見かえり阿弥陀像と東大寺東南院

 普段は公開されないが、京都東山の永観堂禅林寺に見返り阿弥陀如来像が安置されている。顔を左に向け、肩越しに視線をやっている。

「本尊みかへり阿弥陀仏は世に名高し」(「京都名勝帖」明治42年、風月堂)と、珍しい仏の姿は古くから信仰されてきたことが分かる。

 

「京都東山永観堂禅林寺略伝」(青井俊法編、明治28年)に目を通した。

 仏はもともと東大寺秘仏で、正面を向いていた。禅林寺の永観(ようかん、1033-1111)が東大寺勧進職として3年務めた際、この仏を深く信仰し、退任時、背に負って持ち出した。東大寺の宗徒は憤然と追いかけ、宇治の木幡山辺で追いついたが、「如来ハ恰モ小児ノ母ノ背ニ於ケルガ如ク律師ノ背ヲ離レ玉ハズ」、宗徒はあきらめて帰り、時の白河天皇も「永観有縁ノ尊像ナルベシ」と許可をしたという。

 見返りの姿に変わったのは、永保2年(1082)2月15日晨朝。桜の咲く、きさらぎの望月のころ、ではないか。永観が道場で行道(堂内を読経しながら回る儀式)をすると阿弥陀如来が壇上から降り、先に立ってともに行道した。律師が感涙の余り、乾(西北)の隅で躊躇した時、如来が左に振り向き、「永観遅し」と告げた。

 律師はこの「顧リノ尊容ヲ依然永代ニ留メ末世ノ衆生ヲ済度シ玉ヘ」と誓願し、如来もそれに応えて今の形となり、「回顧阿弥陀如来」と号したのだという。

 

 もちろん信じがたいが、永観と如来像の超親密な関係は伝わってくる。見返り如来像はそもそも東大寺にあったか、あるいは永観が指示して制作したかのどちらかだろう。

 カギは東大寺にありそうだ。永観が学んだのは、三論教学の拠点の東大寺東南院だった。南都六宗のひとつ三論宗は、平安時代になると宗派としての独立性は失われたが、教学的に真言宗天台宗に大きな影響を与えた。「八不」「中道」と正直分かりにくいが、分別の哲学を排する反ドグマの傾向が特徴のようだ(自信はないが)。

 その重要人物が、聖宝(しょうぼう、832-909)で、鬼神が出る、と誰も利用しなかった東南院に入り拠点を作った伝説が残されている。

 法相宗三論宗など南都六宗は総じて、教学とともに実践修行(瑜伽)が重視されたものの、教学に傾く傾向があったようだ。瑜伽は、役行者のような山岳修行として、奈良盆地を取り巻く葛城、金剛、吉野、多武峰などの山林で行われたと考えられる。

 聖宝は、寂れていた吉野金峰山の山岳修行を整備、復興し、自らも笠取山の山上に醍醐寺上醍醐)を開創したのだった。宇多天皇らが支援し、東寺長者、僧正と真言宗の僧として地位を昇りつめたが、聖宝の面目は三論教学が持つ実践の精神だったと考えられる。

 永観は東南院浄土教を学び、民衆への布教に力を注いだが、これも聖宝の分別を排する実践精神を受け継いだように見える。

 聖宝の逸話で有名なものがある。貪欲な上位僧のおかげで、東大寺の僧たちは支給が不足していた。上位僧と賭けをした聖宝は、人出で賑わう賀茂祭で褌姿に干鮭を太刀として差し、牝牛に乗って大声で名乗りながら通るという、上位僧の無理難題をやってのけ、ハナをあかしたというものだ。

 仏像を東大寺から持ち出し、背負って京都東山に向かったという永観の逸話は、聖宝と似た精神が伝わる。儀軌という仏像制作の細かな規則に縛られず、顔を曲げた如来像を拵えてしまう大胆さも同様だ。

 

 永観の歌が「千載和歌集」(1183)の巻19釈教に残されている。

「みな人を渡さむと思ふ心こそ極楽にゆくしるべなりけれ」

 歌としては、説経臭く面白みはないが、「一人残さず、皆で極楽に行くのだ」という永観の強い意志を感じさせることは確かで、こぼれて居るものはないかと振り返る「見返り阿弥陀仏」の姿とは確かにつながっている。

 東大寺東南院の2人の三論宗の僧と、武蔵の見返り地蔵とどういう関係が見つかるのか。あるいは見つからないのか。さらに探ってみる。