殿上人をギャフンをいわせた鬼貫伝

 大伴大江丸が残した上島鬼貫の逸話は、俳諧師夏目成美の「伊丹鬼貫伝」に記されている。

 伊丹の造酒家の三男鬼貫(1661-1738)は、実家が公家の近衛家の領地だったこともあり、京都の近衛家に出入りすることがあったのだという。

 当時近衛家は近衛基煕(1648-1722)という和歌、絵画、書に秀でた人物がいた。近衛家には公家たちが集まって、歌の会などを開くことが多かったようだ。

 

 

「鬼貫伝」によると、≪近衛の御殿に殿上人らが集まって会を開いていた時、お勝手に三郎兵衛(鬼貫)が訪ねたことがあった。客人たちは「三郎兵衛は俳諧体の句を作っている男だ、召し出して句を作らせよう」と言い出した。呼ばれた三郎兵衛は皆の前に出ると、畏まって平伏した。

 近衛の殿は「俳諧の句を申せ、題などを出そうか」と語り掛けると、鬼貫は頭をあげて、座敷を見巡らして、床の間にある土佐派の誰かが描いた小町の掛け絵に目を止めた。

「あの掛物を寄越していただければ、賛を書いて奉りたい」というと、皆笑った。やがて差し出されると、三郎兵衛は硯を求め、少しもためらわず、筆をたぷたぷと墨で染め、小町の頭の辺りに、「あちらむけ」と五文字を書き付けた。皆は覗き込んで見守った。

 三郎兵衛は思案して再び静かに筆を執ると、「うしろもゆかし花の色」と書き付け、畏まった様子で後ずさりした。

 一同この様子をめで興じ、今日の会はこの三郎兵衛にやり尽くされたので、もはや興なしと散会したのだった。≫

 成美は「是は浪花の大江丸がものがたりなり」と記している。

 

 近衛殿や公家たちが、冷やかし半分で俳諧師鬼貫を試したところ、鬼貫は土佐派の掛け絵に目を付け、見事な書で「あちらむけうしろもゆかし花の色」と書き入れ、俳諧師の矜持を見せつけたという話の体裁になっている。

 

 少し検証してみた。

1)伊丹が近衛家の領地だったのは事実か。

 伊丹市のHPで確認できた。「江戸時代、伊丹郷町の大半は近衞家領であり、酒造家等から選ばれた惣宿老たちが近衞家の指示を仰ぎながら伊丹町政を運営する「会所」がありました」と記している。酒造家の上島家も近衛家の代官のもとで町政を司った惣宿老であった可能性はある。

2)近衛家の屋敷はどこにあったか。

 京都・今出川邸で、鬼貫の時代の建物は天明の火災で焼失した。当時の図面が残っていて、門は北面して大玄関に向かう表御台所門、朝廷の使者が通る東面の四脚御門の2つ。屋敷は東庭に面して南から北へ寝殿、大書院、白木書院、御居間と並んでいる。お勝手は西側で、表御台所門から塀に沿って左に進んで「御台所」「御清所」に至ったのだろう。公家の会は御居間で開かれていたとすると、勝手口の南西から廊下を左右しながら広い邸を北東隅まで案内されたと推測できる。

3)土佐派の某の絵とはなにか。

 土佐派は長らく衰退して狩野派の陰に隠れていたが、江戸初めに土佐光則、光起父子が京に戻り、後水尾天皇が光起をひいきにしたことから、1654年に85年ぶりの朝廷の絵所領職を取り戻した。近衛基煕も後水尾天皇の文化サークルの一員だったので、ここに登場する小町の絵は、土佐光起の作だったかもしれない。光起は掛け軸形式の立ち姿の美人絵(一人立ち美人図)も手掛けたので矛盾はない。土佐派といえば、金地濃彩の作品で知られ、そこに筆で賛を書くというのは、よくよく度胸と実力があったことを伺わせる。

 

 和歌と俳諧といえば、大江丸が活躍していた寛政2年(1790)に五摂家二条家が始めた「二条家俳諧」がある。名古屋の俳諧師加藤暁台が二条治孝と親しくなり口説き落としたもので、和歌の伝統で知られる二条家が、大衆文芸の俳諧師に、宗匠の免状を与える前代未聞の儀式を始めたものだ。

 芭蕉を顕彰する「正風中興」を旗印にしたため、芭蕉堂の高桑闌更ら多くの俳諧師が参加したが、宗匠の烏帽子姿などが京で揶揄され、また免許を得るために暁台、月居が二条家に御賄金各三十両を支払っていた事実も分かり反発も高まった。ついには月居が俳諧師から軍資金を徴収して二条家大坂城乗っ取りを企てるとの荒唐無稽の捨文事件が起こり、ニセの通報に幕府も取り調べを開始する騒ぎとなった。

 

 二条家俳諧に距離を置いていた大江丸だったが、捨文事件では35人の俳諧師とともに嫌疑が掛けられた。同じ五摂家近衛家を相手に、堂々と渡り合った元禄時代俳諧師「鬼貫」の逸話を大江丸が掘り出し、二条家俳諧にあてつけたかったのかと想像してみた。