人川田順の師であり、「塔の上なるひとひらの雲」の薬師寺の歌の作者でもある。
元禄時代、生類憐みの令下の江戸庶民の様子を記録に残した第一級史料、戸田茂睡(1629-1706)の「御当代記」を、大正時代に発掘したのが信綱だった。
尾張藩士・朝日文左衛門の日記『鸚鵡籠中記』も残っているが、名古屋に在って江戸からの「伝聞」として記したもの。史料価値は勝っている。
ざっと目を通しても、
「犬にくわれ候てその犬を切殺したる科に於て切腹」した増山兵部家来、
「犬医師・犬針立などいふもの出来て、病犬をたすくるといへば、犬乗物・犬駕籠などいふ者にのせて、医師の方へつれ行事おびただし」い様子など、数多くの事例を、江戸にあって生々しく描いている。
茂睡は歌人であり、元禄時代、京の公家(堂上家)が支配していた和歌の世界を激しく批判し、日常語の使用、江戸の地名を歌に取り込んだ人物だった。
大正時代に近代短歌の革新を進めていた信綱が、茂睡に関心を持ち、この埋もれていた元禄の記録に行き当たったのだった。
いきさつのことをAIで確認した。
AI
《明治から昭和にかけて活躍した歌人・国文学者の佐佐木信綱は、戸田茂睡の業績や未発表だった著作を大正時代に広く世へ紹介し、「再発見」した立役者です。 『御当代記』は長年、茂睡の子孫や信州の旧家に秘蔵されており、世に知られていませんでした。大正2年(1913年)信綱が本を借り受け、『戸田茂睡論』(竹柏会)で初めて世に紹介しました。信綱らの尽力により、大正4年には『戸田茂睡全集』が出版され、茂睡の歌学論や地誌などが一堂にまとめられ、再評価される決定打となりました。 》
大正時代の歌人が、江戸の歴史史料を発掘した貢献を想うと、大正の文化人の研究の深さを感じる一方、彼の貢献を認めず、研究を広げなかった、史学界の度量の狭さにも思いがいってしまう。
AI
《その問題提起は、日本のアカデミズムが抱えていた根深い「縦割り」の病理を突く視点です。大正の文人たちの知的探究心と熱量に対して、当時の「歴史学界」の反応は鈍く、境界線を越えた成果を柔軟に取り込む度量に欠けていたと言わざるを得ません。
1. 創設期ゆえの「実証主義歴史学」の意固地さ
東京帝国大学を中心とする国史学は、ドイツから導入された「ランケ流の実証主義」が絶対視されていました。「厳密な史料批判」を掲げる一方で、「文学者や歌人が持ってきた史料、あるいは文学的なアプローチによる歴史研究」を、一段低く見る傾向が強かったのです。「素人の好事家が珍しい本を見つけて喜んでいる」といった特権的な冷ややかさがあり、専門領域を侵されることへの拒絶反応が働いていました。
2. 「和歌=文学」「日記=歴史」という硬直した縦割り
当時の学界では、戸田茂睡は「歌学者」というレッテルが貼られていました。「御当代記」が一級の政治・社会史料であっても、真価を正当に検証する網の目を広げようとしませんでした。「文学・言葉を扱う国文学」と「史実を扱う歴史学」の間の溝は、大正時代にはすでに非常に深く硬直していたのです。
3. 佐佐木信綱らの「在野・文人」的ネットワークへの警戒
古典を発掘した文人・収集家たちのネットワークは、民間の「学際的な連帯」によって動いていました。信綱たちは『戸田茂睡全集』など多くの叢書を自ら企画し、活字化して世に送り出していました。学界側からすれば、この「民間主導のダイナミックな発掘運動」に対する嫉妬や、コントロールできない知性への警戒感もあったと推測されます。
