喜田貞吉と米吉祝賀会

 ここまで書いてきた三宅米吉のことは、多くの歴史家、教育学者らの記述がもとになっていて、新史料があるわけでないのが、心苦しい。ただ、長年断続的に、米吉のことを考えてきて、「三浦安」を補助線にすると、別のことが見えてくるのではないか、という思いがあった。王政復古の後第一陣の歴史学者重野安繹らと米吉の関係が、予想以上に近いものだと納得できるのではないかと。

 

 戦後、米吉の孫弟子にあたる歴史家の直木孝次郎氏が、米吉の業績と共に、その限界を明らかにした。森鴎外の小説「かのように」は米吉を描いたものと指摘し、那珂通世のようには天皇タブーに踏み込めなかった歴史、教育の大御所として、評価も定まった感がある。併し乍ら、今も教育史の研究者竹田進吾氏のように、米吉を追い続ける学者がおられる。

 話を続けて見る。この間、多くの人に敬愛された米吉だったが、ひとりだけ違った対応をした人物がいる。昭和4年三宅米吉の古希祝賀会の2305人に及ぶ各界の祝いの名簿にもその人物の名だけがない。

 歴史家喜田貞吉だ。

 彼も、文部省国定教科書の担当官の時、天皇制のタブーに巻き込まれたのだった。

 きっかけは、幸徳秋水らの大逆事件(今は、幸徳事件というらしい)。明治43年、アナキストとされる幸徳らが、明治天皇のテロを計画しているというものだった。翌年幸徳らは絞首刑にあった。
 
 幸徳の仲間のひとり、森近運平の家に、久米邦武の「大日本古代史」が置かれていたことが判明して、国粋主義学者から再び火の手が上がった。官学歴史アカデミズムが「不敬」であるという主張だった。

 久米は、すでに明治24年の「久米事件」で官学を追放され、私学で教鞭をとっていたため、非難の矛先は、文部省の歴史教科書に集中した。
 重野がかつて、南朝の忠臣を抹殺し世間が反応したように、国粋派は、小中学校の歴史教科書の「南北両統並立論」に目を付けた。なぜ、文部省は北朝をも認める「不敬」の教科書を編集しているか。担当官だった喜田が世間のやり玉にあがった。

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 喜田貞吉還暦記念 60年の回顧」(昭和8年)を読んでみると、いつの時代もデマというものの恐ろしさが伝わってくる。

 喜田は三種の神器を物品とみなしている、
 喜田は幸徳一派の一味、
 国体を破壊し、国家の転覆を図るべく、小学児童に植え付けている。

 全く根も葉もない。家族も大変だったようだ。「小学校に通って居る宅の子供達が、友達からいぢめられた」「夜分宅へ投石する者があった」と控えめながら書いている。

 幸徳らが処刑された明治44年の年初から「新聞記者が頻りにいろいろの事を聞きに来」た、と喜田は振り返っている。
 記者たちは、喜田の発言とは反対のことを記事する。「たちの悪いのになると、心から自分の立場に同情したかの如き態度を採って、所謂誘導訊問的にうまく喋舌らして置いて、如何にも自分から進んでそんな事を言ったかの如く書き立てる」と。

 東京毎日新聞(現在の毎日とは無関係)の「国民道徳を無視せる喜田博士」など個人攻撃する新聞に加え、議会でも非難が始まる。議員が文部省に押し掛けて聞き取りが始まった。歴史教科書の調査委員のうち、独り東京帝大の三上参次教授だけが顔を出し、喜田を守り、「南北両統並立論」の立場を説明した。三上も火だるまになった。

 政府は、非を認めるわけにはいかないため、政治決着を図った。
1 従来の教科書は国体を紊るものと認めない、
2 文部大臣以下教科書調査委員に責任はない、
3 「官庁事務の都合」という形で、喜田のみ文部編修の休職を命じる、
4 内閣は「南朝正統説」を採る
5 教科書も改める、
という内容だった。結果的に喜田が独りで、詰め腹を切らされる結果となった。

 「南北両統並立説」の記述は、それまでの教科書の流れにそったものだった。三上以外の他の調査委員は全員沈黙した。同委員で大御所の三宅米吉もまた、沈黙を守った。

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 昭和4年、喜田が欠席した三宅の古希の祝賀会=写真=で、三上参次が独りだけ、変わった祝辞を述べているのを発見した。

「昭和43,4年の頃、文部省の教科書調査委員になった時のことです。色々の問題があって私共大そう困ったのですが―貴族院の連中が、調査委員の中に三宅といふ者が二人(まちがつて先生と私とをさす)ゐるが、一人は温厚なのに他の一人は少壮過激で困るといはれた事があります。私は自ら温厚着実と信じてゐたのですが、先生と比較されてはさう見えたのでありませう。全く頂門の一針と存じました」当時の話を蒸し返したのであった。
「又先生は沈黙である。不必要な言葉を発せられませんから、勢力のむだに費へるのを蓄へて置かれる(笑声)。即ち長寿になる所以であります」とも言っている。
 参加者の多くは単なる祝辞と思ったのだろうが、無口な性格を、南北朝正閏問題で沈黙を守ったことに、ひっかけた痛烈な皮肉だと、いわれた本人が一番分かっていただろう。

(続く)