法隆寺再建論争の恐ろしい誤記

    テレビで米国の情勢をとうとうと語っていた経済研究所の所長が、秋の大統領選を前にトランプがミスを連発して自滅気味なことを、「漁夫の利でバイデンが有利になっている」と話していた。漁夫の利という言葉の意味を取り違えている、この程度の人の話を信用していいのかな、と思った。

 

 法隆寺のことで、喜田貞吉関野貞の論争をひょんなことから書いてみたが、同じような感想を抱いたことがあった。

 

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    岩波新書「奈良の寺ー世界遺産を歩くー」(奈良文化財研究所編・2003)が発行された時、すぐに購入したが、第2章の「法隆寺」の第1項「若草伽藍の謎」で、つぎのような一節に出くわした。

 

法隆寺はもとは地名をとって斑鳩寺と呼ばれていました。『日本書紀』には六〇六(推古一四)年に初めてその名がみえ、六七〇(天智九)年に焼けて、『一屋も余ること無し』と記されています。一方、「法隆寺伽藍縁起并流記資材帳」(七四七年作成)には、七一一(和銅四)年に五重塔の塑像群や中門の仁王像を造ったとの記載があります。/これらの史料から、九〇五(明治三八)年に建築史家の関野貞が、当初の伽藍は六七〇年に焼亡、西院伽藍は七一一(和銅四)年前後に再建されたものであるとみました(再建論)。これに対して歴史家の喜田貞吉がすぐ反論して、西院伽藍の建物は飛鳥時代の古い様式を残すことなどから、六七〇年の焼亡を疑う見解(非再建論)を出し」た。

 

 私が前に書いた二つの文章を見ていただければ、上記の文章(青字)がとんでもない事実誤認をしていることが分かる。

 

 非再建論は、関野貞なのに、喜田貞吉としている。

 再建論は、喜田貞吉なのに、関野貞としている。

 

 二人の名を入れ替えればいいのかというと、それでも違って居る。

 黒川真頼、小杉榲邨の再建論があったなかで、関野が非再建論を提出し、それに喜田が反論したのであるから、事実関係がそもそも間違いなのだった。

 私は、他人の間違いを指摘するのは正直いやだ。しかし、編集した奈良文化財研究所は、権威ある独立行政法人国立文化財機構の一組織。しかも、奈文研には、関野貞博士の貴重な個人史料が多数寄贈されているのではなかったか。

 

 研究所の所員たちが各々担当して、書き集めたこの「奈良の寺」の全体の評価は、当時高かったように記憶する。しかし、基本的な間違いを見過ごしたまま出版されたことには、あの法隆寺の北畠男爵が生きていたら、出版社の編集者ともども呼びつけて、俺は喜田も関野もよく知っておる、どういうことか、と怒鳴りつけたのではないか、と想像する。

 

 この個所が2刷以降、訂正されたのかどうか、まだ確かめていない。