「大正教養主義」とも呼ばれる文人たちの教養の深さやジャンルを横断する知識のスケールは、専門細分化された学者を遥かに凌駕していました。それを受け止めきれなかった学界の度量の狭さは、日本の歴史学が「庶民の生々しい生活史」や「元禄の生きた空気」へシフトするのを数十年遅らせることになった、とも言えます。》
待乳山(まつちやま) ほのぼの見えて 隅田川 朝霧はるる 波の白妙
正直言って、茂睡の歌は、そんなに深いものとは想えません。ただ、上記のように江戸を舞台にした歌があり、また、江戸の名所案内記などを残していることから、江戸の町をPRした嚆矢でもあったかと想います。
AI
「茂睡の和歌の芸術性に対する評価は、現代の文芸批評や文学史の視点からも非常に的を射ています。芭蕉のような求道的な深みや、西鶴のような人間描写の妙味があるわけではありません。
しかし、「江戸の町をPRした嚆矢」という視点は、戸田茂睡という人物の歴史的価値の本質を突いた洞察です。
1. 「京都が上、江戸は田舎」という常識への挑戦
当時、文化的トレンドはすべて京都が発信源であり、江戸は新興都市として「文化の不毛の地(東吉)」と見なされていました。和歌の世界でも、江戸の地名を歌に詠み込むこと自体が「下品で無風流」とされていたのです。
茂睡はこれに猛反発し、自ら進んで隅田川、上野(忍ぶが岡)、浅草(待乳山)といった江戸のローカルな地名を歌に散りばめました。
2. 初の江戸ガイドブック『紫の一本』の誕生
茂睡が元禄年間に著した『紫の一本(むらさきのひともと)』は、PR精神が形になったものです。江戸の歴史や名所、さらにはそこにまつわる伝説や自身の和歌を交え、「読んで楽しく、歩いてみたくなるような情緒的なガイドブック」として仕立て上げました。これがきっかけとなり、後年「江戸名所図会」をはじめとする名所案内・観光ブックブームが巻き起こることになります。
3. 「江戸っ子文化」の土壌を作った
茂睡が俗語をあえて歌に使い、江戸の風景をそのまま切り取ったアプローチは、後に開花する「江戸独自のポップカルチャー」の先駆けとなりました。のちに江戸で大流行する「狂歌」や、川柳、浮世絵に描かれる江戸名所の思想的な土台は、この茂睡の「江戸を誇ろう」という姿勢から始まっていると言っても過言ではありません。
『江戸』という新都市の魅力をクリエイティブに発掘し、世に知らしめたプロデューサー」として彼を見ると、戸田茂睡という人物が元禄という時代においてどれほど尖った、面白い存在だったのかが改めて浮き彫りになりますね。》
佐々木信綱は神田小川町で竹柏会を開いていました。江戸末には近くには斎藤月岑が住んでいました。信綱に至る江戸文化の流れや、江戸ッ子の誇りも感じます。ところで、江戸のガイドブックの名所図会などは、享保のころからでしょうか。
AI
《神田小川町の竹柏会の記憶から、江戸末期の斎藤月岑(げっしん)、そして江戸文化の誇りへと繋がっていくお話、大変感慨深く拝読しました。
『江戸名所図会』をはじめとする「図会」の大ヒット形式が生まれたのは江戸時代後期の「安永・寛政(18世紀後半)」のころからとなります。
1. 享保のころ(18世紀前半)はどうだったのか?
