古書肆から取り寄せた「川柳狂詩集」(昭和3年、有朋堂書店)を流し読みして、ある川柳を見つけた。文政年間(1818-1830)の作品の部にあった、一之という作者のものだ。
煙管(きせる)がなんぼ出来ベイナア此猫で
西行の銀の猫
源頼朝から西行が貰った銀猫を溶かして、銀作りの煙管(キセル)にしたらどれだけできるだろうな、という川柳だった。「西行の銀の猫」と添書されている。
江戸時代後期、キセルでも「延べ煙管」といってキセル全体が金属製のものが流行した。その中でも銀製キセルは高値の花だったようだ。当時の煙草好きは、銀製キセルがほしいが、銀猫を貰ったら、何本つくれるかなあ、と空想したといったところだろう。
私は、一之が「吾妻鏡」を読んでいたとも思えず、どうして西行の逸話を知ったのか不思議に思っていた。
今回、柄井川柳「柳多留」で、文政より前の明和~天明(1764-1789)の時期の作品で、次の川柳を見つけた。
千本もきせるの出来る猫をくれ
この猫は西行が貰った銀猫であることが推測できた。一之の川柳は、二番煎じだったことも判明した。
さらに探すと、二世川柳が引き継いだ文化年間以降(1804-)の「柳多留」に、
其猫をくれさつせへと村子供
があった。銀猫をねだる童を川柳にしている。川柳は、受け手も理解していないと成立しない。江戸時代の大衆は、西行猫をよく知っていたことになる。
西行猫を扱った洒落本でもあったのか。探してみると、寛政2年(1790)刊行の黄表紙「人間万事西行猫」が見つかった。樹下石上(山形藩士・梶原成節)作、北尾政美絵の3巻。
西行が子供に上げた銀猫=上図=は、心配した子供の親が番所に届けてしまった。それを知った源頼朝は、その銀猫に金猫も加え、西行に届けさせた=下図=。西行も今度ばかりは素直に受け取ったが、あろうことか西行の宿の飯炊き男が2匹の猫を奪って、身をくらましてしまった。
その直後、3人の盗賊が金銀猫を狙ってやってきた。西行から事情を聴いた盗賊は、思案の結果、西行に300匁の銀貨を手渡して、猫の行方を探させることにした。西行は、猫の居所を探し、品川、愛宕下(猫と鼠の出し物を見物)、浅草、吉原と遊女が猫を飼っている廓を探すが、お金を飲み食いで使い果たしてしまい、結局放浪の旅に出るーといった内容だった。(「人間万事塞翁が馬」をパロッた滑稽話)
また、蜀山人の文化7年(1810)刊「あやめ草」に、次の狂歌があった。
此ねこは何匁ほとあろうとはかけてもいはぬ円位上人
円位上人は、西行の法名。「人間万事西行猫」をもとにした狂歌らしい。
ただし、柄井川柳の「千本もきせるの出来る猫をくれ」は「人間万事西行猫」より前に作られている。すべてが「人間万事西行猫」がきっかけでなく、この黄表紙の前にも、西行猫をテーマにしたものがあったのかもしれない。
二世川柳の「柳多留」に、
白かねハ猫こかねをハ鶴へつけ
(白銀は猫 黄金をば鶴へつけ)
があった。これも猫は西行の銀猫、鶴は頼朝が千羽の鶴の脚に金色の短冊を付けて空に放ったという逸話をもとにしたもののようだ。
頼朝が鎌倉で行ったとされる鶴の放生会をもとに、江戸時代、富士山麓で金の短冊を付けた千羽の鶴を放ったという頼朝の逸話が創作され、この川柳の下地になっているらしい。(その作品は分からない)
西行ばかりでなく、源頼朝に対しても大衆の関心が高かったことが伺われる。
ちなみに、北尾政美(鍬形蕙斎)が想像して描いた銀猫、金猫=上図=は、警戒して耳を立て、いまにも前に飛びかかる姿にみえる。