2月22日はにゃあにゃあにゃあで、猫の日なのだという(1987年制定)。
大坂の大伴大江丸には、下の句。
ねこの恋鼠もいでて御代の春
きりぎりす猫にとられて音もなし
春たつといふは(ば)かりニヤ三毛猫の
そして猫の句といえば、前にも触れた小林一茶。
鬼灯を膝の小猫にとられけり
猫の子や秤にかかりつつじゃれる
かくれ家や猫にもすへる二日灸
大猫の尻尾でなふ(ぶ)る小蝶かな
一茶には、ほかにも数えきれないほど猫の句がある。
大江丸と一茶を例に出したが、この2人の稚気あふれる俳句は通じるところがあると前々から思っていた。そう感じるのは、私だけではなかったようだ。
明治31年に、俳人の岡野知十が一茶と大江丸の作品を一緒にして編集した「一茶大江丸全集」(博文社)があるのを知った。
一茶 1763-1827
大江丸 1722-1805
「両家が同年代の俳家なり、尚又同じく諧調の作家として特色をあらはしたればなり」と、岡野知十はこの全集を出した理由を語り、「諧調」という言葉で、二人の作風の共通項を括っている。ここでいう「諧」は、たわむれの意だろう。
大江丸
二人は確かにつながってはいた。
30代前半に一茶が西国行脚に出た際、二人は大坂で会っており、一茶の句集に大江丸は参加していたのだ。
一茶
一茶のこの時点までの活動をおさらいすると、15歳で故郷の信濃を出奔、江戸での奉公生活を転々としながら、葛飾派素丸から俳諧を学び、天明年間には名が知られるようになった。29歳になった寛政4年(1792)、俳諧師のネットワークを頼りに、6年に亘る西国行脚に出る。九州、四国と周り、大坂、京も訪ね、行脚の成果として寛政7年、大坂で初めての撰集「たびしうゐ」を出板。江戸に帰る同10年(1798)には、「さらば笠」をまとめた。
2冊を見ると、京では、芭蕉堂・闌更が積極的に一茶に付き合っているのが分かる。京の俳諧師は丈左も顔を出しているが、定雅らの名はない。
浪花の大江丸は、「たびしうゐ」とともに「さらば笠」に1句ずつ寄せている。
江戸に帰る一茶に贈った後者の句はー。
「木々の芽にはや遠山の入日哉」
若々しい35歳の一茶を「木々の芽」に、76歳の大江丸を「遠山の入日」に例えたかのような句を作っていた。
もっとも大江丸は2年後、79歳の高齢で江戸へ旅立ち、角力、芝居見物の後、白河、常陸まで足を伸ばしている。
大江丸には、一茶を送る句がもう一句残って居る。著名な句で、
「雁はまた(だ)落ついて居るにおかへりか」
前書きに、「一茶坊の東へかへるを」とある。
雁はまだ北へ帰る気配もないのに、一茶坊はもう江戸にお帰りか、と引き留めようとした句。話し言葉を活かした大江丸の句の特徴が出ている。
私は今回、一茶発句集(文政12年)をさらっていて、下の句を見つけた。
今少(いますこし)鴈(かり)を聞迚(きくとて)ふとんかな
秋に渡って来た鴈の侘しい鳴き声を理由にして、ぐずぐずとして布団を出たがらない男を描いた句だろう。大江丸の句から15年後の文化10年の作だった。
一茶は西国行脚の後、しだいに作風は「諧調」を帯びてくる。
大江丸は40歳も年下の一茶に期待をしたようだが、果たして一茶にとっての大江丸はどういう存在だったのか。しらずしらず大江丸の句の影響を受けたのかどうか。
「(この旅で)後年彼の俳諧道の大成をなす、文学活動をたすけた、多くの有力な知己を得るに至った。大阪の升六、また伊予の栗田樗堂、更に京都の闌更、飛脚屋の主人大江丸など」(高井蒼風「信濃畸人傳」1971)では、まだ通り一遍で物足りない。大島寥太門の2人の関係が少しずつ明らかになってきたらいいなと思う。
さて、ニヤという猫の鳴き声を俳句に取り入れた大江丸の「春たつといふはかりニヤ三毛猫の」の句が気にかかる。どういう句なのだろう。
まだ立春になったばかり、猫の恋する季節はまだ先ですよと三毛猫が言っていると解釈すればいいのか。いやいや、まだ肌寒いのに、春が来たと三毛猫ばかりがその気になっている、ということなのか。残念ながら私には分からない。
立春も過ぎ、わが家の猫はテレビの猫に興味津々