休みの日に、孫娘を預かることが増えた。私の部屋が気に入って、部屋にある物を弄りまわす。
朱肉と黒スタンプで手を汚しながら十種類の印鑑を押しまくり、旅先で拾った石や、外国コインを瓶や箱からベッドにぶちまけては、また戻して楽しんでいる。ネクタイピンにも興味をもって自分の服に挟み、巻尺の中身を引っ張り出しては身体に巻き付けようとする。
その間、猫は押し入れに潜り込んでじっと隠れている。孫は「猫を見たい」と言って、押し入れを開けて、「こんにちわ」と挨拶して触り、すぐ閉める。
嵐のような時間なのだ。
息子しかいなかったので、孫娘のパワーに驚いている。
今、調べている白鳳時代には、女性が大活躍している。中国の則天武后、我が国の持統天皇、元明天皇、元正天皇。
前後に広げると、前には推古天皇、皇極(斉明)天皇、後ろには権力をふるった光明皇后がいる。
興味深いのは、則天武后と持統天皇が、ほぼシンクロしていることだ。
687 天武天皇歿
689 実質的に帝位に就く
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703 持統天皇歿
705 武后歿
持統天皇は同時代の武后を意識していたのではなかったか、と思うほどだ。
大陸の動きと、日本の動きは時間差があると思い勝ちだが、一概には言えないようだ。
「続日本紀」の文武天皇慶雲元年の記載では、701年遣唐使の粟田真人が中国に到着して、初めて、今は唐でなく則天武后が建国した「大周」であると知った、とある。建国後10年以上たっても隣国の情報が入ってなかったと、正史には書かれている。
那須国造碑(尾崎喜左雄「多胡碑」67年)
しかし実際は、栃木県那須に現存する700年建造の「那須国造碑」には、689年の表記で「武周」の年号「永昌」が使われている。
「永昌元年己丑四月 飛鳥浄御原大宮 那須国造大壱那須直韋提評督被賜歳次康(ママ)子年正月」
689年4月、持統天皇から那須直韋提が「評督(こおりのかみ)」を賜った年が、なぜか則天武后の武周の年号で記されているのである。粟田真人の遣唐使出帆前に、下毛野国には、武周建国も、その年号も伝わっていた。正史だからと言って、正しく伝えているとは限らない。
689年の持統紀によると、4月8日、帰化してきた新羅の人を下毛野に住まわせた、の記述があり、大陸の情報は、彼らから得たのだと推測される。
663年白村江の敗戦後、政権は揺れ、672年壬申の乱が勃発。勝者の天武天皇側が、藤原不比等など若手官僚に支えられながら、2度の遷都を遂行し、律令による支配体制の構築へ進んだのが、白鳳時代だった。この間、高句麗、新羅からの亡命集団の入植が続いた。彼らによって大陸の動きがもたらされたのだった。
則天武后が没して、武周が倒れ、唐に政権が戻ると、中国では、武后が信仰した法相宗が衰え、新たに華厳宗が隆盛になって来る。
日本には、約30年遅れて、736年に華厳宗が伝わった。大仏の建造は、聖武天皇・光明皇后によって、743年から華厳宗東大寺で始まった。本尊は廬舎那仏として建立された。
法相宗から華厳宗へ。政権の移り変わりが、宗派の盛衰につながるわかりやすい例だ。
黒田曻義「東大寺」(昭和16年、近畿観光会)
東京都下の深大寺の如来倚像は、以前は寺院が法相宗であり、玄奘三蔵とつながりがあることから、白鳳時代作だと言っていいような気がするが、寺の縁起にある天平年間の寺院創建まで下る可能性もある。
法隆寺金堂壁画の弥勒如来倚像の制作年代が、707-735年と絞り切れていないのと同様で、法相宗から華厳宗への移り変わりが、唐より30年遅れているのに対応している。
深大寺の如来を探るには、倚像から離れて、深大寺仏と表情がよく似ている他の「白鳳仏」のことを調べないとならないようだ。
嵐の後の猫