梅宮社祢宜が書き残した「まづあるじゃげな」

 橋本経亮をおっちょこちょいと書いたが、私の方がおっちょこちょいだった。

 

 法隆寺の出開帳は、そうたびたび京都では行われていないのだった。伽藍修復の資金集めのために、江戸時代を通して京都は江戸とともに2度行われたにすぎない。

 

 元禄7年(1694)  江戸 本所回向院

 元禄8年(1695)  京都 真如堂

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 寛政7年(1795)  京都 檀王法林寺

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 天保13年(1842) 江戸 本所回向院

 

 経亮が出かけたのは、立原翆軒が入洛して見たものと同じ、寛政7年の出開帳だった。しかも、2人は好古家の藤貞幹と一緒に出掛けたのだった。

 

 経亮の「橘窓自語」に、「水戸総裁立原甚五郎萬といふ人、入京の時しばしば予が家にとひ来れりし」と記してあるのに気づいたのだ。翠軒の「上京日誌」にも「廿四日朝(略)橋本肥後守ヲ訪 橋本ハ橘氏ニテ梅宮ノ社司正五位下兼非蔵人ナリ」と確認できた。(江戸時代の非蔵人は、宮中に伺候する神職の人物のこと)

 翌日の日記には、「廿五日藤翁橋本ノ両子案内ノ法隆寺開帳ヲ観ル」とある。貞幹と経亮が案内し、「淡ノ輪法輪寺」こと、檀王法林寺に向かったのだった。

 

 経亮が聞いた翆軒の話が「橘窓自語」にいくつか紹介されてもいた。

「物語のついで、我が水戸中納言源光圀卿(徳川光圀の)医師板垣宗膽、彰考館に侍りし頃、公命をうけとりみやこにのぼりし時、油小路大納言殿にまみえて、三種の神器は、今に内裏におはしますにやと問い奉りしに、大納言殿まづあるじゃげなと答へ給ふよし、宗膽京より水戸へ申しつかはせし文ありといへり」

 と興味深い逸話が記されていた。

 続けて「おほけなき事、されば大納言殿こたへ給ふやう、いとおもしろき御答也なりと宗膽も感じ侍るとなん申せり」

 

 三種の神器に関するおほけなき(おそれおおい)質問に、大納言が答えたこと、その答えの内容に、宗膽も興味をもったようだ、と。

 

大日本史」の編修に着手した水戸光圀実証主義的な歴史観の持ち主で、史局を作ると館員を各地に派遣して史料蒐集したという。おそらく宗膽もその口だったのだろう。

 光圀は後醍醐天皇から始まった南北朝についても、三種の神器を持つ者が皇統の正統性を得ると考え、神器を持ち出した南朝が正統で、南北朝合一で神器が返されてから北朝に正統が戻ったとしていた。

 

 公家(羽林家)の油小路大納言殿(油小路隆真)から、その三種の神器が今も内裏に「まづあるじゃげな」の答えを得て、京都から水戸へ早速報告したのだろう。

 

「まづあるじゃげな」から汲み取れるのは、まああるだろう、見たわけではないが、なければまずいだろう、といったところだろうか。

 

 恐らく、経亮は光圀が関心を持っていた「則天文字」(則天文字にこだわって「圀」とした)についても、翆軒から聞いたのではないか。法隆寺出開帳で発見した武則天の時代の経典を見て、それで、則天文字だと勘違いしたのではないか。

 

 梅宮社の正祢宜・橋本経亮もまた藤貞幹の周辺の興味深い人物であったのだ。

 

 梅宮大社は梅ばかりか、花しょうぶの名所でもある