未乾作の「ホトトギス」の挿絵

 大正、昭和初期の幻の洋画家船川未乾画伯の本を作った後で、不明だった若き頃の作品が少しわかってきた。

 大正7年の詩画集(園頼三)のデッサンくらいしか見つけられなかったが、その前の作品が出てきたのだ。

 

 画伯は、未乾と名乗る前、船川貞之輔名で作品を発表していた。大正3年頃帰洛し南禅寺北ノ坊町で暮らし、翌4年に京都・寺町竹屋町の佐々木文具店で開いた個展も「佐々木貞之輔展覧会」だった。

 

 

 今回あらたに見つかったのは、大正3年3月発行の高浜虚子編集の「ホトトギス」(17巻4号)に船川貞之輔名の挿絵「夜」が掲載されていたことだ。京都に戻ったころと思われる。寄り添うような人間(男女か)とその背後の2本の影が描かれたもので、正直何を描いたのか、理解しにくい。赤木桁平「バベルの塔」の挿絵だが、文章との関連もなかった。

 

 

 いままで見て来た静物画の作品とは毛色が違っているのが、興味深い。

 ホトトギスではこれ以外に、船川の挿絵は登場しない。おそらく、俳句誌に似つかわしくないと虚子が判断し、以後依頼をしなかったと想像された。

 同号には、洋画家森田恒友の作品が挿絵、裏表紙と2点掲載されていた。ホトトギスの常連の恒友が、虚子に船川を紹介したのかと思われた。ちょうど、この3月恒友は、神戸からフランスに向け出航している。

 恒友は前年まで大阪の新聞社で薄田泣菫とともに仕事をしていた。後年、泣菫は船川の作品を購入する間柄になる。当時も接点があった可能性はある。

 

 28歳、若き日の未乾が精神的に格闘していた様子が知れる作品なのだろう。この翌年、彼は個展のため、三条古川町の電車の交差点に腰を据えて黙々と写生に没頭する生活を送ったという。当時、古川町は京都大津間の京津電気軌道と京都電気鉄道木屋町線が交差し賑わっていたらしい。出品作も「壁の光」「崖に立てる木」「陰になれる崖」とのタイトルが判明した。予想に反して、静物画でなく風景画だったようだ。

 大正4年のデビュー展は、観客も少なく作品はほとんど売れなかった。船川は、会場に好物、京都の老舗「いづう」の鯖寿司を持ち込んで食べていたという。そのいづうのお嬢さんと、翌年に結婚する。作家富士正晴は未乾の「心友」竹内勝太郎の残した資料を基に個展の様子を以上のように記した(「心せかるる」1979年)。さらに咲子夫人が佐々木姓なので、佐々木文具店とも関係があったのではないか、彼女が個展の会場を斡旋したのではないかと、想像を広げていた。

 未乾と名乗ったのは、展覧会後、大正5年の2人の結婚がキッカケだったのではないか、と思われた。