猫の目時計を句にした鬼貫

 早朝散歩で出会った猫は、すでに瞳は針のように細く、はや正午を告げていた。ノルウエーの猫の血をひいているという。

 

 

 さて、猫の目が時を告げるという「猫の目時計」に関して、江戸時代の記述で新たな例を見つけた。文化11年(1814)、雑学家の石塚豊芥子(ほうかいし)が書き残した「猫盡し五大力」という戯文の出だし。(豊芥子日記)

猫撫声のぶちまでも、毛深き眉をもの思ひ、仮令(たとえ)へっつい(竃)でばばするとても、針と玉子の時をしる・・・

≪猫なで声のブチ猫まで、毛深い眉をひそめて何事か物を思い、へっついでババをしていても、針と玉子の時刻が分かっている。・・・≫

「針と玉子の時」とは、猫の目時計の「針と玉子」のことだろう。江戸時代作とみられる猫の目時計の歌と符合している。

 

 六つ円く、五七はに四つ八つは柿のたねなり、九つは

 

 猫の目が一日、円→卵→柿の種→針→柿の種→卵→円とくるくると変わることをもとに作られたもので、針は九つ(正午)、卵は五つ(午前8時)七つ(午後4時)にあたる。

 猫の目時計を初めて俳句にしたのは上島鬼貫。伊丹生まれの俳諧師で、元禄12年(1699)作の「猫の目のまだ昼過ぬ春日かな」。

 猫の目がまだ針になっていない春の昼前を句にしたのだった。

 中国版の猫の目時計を記した蘇東坡「物類相感志」が元禄3年(1690)に日本で刊行されており、鬼貫はそれを読んだとみられる。

 

 鬼貫は興味深い俳諧師で、西行と頼朝の間で「銀の猫」のやり取りがあったと「吾妻鑑」に記された文治2年(1186)、鎌倉での2人の別の逸話を書き残している。「ひとりごと」の中の文章だ。

 

鎌倉の右大将(頼朝)、西行上人に弓馬のみちをたづね給ひし時、馬は大江の千里が、月みればの歌のすがたにて、乗たまへと答られければ、ほと拍子を心得たまひて、即座に馬の乗かたをさとり給ひけるとぞ

 

 頼朝は弓馬の作法について西行に訊ねたが、乗馬については、大江千里の歌(月みれば)を参考にやってごらんなさいと、西行が教示したところ、頼朝はすぐコツをつかんだというのだ。「月みれば―」の歌とは-

 

 月みればちぢ(千々)にものこそ悲しけれわが身一つの秋にはあらねど

 

 月みればで空を眺めるような動作をするのか、と私は想像してしまったが、どうやら歌の意味は関係ないようだ。頼朝は「ほど拍子を心得て」悟ったと鬼貫は書いている。程拍子とは「拍子の緩急伸縮の程あい」のことで、おそらくこの歌を口ずさみながら馬に乗ったら、うまくいったというのだろう。

俳諧にも句のほと拍子は上手のうへのしわざなるべし」と鬼貫は作句でも「ほと拍子」の極意というものがあると言って締めている。

 

 それにしても、鬼貫はどこからこの逸話を探し出したのだろう。頼朝には大江広元という側近がいた。大江と言えば、百人一首で親しまれた大江千里。いつのまにか2人の大江が混淆し、西行が頼朝に流鏑馬などの故実を伝えた話に、大江千里の歌も取り込まれたのだろうか。室町時代にでも創作されたか。

 

 鬼貫にはこんな句がある。「そよりともせいで秋たつことかいの」

「程拍子」が感じられなくもない。

 後世の大伴大江丸の句にも似ると思ったところ、大江丸は鬼貫の逸話を夏目成美に語り、成美が書き残しているのを知った。それもちょっと眉唾のような話なのだがー。