榊原政職氏と関野貞教授

 夭折した考古学徒榊原政職氏について書いたが、不思議に思うのは、小田原中学を卒業後、どうして京都帝大の教務嘱託に採用されることができたのかということだ。

 政職氏の遺著「人類自然史」で表紙デザインに協力した建築史の大家、東京帝大工科大学教授の関野貞(ただし)氏(1867-1935)が、越後高田藩藩士の次男であったことが分かり、その線から辿ってみた。

 政職氏は、最後の高田藩藩主、子爵榊原政敬氏の直系の孫にあたる。元藩主の孫の面倒を藩士の子供関野氏が引き受けたのではなかったかと。

 

 800頁を超える分厚くて重い「関野貞日記」(中央公論美術出版、平成21)を図書館で借りてきた。

 

 まず、旧高田藩の出身者で組織する「上越学友会」というものが明治時代にあり、関野氏は明治43年「上越学友会春期新人大会」で子爵政敬氏ら80人の前で、朝鮮での調査研究の講演をしていたことが分かった。さらに、翌44年元旦の日記には、関野氏が榊原家に新年挨拶に行ったことが記されていた。明治末になっても、越後高田藩の旧藩主-旧藩士の関係は続いていたのだった。

 

 政職氏について見てみると、大正7年秋に、政職氏は京都帝大の教務嘱託に雇われたが、まさにその前年の大正6年の日記に、名前が登場するではないか。

「9月2日 榊原子爵令嗣(政職父の政和氏)来訪

 9月3日 榊原邸で子爵(政敬氏)と令嗣と面会

 ・・・・・・・・・

 12月30日 榊原邸で二位様、四位様、政職様に面謁」とある。

 9月2日に政職の父政和氏が関野氏を訪ね、翌3日に榊原邸に来訪することを頼み、榊原家当主の政敬氏と面会している。おそらく直々に政職氏の事を頼まれたのではなかったか。

 話がうまく進んだのだろう、年の瀬になって、二位政敬氏、四位政和氏とともに、関野氏は政職本人と榊原邸で顔を合わせた。

 

 東京帝大や帝室博物館でなく、京都帝大の考古学教室に決まったのは、関野氏が京都帝大の考古学を仕切る浜田耕作氏と親しかったためだろう。 

 政職氏は京都帝大考古学教室のスタッフになると頭角を現す。熊本県の轟貝塚報告を執筆発表した1か月後の大正9年11月4日の関野日記には、政職氏と2人で虎ノ門の大倉集古館を見学したことが記されている。集古館は、3年前に実業家大倉喜八郎が開館した壮大な規模の日本初の私立美術館(震災で焼け、現在の中国建築風展示館は伊東忠太設計で敷地は縮小された)。おそらく、関野氏が誘ったのだろう。

 四 晴 午前九時榊原政職氏ト大倉集古館ヲ見ル。

 

 病気に倒れ、小田原で療養中の政職氏の見舞いには、大正11年9月に行っている。

日 一〇 晴 柴田君ト小田原ニ、榊原政職氏病気見舞。帰途、長谷鎌倉ニ立寄。

  一五 晴 午後四時廿五分発、柴田君ト小田原ニ往キ、藤原旅館ニ投ス。

  一六 晴 朝、浜田君来、榊原子爵ニ面会、政職氏著書出版ノ件ヲ議シ、政職氏見舞、帰京。

 京都から来た浜田耕作氏を交え、政職氏の「人類自然史」の出版の打ち合わせもこの時に行われたことが分かる。その後政職氏は病状が悪化し都内の慶大病院に転院したようだ。

日 二四 晴 榊原政職氏ヲ后、慶大病院ニ訪フ。其前榊原邸ニ往キ、子爵及伊奈、清水両氏ニ面会。

 この約一か月後の10月26日訃報が届く。

  二六 雨 后十一時榊原政職氏逝去。

  二七 晴 阿母ヲ総持寺ニ迎ヘ帰京。夕刻、榊原家ヘ弔問。

  二八 晴 朝二時間(美)講義、高橋君、鳥居君ヲ訪ヒ、夕刻ヨリ榊原家ヘ往ク。

日 二九 晴 前十時青山斎場ニテ葬儀。ソレヨリ雑司ヶ谷本立寺ニ埋葬。

 

 関野氏が埋葬にも立ち会ったことが知れる。

 

 日記をチェックした後、この「関野貞日記」に、「関野貞と高田の地縁」という角田真弓氏の解説文が掲載されているの気づいた。政職氏が京都帝大考古学教室に加わることができたのは、「関野氏が浜田に紹介したことによる」と角田文衛「考古学京都学派」(雄山閣)に書かれていると記していた。やはり関野氏が骨を折ったのだ。

 「関野の文科大学での日本美術史の講義を聴講していた浜田が頼みを断る筈もなく、中学卒業の政職を迎え入れたことで、結果として諸磯貝塚調査という成果を生み出すこととなる」とも書いていた。

 

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 関野貞の表紙デザイン(榊原政職「人類自然史」)