猫好きの老鼠堂

 今回も猫と一緒に考える。

 

 俳諧師と猫の事。

 俳諧の世界も、いきなり江戸から東京に変わったわけではない。正岡子規が始めた俳句刷新の動きは、明治30年(1897)に「ホトトギス」の旗揚げによって本格化していく一方、30年代になっても江戸時代の面影を残した旧派の俳諧師はまだ活動していたのだった。

 そのころ旧派の宗匠のひとり、老鼠堂永機(1823-1904)は芝紅葉山に阿心庵という草庵を構え、夫人と多数の猫と暮らしていた。猫好きと知って興味を持った。

 明治29年読売新聞記者だった関如来が、阿心庵を訪問して永機の話をまとめたものが残って居た。勝海舟、近衛篤麿、橋本雅邦、梅若實と28人へのインタビューの中の1人として「当世名家蓄音機」(明治33年、文禄堂)に収録されている。

 

 関如来が、芝丸山能楽堂の際にあった阿心庵を尋ねると、門に笠が懸けてあった。

檜笠一蓋、之を門柱に吊して在宅のよしを知らす」。門柱に年季の入った檜笠を吊るし、在宅の印にしていたのだった。蓑と笠を下げて在宅の印とした向井去来の落柿舎さながらだ。

 

 永機は「其角座」の宗匠(7世其角堂)で、蕉門の宝井其角の流れを標榜する一門だった。インタビューに答えて、闊達に答えている。同座には、寛政の頃から「一列申合せ」というものがあったという。

 

正風躰を相守り隠者の操を正敷非義非道不法不埒無之様常々身分を慎み可申候云々

 

 芭蕉の正風を守り、「隠者の操」を保ち、道を外さずに慎み深く暮らすという掟だった。

 京では寛政の前後に、芭蕉堂が作られ、二条家俳諧が始まるなど、正風再興を掲げた動きがあったが、同じように江戸でも寛政のころに正風を掲げた俳壇の動きがあったことが伺われる。それが明治30年代まで受け継がれていたのだった。

 

「隠者の操」というのが耳新しいが、永機はざっくばらんにこう解説している。「隠者といやア長袖と唱へたくれエだから、禅学はしなくってはならねえ…」禅の心得のことだった。さらにこう続けている。

「仲間の者は親子兄弟同様に睦まじくする事、世間雑談、賭物などすまじきことなどマアざッと百ケ条あまりもあツたんです」

 

 宗匠認可には江戸流の儀式があった。永機は宗匠になるにあたって、不忍池畔にあった其角堂で、独吟千句興行が課せられた。ひとりで1日、それも明るいうちに、千句(連句)を作るというものだ。句検という句をチェックする2人がいて、「此奴がなかなか意地の悪いもので、少し出来が悪からうものなら、直ぐ相成りませんときめつける」と永機は振り返っている。

 天満大自在天神(神格化された菅原道真)の名号を掲げた部屋で明け六つから始め、執筆(試験官)、師家の者、後見人らが立ち会った。千句が出来上がると、執事が当人の器量、人柄も合格したものとし、月番の両筆頭に申し出て、晴れて宗匠となったという。

 京都の芭蕉堂が芭蕉翁の木像、俳仙堂が芭蕉涅槃図など、芭蕉翁に繋がるものをよすがにしたように、江戸の其角座は、其角=イラスト=の「半面美人」の印を、其角に繋がる「証」として宗匠が伝え持ったという。

 縦長の「面」の字が独特な「半面美人」印は、点取俳諧を行なった其角が判者として、高点句に捺したものだった。

 

 其角の猫好きも永機は受け継いだ。其角の俳文「猫の五徳」に呼応して、吉原の猫の五徳を作文した。

 また行方知れずになった愛猫「飛以沙弥(ひいしゃみ)」への一文も草している。禅僧のような暮らしをする隠者、俳諧師の飼猫もまた、仏門で修行中の沙弥ということで、「飛以沙弥」と命名したらしい。

 

 ひいしゃみは、「明治十九年四月十一日生/五月廿三日より養子/黒斑男猫」。生後1か月で貰い受けた、白地に黒の斑がある猫だったようだ。結局、家を出て戻ってこなかった。客があれば控えめにして、様子を見ては甘えてくる。「夜は枕辺を去らず、ふところに入りては、冬夜の老を助く」愛猫だったのに。

「今猶耳に残る会者定離は人間のみにあらずと思ひ捨(すて)ても、あらなつかしさの飛以沙弥や。

 寝返りにさはるものなき寒哉

 

 その後、多くの猫を飼ったらしい。「一しきりア、十二三匹も居ましたよ、今でも八九匹は居ますがネ」と話す永機の横で、夫人は「お肴ばかり喰べさせるものですから、おかかをかく音をさせると、ツーと向ふの方へ往ツて、後向に坐ツてますよ、面の憎いことツて、余所の猫ア鰹節の音がすると急いで馳せて来るのに」

 永機は猫たちに魚をあげたので、鰹節などは見向きもしなくなったと夫人は語っている。

 猫好きの遺伝子を受け継いでいた、今では振り向きもされない明治の旧派の俳諧師に親しみを覚えてしまうのだった。