未乾画伯と壽岳文章

 「書物」の訳編者壽岳文章(1900-1992)という人物は大した方なのであるが、前に「セルボーン博物誌」(岩波文庫、49年)の訳者として触れたことがある。

 ホワイトが1767年に刊行した英国南部の動物誌「セルボーンの博物誌」の翻訳にあたって、壽岳は挿絵に英国北東部の木版画家ビューイックの作品を選んで岩波文庫にしたのだった。鳥類学者ハーディングが再編集した改版「セルボーンの博物誌」(1876)がビューイックを用いたのを参考に、自分なりに挿絵を選んだのだった。注釈もしっかりしていて、実に丁寧な本作りをする人物なのだ、と思った。

 若き頃、壽岳は柳宗悦民芸運動に参加し、全国の和紙作りの里をめぐり和紙研究に打ち込んだ。英文学の教壇に立つ一方、ウイリアム・ブレイクの書誌、紙漉村旅日記など、自宅で自ら見事な本作りをした。 

 壽岳は1924年京都帝大に入学以来、33年まで南禅寺周辺に住んでいて、船川未乾画伯と親交があったというのを知った。1930年に刊行された壽岳文章「書誌学とは何か」(ぐろりあそあえて)の扉の絵は、未乾のものだと中島俊郎甲南大名誉教授が推測した文章に出くわしたのだ。木の下で読書する人物の版画。

 根拠は示していないが、「近くに住んでいて交流していた船川未乾の絵筆になるものであろう」(「壽岳文章と読書甲南大学紀要文学編23年3月)と記している。昭和5年、本が上梓された年に未乾は没し、出来上がった本は見ていないことになる。この時、画伯は装幀が出来る体力を持ち合わせていなかったのかもしれない。

 その時の2人の年齢は未乾43歳、壽岳30歳。創元社の刊行本の装幀をしながら、壽岳のいうところの「書物演出家(book producer)」としても活躍していた未乾と、壽岳は本作りについて数年に亘って意見を交わしたのではなかったかと想像された。

 壽岳は、装幀など本作りの知識をさらに深めていく。震災後24年から京都へ移転していた柳宗悦との交流や、京都帝大の新村出教授とが、影響を与えた人物として知られるが、未乾もまたその一人に数えていいのかもしれない。

 出版元のぐろりあそさえての伊藤長蔵を紹介したのは新村出だったと、同書に記されているが、実は3年前に未乾はぐろりあそさえてが刊行した小田秀人「本能の聲」の装丁をしている。

 今まで追いかけて来た幻の洋画家船川未乾については、次の猫本3で扱う予定だが、未乾が壽岳と接点があり、京に滞在していた柳の民芸運動との関係を伺わせ、まだまだ未乾画伯に就いて分かっていないことに気が付いたのである。