那須國造碑と藤貞幹

 江戸後期の京都の考証学者、藤貞幹のことを考えてみる。

 彼の「好古小録」(寛政7年、1795)に掲載された「下野国那須郡那須国造碑」を眺めながら、どういう人物だったのだろうかと想像した。

 

 この碑は、700年に亡くなった那須直韋提を子供たちが追慕して墓の側に建てたもので、延宝4年(1676)草木の陰で発見され、村の大金重貞という人物が水戸藩主の徳川光圀に伝えたため、丁重に保存されたのだった(国宝)。光圀は助さんのモデルである佐々宗淳を派遣し、碑を祀る「笠石神社」を作った。

 

 貞幹が碑文の写しを入手したのは、寛政元年(1789)江戸へ東遊した時らしい。京都の天明大火で家を焼かれた貞幹は、翌年江戸の儒者柴野栗山を訪ね、東都の考証学の成果を吸収したのだった。持ち帰った大量の史料の一つが「那須国造碑摹本」だった。

 この時、栗山は松平定信の下で、広瀬蒙斎、屋代弘賢らと、古物を絵で紹介する「集古十種」(寛政12年、1800年刊行)の編輯に関わっていた。同書には、那須国造碑も掲載されていて、貞幹は、その写しを京に持ち帰ったのだろうと推測できた。

「集古十種」掲載の碑も見てみる。

 

「好古小録」で、黒く消されている碑文の文字は、貞幹が持ち帰った後、検討して不明と判断したものだろう。消された文字はなにか。

 

  ■■   宣事   (直韋)

  ■    視    (挑)

  ■    寄    (字)

  ■■   六月   (六月)

      

 カッコ内の漢字が、現在まで解読された文字。「集古十種」の4点の内、3点は異なっている。貞幹はそれを見抜いたことになる。下が、現在の定説だ。

    

永昌元年己丑四月飛鳥浄御原大宮那須国造

追大壹那須直韋提評督被賜歳次庚子年正月

二壬子日辰節殄故意斯麻呂等立碑銘偲云尓

仰惟殞公廣氏尊胤国家棟梁一世之中重被貳

照一命之期連見再甦砕骨挑髄豈報前恩是以

曾子之家无有嬌子仲尼之門无有罵者行孝之

子不改其語銘夏尭心澄神照乾六月童子意香

助坤作徒之大合言喩字故無翼長飛无根更固

 

 貞幹の解釈が突出しているのは、出だしの「朱鳥四年」の表記だ。今では、永昌元年と読めるものを、貞幹は「朱鳥四年」と大胆に変えて記載している。

「集古十種」では、元号の永昌を欠字扱いにして、□□元年としている。どういうことなのだろうか。

    

 貞幹は、「此碑文先輩説アリ今ココニ挙ゲス唯朱鳥四年ヲ永昌元年トスルコト余信ゼザル所也。朱鳥ノ号ハ此碑ニ関ラズ二年ヨリ十一年ニ至テ諸書ニ此ヲ用ヒタリ。洗-者誤テ永昌元年トナセシナラム」(好古小録)と記している。

 もともとは朱鳥四年だったのを、「洗-者」が誤って永昌元年にしてしまった、というのだ。

 貞幹は、「碑文に関して先人の説がある」と書いているので、調べると、狩谷棭斎(1775-1835)の「古京遺文」を見つけた。

「集古十種」を編輯した広瀬蒙斎の碑文の元号解釈が紹介されていた。

 

 ≪蒙斎が言うには、(碑文の中国の元号)永昌元年は(689年で我が国の元号の)朱鳥四年に当たる。おそらく、碑を洗って整備したものが改作したのだろう。私も審らかに碑文を見ると、それらの3字だけ他と違っていることが分かり、蒙斎の説は信じていいように思う≫と賛成している。

 

「古京遺文」の欄外には、国学者中山信名(1787-1836)の「墳墓考」のことが注記されていたので、同書も探した。

この碑を得たりし時。朱鳥四といふ三字。よみかねたりしを大金何某という者。みだりにほうりうがちて。永昌元と云ふ文字の如くに造りなせり。故に異朝の年号を用ひしと思へるものまま聞ゆ。されどよくよく目をさだめて見る時は。朱鳥四の字形おのづから見る所あり。この三字。余の字面よりは際だちて。低く見ゆとぞ。是は大金がいたづら業をなし。時にしかなれるなるべし

 

 朱鳥四の三字が読みにくかったためか、洗者の大金某が、みだりに穿ってしまい、「永昌元」と見えるようにしてしまった。それで異国の(唐代・則天武合の時の)年号を用いたのだと思われるようになった。しかし刻字に目を凝らすと、朱鳥四と見えてくる。ここの三字だけが他より際立って表面が(削られて)低くなっているように見える。大金某がいたづらをしてこうなってしまったのだろう。

 いずれも、似たような解釈をしている。

 

 では、「集古十種」に掲載された拓本を見てみると、

 確かに、永昌元の3字は、狩谷棭斎が指摘するように他に比べて字体が違うように見えなくもない。いずれにしても、碑文を検証した江戸の学者たちは、みな水戸光圀の代に、故意かどうかは別に「朱鳥四年」が「永昌元年」に変化したと推測しているようだ。

 

 現代の解釈は「文章が漢字であり、中国風の墓誌の形式をとっているばかりか、年号まで中国のものを記している。大陸文化心酔の好例とも見られるが、又一面、文化指導者たる帰化人の手になったものとも見られよう」(尾崎喜左雄「多胡碑」中央公論美術出版、1967年)。このあたりが、平均的なもののようだ。

 江戸の考証学者の考えと貞幹の説と殆んど変わりはない。しかしながら、「□□元年」ととどめて掲載した「集古十種」の姿勢と、「朱鳥四年」と言い切って碑文を変えてしまう「好古小録」の姿勢は大きく異なっている。

 

 江戸時代から指摘された貞幹の「偽書」の疑惑についても、これに似た強引さが引き起こしたものらしい、とぼんやりながら見えて来たように思った。