猫のいる古レコード店や、アカシア書房を覗きに行く時、神保町の靖国通り沿いクロサワビルの前を通る。このビルにある東京メロンパンの白い壁には、赤い菱形のプレートが貼ってあり、高浜虚子が愛媛県松山から移した俳句誌「ホトトギス」の発行所の跡地がここであると記されている。隣町の猿楽町にあった自宅から神保町1丁目まで虚子は通っていたのだ。
ホトトギスの東京進出は、明治31年。経営手腕もあった虚子は有望な俳人を呼びよせて社員にした。松瀬青々もその一人。
「舷(ふなべり)や手に春潮を弄ぶ」
青々に目をつけた虚子は、上の句を正岡子規に示して、この作者青々(当時は孤雲)をそれとなく伝えた。やがて子規も青々を高く評価をするようになった。
神保町に発行所を定めると、虚子はすかさず大阪から青々を呼んだ。銀行員だった青々は退職し、家族を置いて単身上京しホトトギスの社員になった。
神保町1丁目の三畳一間に下宿し、近所の発行所に通った。編集員だったが、句会への参加、編集ばかりか、雑誌の荷造り、発送と黙々とこなしたという。
しかし、働き者だった青々は、1年ほどで帰阪してしまった。東京の街や俳人たちに結局馴染めなかったようだ。大阪人として東京への反発もあったのかもしれない。東京に見切りをつけた、と思われる。
帰阪した青々は、銀行で身につけた経理の知識を生かして、大阪朝日新聞の会計部に職を得た。同紙の俳句欄の撰者となり、主宰として句誌「倦鳥」を立ち上げた。
やがて青々はホトトギスと一線を画した関西俳壇の実力者として一時代を作って行くのだった。
青々は漢詩の素養もあり、松山、そして京都、東京で教養を培った子規、虚子に劣らぬものを持っていたように思える。井原西鶴、大伴大江丸ら商業の町、大坂の伝統を背負っていたのではないか。
私はこういう句が好きだ。
乾鮭(からざけ)や狗子(くし)に棒する黄檗寺
吊るされた鮭の素乾(しらぼし)を狙って来る犬を、僧侶が棒で追い払う。滑稽みがあっていいし、質素な他の禅宗寺院と違って、普茶料理、隠元豆と食が豊かな黄檗宗の寺ならではと思わせるものがある。(狗子に仏性があるか、と公案で議論ばかりする他の禅宗とちがって、黄檗宗では狗子を棒で追い散らすという面白さもある)
山口誓子にも影響を与え、飯田蛇笏も一目置いていたという。しかし、今では青々の名は俳句に少々興味がある人たちにも忘れられてしまったようだ。
私は、青々が自句を筆記したらしいものを見つけて手に入れた。句集「松苗」に収録されていないので、真筆かどうかはわからない。句は、
「あるときは憎みもしたり冬の蝿」と読める。
青々は、冬の蝿の句をいくつか残しているが、季節外れの蝿に同情したものが多く(例えば 家にして日の影追ふや冬の蝿/羽根ほつれ歩いてゐるよ冬の蝿)、この句は異例である。
江戸末の放浪俳人の井上井月に「哀れさに憎気もさめて冬の蝿」という句がある。これを踏まえたものかもしれない。
冬の街を歩き、「ホトトギス」の発行所跡を過ぎる時、子規、虚子の門からきっぱりと離れ、故郷で旗揚げした青々のことも時々思い浮かべる。気概のある俳人に惹かれ、本物か分からない筆墨も欲しくなってしまったようだ。