猫で有名になり、今では猫目当ての参拝客で賑わう洛西の梅宮大社であるが、江戸時代この神社には国学者の橋本経亮(1755-1805)という神官がいた。
経亮は、随筆集「橘窓自語」を著し、その中で京都三条大橋の近くにあった「ダン王」こと檀王法林寺に、法隆寺の御開帳を見にいったことを記している。
今も猫のお守りで知られるこの法林寺は、当時から黒猫の信仰で賑わっていたとされる。右前脚を高く上げた黒猫のお守りは招き猫の元祖といわれている。
寺の主神が、闇の中で人々を守る「主夜神(しゅやじん)尊」であることから、その使いの黒猫もまた信仰されたのだった。夜間の盗難除け、火除けの見張り番に夜行性の猫はうってつけとされたようだ。
経亮はその時、法隆寺から運ばれて展示された宝物のひとつ「同朋法華経」に目を奪われた。そして細字の楷書で書き込まれた七巻の法華経の末尾に「長壽三年六月一日抄訖写経人雍州長安県人李元恵於揚州敬告此経」の文字があるのに気づいた。
「皇朝持統天皇三年にあたりて、大唐にてかける写経也。文字みな武后新所作字を用たり、比類なき物にこそありけれ」。
《わが国では持統天皇の3年に相当する年に、中国で書かれた写経である。武則天が作った則天文字で書かれた比類ないものだ≫
694年、武則天が帝位あった年に書かれた写経と知り、則天文字で書かれたと興奮している。
この女帝は、即位すると大胆に国名を唐から「武周」へ変更し、ついで新文字を作った。17字程度だが、国、月、日、星、天、地、君、臣、年、初、正、人といずれも重要な文字を変更した。(例えば、国は徳川光圀の圀、星は〇に)
この経亮の発見を確認しようと、私は、東京国立博物館に収蔵される国宝「御同朋法華経」を目を皿のようにして見た。天、国、月・・・。
しかし則天文字は見つからなかった。梅宮神社の神官はおっちょこちょいだったのだろうか、と不思議に思った。
法隆寺の宝物のこの経は、聖徳太子(574-622)が、前世で中国高僧だった時に仲間(同朋)とともに用いていたものであり、日本に生まれ変わった太子がその時の経典を隋から取り寄せたとの伝説がある。それで「御同朋法華経」の名が付いたのだとか。(写経は694年なので、太子の没後72年、時代は合わない)
結局、信じ込んだ私が振り回されただけだったが、京都では頻繁に法隆寺の御開帳があったのだな、と思った。寛政7年(1795)、京都を訪れた水戸藩の国学者立原翠軒が藤貞幹に誘われて、法隆寺の御開帳を見物したことを思い出したのだ。(前に記した)。
翆軒は日記に、法隆寺地蔵院、安養院所蔵の仏像、古器などを見に行ったと書いていた。寺は「加茂川ヲ隔淡ノ輪法輪寺」(加茂川を隔てた淡ノ輪法輪寺)と記されていたが、遠い嵐山の法輪寺は相応しくないので、どこの法輪寺なのか特定できなかった。
「橘窓自語」には同じころ法林寺で法隆寺の御開帳が開かれていたと記されていたことから、「法輪寺」が「法林寺」であった可能性があるのではないか、と気づいた。同じホウリンジであり、「淡ノ輪(タンノワ)」は「ダン王」と音が似てなくもない。翆軒は檀王を淡ノ輪と記したかもしれない。
そうであれば、黒猫の法林寺は、法隆寺の御開帳の会場としてたびたび使われたことになる。
そう考えると、法林寺の黒猫の守り神は、猫の本来の使命、経典、古書類など大切な宝物をネズミから護る役目が求められたはずである。
法林寺の黒猫信仰は、江戸時代中期ごろから始まり、盗難除け、火災除けから招き猫が生まれたと推測されているが、実際は寺院のネズミから経典などを守る役目からだったかもしれない、と思えて来る。
効験あらたかな黒猫のおかげで、法隆寺も安心して宝物の貸し出しを許可したのだと。