「銀猫」探しは続く

 郵便受けを覗きに出ると、本が届いていた。

 川田順西行研究録」(昭和16年10版、初版は同14年11月)。ざっと目を通すが、期待した記述はなかった。

 

 銀猫について、あらためていきさつを以下のように書いていた。

 

南都東大寺は治承四年十二月平重衡の兵火に罹って焼亡したのを、同寺の住僧俊乗坊重源(法然の弟子)が後白河法皇院宣を奉じ、再建の経営に任じ、諸国に大勧進を行ひ、東は蝦夷の地に至るまでも寄付金を募集した。

   我が西行は重源から頼まれて、同族の藤原秀衡に沙金の喜捨を勧めるべく、奥州平泉へ下った。伊勢を発足したのが文治二年秋立つ頃、彼六十九歳の頽齢であった。八月十五日鶴岡八幡宮に巡礼し、図らずも頼朝に見付けられて営中に召され、歌道や弓馬のことを談った。その夜は営中に泊められ、翌正午辞去の際、頼朝から引出物として「銀作猫」を賜はった

 

 東大寺再建に賛同した69歳の西行法師(佐藤義清)は、佐藤家の宗家、平泉の藤原秀衡に寄付を求めに旅に出た。途中、鎌倉の鶴岡八幡宮を詣でていると、源頼朝に見付けられて、一泊。歌や流鏑馬など、さしさわりのない話をし、翌日引き上げるとき、頼朝が高価な銀製の猫を引出物に手渡した。 

 

銀製の猫、貴重なればこそ、佐藤一族の前家長、日本一の歌僧に対して、六十六国総追捕使から引出物にしたのである。西行は営門を出ると、それを往来の児童に与へて、奥州に急いだ」。

 

西行を好きな人は、昔も今も、多過ぎるほど多い。霞をくらひ露を吸ふ仙人と同列に視て、(それは莫迦げた誤解だが、)そこが面白いと、面白がる人がある。頼朝から贈られた銀猫を路傍の児童へ与えて去ったのを、やんやと嬉しがる人もある。」

 しかし、奥州まで行脚する粗末な袈裟姿の僧にとって、「銀猫などは食料にもならず、いたづらに荷厄介なしろものだ。そんな物をくれるとは、「拝領の頭巾梶原縫ひ縮め」と川柳子から敬意を表された、有名な頼朝の才槌頭も案外活(はたら)かな過ぎる。西行ならずとも、私でも、そんなものは児童にくれてやったに相違ない。」

 

 重いものを持たせるとは気が利かない。自分も西行の立場だったら、子供にあげたというのである。

 

 一方で、「文治三年十月二十九日、秀衡病歿し、中尊寺金色堂内に木乃伊として納められた。翌々年閏四月三十日、泰衡は衣川館を襲って義経とその妻女・家人等を殺した。けれども頼朝は、泰衡が義経を長くかくまって置いたことを口実として、奥州征伐を決行した。同年八月二十一日、泰衡は平泉館に火を放って蓄電した。

 翌二十二日、頼朝その焼跡に往くと、坤(ヒツジサル)の隅に倉廩一迂火を免れて残ってゐた。葛西清重・小栗重成等をしてこれを検分せしめたところ、紫檀厨子・犀の角・象牙の笛・瑠璃の笏・金の沓・金の華鬘・蜀江の錦の直垂・金造りの鶴等々の珍宝、さうして銀造りの猫もあった」。

 

 「西行は銀製の猫を児童に与へず、墨染の袖に大切に包んで、奥の秀衡への引出物に利用したのかも知れぬ」。

 

 川田は、銀猫は子供に与えたのだろうが、平泉に持って行ったかもしれないと、二つの可能性を示しているだけであった。銀作猫(鎌倉)と、銀造猫(平泉)とが同じものであるか、結論は出していないのだった。

 

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 私は、金造りの鶴など、平泉館で発見された財宝が、今も奈良・春日大社に残る平安末の遺宝と共通していることに気づき、銀造猫もまた、春日大社に残る太刀飾りの猫像で偲ぶことができるのではないか、と前に書いた。

 

 その後、2017年東京国立博物館の「春日大社千年の至宝」展に展示されたその猫(金地螺鈿毛抜形太刀)を見に行った。動きのある猫に私は興奮したが、なにぶん小さな模様なのと、愛嬌のない猫の表情なので、観覧客にさほど人気を呼ばない様子だった。

 この動きのある猫を、銀で立体にしたのが、西行の猫なのだと、私は考えたのだった。

 

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 落手した「西行」続編に落胆しながら、以前自分が考えた事を、わが家の猫と振りかえってみた。

   西行寂滅の時も手元に置いてあったという銀作猫の話は、なんだったのだろう。