ほろ苦い立原翠軒の上洛

 ささやかな地異は そのかたみに
 灰を降らした この村に ひとしきり

 

 早逝した昭和の詩人立原道造の「はじめてのものに 」は、いまも出だしだけは覚えている。浅間山の小噴火で、ふもとの村に灰が降ったのを、こんな風に表現するのだった。

 同じ学び舎で建築家丹下健三の1年先輩でもあった。彼の設計した、ささやかな小屋「ヒヤシンスハウス」は浦和の別所沼の畔に再現されている。出来立ての頃に訪ね、中に入ったがあまりに狭く小さな空間なのに驚いた。

 

生田勉「立原道造の建築」(ユリイカ1971年6月号)



 今調べている水戸藩士の立原翠軒は、道造の直系の先祖と知った。

 

 寛政年間、翠軒は京の藤貞幹と頻繁に書簡のやり取りをした(6年間で50通)。訳を知りたくなった。

 天明の大火で家を焼かれた貞幹が江戸を訪問した折、二人は知り合った。翠軒は水戸藩シンクタンク「彰考館」の総裁の地位にあった。それまでは、同館で「異学を唱え、古学を好む学者」として排斥されたが、前総裁の名越南渓(幕府・林家と連携する儒者)が没し、総裁に抜擢されたのだった。

 

 国学者といっても、翠軒は学問に専念していたのではなかった。藩主治保の政策顧問として政治にも関与する立場にあった。天明の大飢饉で、水戸藩は経済的危機に陥った。徳川御三家でも尾張紀州両藩と違い、水戸藩は開府以来構造的な財政難を抱えていた。翠軒は、懇意の経世家本多利明の意見を取入れながら、北蝦夷地開拓、那珂湊から江戸への海運インフラなどの構想を打ち出した。(参考:西岡幹雄氏「18世紀後半以降の後期水戸学派の政策思想と立原派の産業経済論」(2000年「経済論叢」52-1)

 

 それらとともに、翠軒が取り組んだのが、徳川光圀百年忌(寛政11年)を前に「大日本史」の問題解決だった。光圀が号令をかけて開始した「大日本史」の編纂は、享保5年に刊行の運びとなったが、幕府の許可を得たものの、朝廷に伺いを立て伝奏官に拒否された。南朝を正統とすることを忌諱するならば、梓行するなかれと、南北朝並立の立場をとる史書にダメ出しをしたのだった。

 

 翠軒は、水戸藩の長年の課題を、藤貞幹に頼って乗り越えようとしたのだった。

翠軒総裁となるに及ひて深く慮る所あり 其身嘗て和歌を日野大納言に学ひ且つ藤叔蔵貞幹等と文字の交ありしを以て其等の紹介によりて裏松三位入道固禅に通することを得たり 扨入道に対して義公著書の本意は敢て私に南北朝を軽輊(けいち)せしにあらず一に統を神器の所在に繋き専ら天朝を尊むに在りしことを弁明して日本史の校正を入道に託せり 是れ入道をして側面より修史の主旨弁明するの任に当たらしめしなり」(大正4年、友部新吉編「立原両先生」)。

 仙台で刊行された立原翠軒、杏所(南画家)親子の評伝に、知りたいことが書かれていた。

 翠軒は、そもそも日野大納言(日野資枝・すけき・権大納言のことか)に和歌を学んだが、江戸で知り合った貞幹の伝手で、光格天皇に信用のある固禅を紹介してもらい、新たに編修した「大日本史」の校合を頼み、刊行許諾の側面援助を期待した、というのだった。

 寛政7年固禅、貞幹への校合のお礼に水戸藩から翠軒は門人2名と共に派遣されたが、目的は朝廷側の許諾を得るためだったと見られる。

 

 京都訪問の様子は、翠軒の「上京日録」(「寛政七年乙夘上京」=同志社大学デジタルコレクション)に書き残されている。

 3月中旬に上洛後、風邪で宿に寝込んだ翠軒を連日のように貞幹が訪問した。(翠軒は当初、貞幹を「叔蔵」と記しているが、途中で「藤翁」に変わる)

 快復後、藤翁の案内で、京での法隆寺地蔵院、安養院の仏像、宝物の御開帳を見、円山での書画会を鑑賞の後、藤翁が「名儒皆川文蔵」と立ち話するのを目の当たりにしたことなども書かれている。

 3月27日に裏松公と会う段取りが付くと、翠軒は日野、今出川、二条などに上洛の挨拶をした後、裏松家を訪問。海の幸の進物に、校合の礼金白銀15枚を添えて出した。帰途、「(松本)文平ヨリ叔蔵ニ銀十枚ワタシ」とあり、校合の礼金を貞幹にも手渡した。

 

 銀一枚は、銀43匁が入った紙で包まれた「包銀」と思われる。現在の価格で5万円程度とされる。裏松固禅には15枚で75万円、藤貞幹には10枚で50万円ほど渡ったようだ。

 

 翠軒は使命を果たすため、4月11日に裏松公を訪問し、藤翁と同公に京での「日本史」の評価と、刊行が認められる状況なのかと切り出す。藤翁は、広橋殿(伊光)とも話しているが、多事のためまだ結論がでていないと返事し、固禅も今更、この話を持ち出すことはどうだろうか、むしろ水戸藩の姻戚の二条今出川家から申し出れば容易だろうと示唆するにとどまった。

 慌てたのだろう、翠軒は翌朝二条今出川家を訪ね、一から説明をするが、ここでも色よい返事は得られなかった。光格天皇二条家は前に記したように考え方の相違もあり、いい関係ではなかったのだ。

 

 裏松固禅と藤貞幹に過剰な期待を持ったが、彼らにそのような力はなかったことを、思い知らされたのだろう。失意の翠軒は、この後、自らの学問対象の大和の古墳、吉野の南朝の遺跡などを精力的に訪ねて過ごした。

 大和の三輪では、竹口栄斎と出会った。津久井尚重という貞幹と近しい国学者で、翠軒は欄外に「南朝補任要録」の著があると書き残した。

 これは、貞幹の研究者にとっては見逃すことが出来ない重要な書付らしい。

 貞幹の偽書とされた「南朝公卿補任」の要録を尚重が著しているということは、貞幹の偽書説を疑う根拠になるというのだった。

 

 水戸の律儀な国学者と、一筋縄でいかない京の公家との交錯は、いくつかのドラマを紡いでいるようだ。

 

(寛政11年の光圀百年忌に、翠軒は光圀廟に編修した「大日本史」を献じ、光圀の遺命に応えた。この間、彰考館内では藤田幽谷らとの激しい対立を呼び、4年後の享和3年、致仕を命じられた。)