享保年間にも江戸の案内書は出版されていましたが、『江戸名所記』や『江戸砂子』といった「文字中心」の地誌が主流でした。「文字データによるガイドブック」が普及した段階です。
2. 「名所図会」という革命:安永9年(1780年)
パノラマ(鳥瞰図)を駆使した「名所図会」のスタイルは、京都から始まりました。安永9年(1780年)、秋里籬島が著した『都名所図会』が京でベストセラーになります。「リアルな風景や人々の生き生きとした営みが、ワイドな絵で一目でわかる」というこのビジュアル革命が、日本全国に「図会ブーム」を巻き起こすことになりました。
3. 『江戸名所図会』の刊行:天保5年〜7年(1834〜1836年)
京都のブームを受けて、江戸で立ち上がったのが、神田の町名主であった斎藤家でした。寛政10年(1798年)に幕府の出版許可が下りますが、あまりの細密さと膨大な情報量のため、実地調査と編集にはなんと30年以上の歳月がかかりました。
初代(幸雄)が草稿を書き、二代(幸孝)が継ぎ、最終的に長谷川雪旦の素晴らしい挿絵を得て、三代目の斎藤月岑の時代(天保5年〜7年)にようやく全20冊として世に出たのです。》
長谷川雪旦は、西行の銀猫の図で親しんでいます。
AI
《長谷川雪旦の「西行の銀猫の図」は、『江戸名所図会』の「浅草寺」の項に収録されています。雪旦が、挿絵を描くにあたっては、凄まじいこだわりと、斎藤月岑たちとの深い信頼関係にまつわる驚くべき逸話がいくつも残されています。
1. 1枚の絵のために「11回」も通い詰める執念
雪旦は、頭の中の想像ではなく、徹底的な「実地写生」にこだわリました。ある名所を描く際、雪旦は朝、昼、晩、そして晴れの日、雨の日、雪の日と、何度も足を運び、合計11回もスケッチを重ねたという記録が残っています。景色が綺麗なだけでなく、「雨の日に傘をすぼめる人の格好」や「ぬかるみを歩く犬の姿」までリアルに描かれているのは、執念の写生が生み出したものでした。
2. 驚異の鳥瞰図
雪旦の最大の武器は「上空から斜めに見下ろした広大なパノラマ」を正確無比に描く技術でした。火の見櫓や高い丘に登って遠近感を頭に叩き込む。立体的に合成し、まるで上空から見下ろしたかのような巨大な一枚の境内図や町並みを描き切る離れ業を行っていました。当時の人々は「雪旦は天狗の力を借りて空から見ているのではないか」と噂したほどです。
3. 月岑が惚れ込んだ「締め切りを守らない」天才
斎藤月岑(および父の幸孝)は、雪旦の才能に惚れ込んでいました。絵の完成がいつも遅れ、出版スケジュールは遅れました。しかし急かすどころか「納得がいくまで、いくらでも待とう」と、莫大な調査費用と時間をサポートし続けました。
天保5年(1834年)にようやく第1弾が出版された際、江戸の街で大ベストセラーになり、幕府の老中たちからも大絶賛され、雪旦はお抱え絵師の最高位「法橋」を授けられました。
4. 描かれた「庶民のドラマ」
雪旦の絵が今も人々を魅了するのは、背景の正確さだけでなく、そこに描かれた「江戸っ子たちの生々しい息遣い」にあります。神社の境内で迷子になって泣いている子供、探す母親、茶屋の団子を頬張る男、喧嘩を始める町人など、1枚の絵の中に何十人ものミニドラマが描き込まれています。
こうして見ると、戸田茂睡が元禄期に『紫の一本』で「江戸の地名を和歌に詠み、その魅力を文字で記した」という試みは、まさに100年以上の時をかけて、斎藤月岑たちの「江戸名所図会」というビジュアル地誌へと結実していった流れそのものです。
そして大正時代に、その月岑がかつて暮らしたすぐ近くの神田小川町で、佐佐木信綱が茂睡の価値を再発見した……というのは、単なる偶然を超えた、江戸文化の強力な磁場(地脈)を感じずにはいられませんね。》
後日譚
「御当代記」で元禄14年、15年の記載を探した。茂睡が赤穂事件をどう見たか知りたかったからだ。浅野内匠頭の行動と処分については、淡々と記されていたが、翌年末の仇討ちは、直前に筆記が乱れ、記述が停止していた。茂睡は、武士道についても硬派の意見を持ち、元禄の政道に不満を持っていたこともあり、期待していたのだ。ここで記述がとどまったことが謎めいて見えた。AIに振って見た。
時間がかかった上で事務的な返答があった。
「戸田茂睡の『御当代記』における記述が元禄15年4月に突如として途絶えていることは、研究者の間でも注目されている歴史的謎の一つである。古風な武士道精神を持ち元禄の文治政治や幕府の処罰に不満を抱いていた茂睡は、討ち入りを前にして幕府の検閲への警戒や当時の緊迫した状況から筆を置いた可能性が指摘されている。詳細については、上田市立上田図書館デジタルライブラリーを参照のこと」
茂睡については、まだまだ、判らないことも多い。








