秋里籬島と藤貞幹の密かな関係

 江戸中後期に多くの名所図会を編輯した秋里籬島という人物も謎が多い。

 藤川玲満氏の「秋里籬島と近世中後期の上方出版界」(14年、勉誠出版)を取り寄せた。同書によると、近年秋里の出自に関する史料が発見され、祖先は鳥取市にあった因州秋里城主に仕えたが、祖父の代に京都に出て医師を業とし、父は質屋を営み、本人は俳諧師となったらしい。(真葛が原の芭蕉堂の興行にも参加し、西村定雅とも接点があったことが確認できた。)

 俳諧師の秋里がどうして「都名所図会」「京の水」「大和名所図会」等の大著を編輯することになったのか、膨大な知識をどうして手に入れたのか、という疑問は同著で氷解した。京阪の出版界に進出を企てた「吉野屋為八」の存在だ。

 

 米穀、灯油の相場で大儲けした為八は、新たな投資先に出版を択んだのだった。当時出版業の版元たちは堅固なギルドを作って、外部からの進入を排除した。為八は、版元たちの未刊、既刊の本の権利を高額で買い取ることによって、閉鎖的な出版界に入り込み、安永年間に京都寺町通五条上ルで創業したのだ。

 初めは仏教書などを手掛けたが、為八は、名所案内本に目をつけたらしい。安永9年に秋里と画師竹原信繁を起用して完成した「都名所図会」は、権利を買った名所案内の「山州名跡志」や「山城名勝志」などを下地にして編修して刊行したものだった。

 

 初めは売れなかったものの、江戸に上る小浜藩の酒井侯が、知人への土産に「都名所図会」を択んで十数部買ったことがキッカケで、人気に火が付き、当時としては異例の大ヒット(瀧澤馬琴は「異聞雑稿」で4000部と記している)となって、為八はすぐ元手(2000両)を取りかえしたという。

 

 秋里、竹原コンビで、吉野屋が刊行した「大和名所図会」もまた、権利を買い取った「広大和名物志」を下地にしたものだった。この本から大半を転用し、秋里は新しい情報を付け加えて整える役割だったようだ。

 



 さて、好古家の藤貞幹と籬島の関係だが、また不思議な事実にぶち当たった。

 貞幹が寛政7年に刊行した「好古小録」で紹介した「元明天皇御陵碑」=写真上=と同じ碑文が、この4年前の寛政3年、籬島が編修刊行した「大和名所図会」に「春日社函石」=写真下=として先に紹介されていることだ。

 

 実は、この碑文は、江戸時代後期の考証家狩谷棭斉が、藤貞幹の贋物作りの証拠として挙げた重要な史料なのだった。貞幹の再現した碑文と、実際に奈良坂の春日社の庭に残る石碑を比べ、表面が擦り切れたとはいえ、文字の位置が石碑の凹みと符合しないとして、偽物と断定したのだった。

 

 その碑文が貞幹の書の前に、籬島の「大和名所図会」で紹介されていた。ということは、貞幹ではなく、籬島こそが、疑惑の対象になってしまうことになる。しかも秋里の「大和名所図会」の「元明天皇御陵碑」には、貞幹が「好古小録」に書いていない重要な記述がある。「此碑銘東大寺要録に載たり」という文章だ。

 

 連休を利用して「大和名所図会」の下敷きとなった植村禹玄「広大和名勝志」をアーカイブで目を通してみた。他の名所は重複するものが多かったが、函石の碑文は紹介されていなかった。禹玄が書いたものでなく、籬島が補足してあらたに書き加えたものであると推測できた。

 

 貞幹と籬島との出会いは、寛政3年の「京の水」の刊行の前(同元年か2年)であると思われる。「大和名所図会」は同3年の刊行。したたかな籬島が、知り合った貞幹を口説いて編修の協力を仰いだ可能性も捨てきれない。

 

 貞幹が籬島の文章を見て碑文の存在を知り、「好古小録」に記したとは考え難い。寛政3年より前に貞幹は史料を手にしていて、貞幹が籬島に史料を渡し、解説を伝えたため、「大和名所図会」で紹介されたのではなかろうか。2人には密な関係があったのではないか。

 

大和名所図会」では、碑文で「乙酉」を「己酉」と一か所誤記している。私は、「京の水」の紫宸殿の元日の宴の図で、不可思議な「鳥瓶子」が描かれたことを思い出した。貞幹から情報を受け取る際に、籬島側が勘違いして、間違えた例の一つなのではないか。

 

 貞幹の偽造の疑いは晴れた事にはならないが、碑文が「続日本紀」や「東大寺要領」に記されていたものを参考にして再現したのであれば、「那須国造碑」の時と同様に、悪意から来る「贋作」ではないように思えてくる。

 私が始めに抱いた貞幹のイメージは、だんだん払拭されてきた感がある。

 

 贋物作りとレッテルを貼った70年代の学者の説が、その後の学者によって伝言ゲームのように言い立てられ、藤貞幹がまるで悪人のように誇張され、私もそう思い込んでいたことを恥じるしかない。

 

 今回、阪本是丸氏ら沢山の学者が、貞幹の事蹟を探り実像に迫ると共に、結果的に「偽書作り」の汚名を晴らす堅実な仕事をしていることも知った。