洋画家船川未乾が装幀した歌人川田順の歌集「山海経」(大正11年三版、東雲堂書店)をあらためて手にした。川田の大和路の歌を読んで、なにか似た世界を思い起こした。俳人水原秋櫻子の昭和初期の句だ。
秋篠寺
あきしのの南大門の樹(こ)の下は蛇も棲むがに草しげりたり (大正7年)
仏像修繕 唐招提寺の金堂にて
匠等は春のゆふべの床(ゆか)の上(へ)にあぐらゐ黙りはたらけるかも
いにしへの巨き匠は知らねども今のたくみを目交(まなかひ)にうれし(大正8年)
一方、大正14年からの句をまとめた秋櫻子の第一句集「葛飾」(昭和5年)。
秋篠寺
紫雲英咲く小田邊に門は立てりけり
再び唐招提寺
蟇ないて唐招提寺春いづこ
三月堂
来しかたや馬酔木咲く野の日のひかり
中学生のとき秋櫻子の句に接して、憧れを抱いた奈良の古寺のさびれた佇まいは、秋櫻子の句の前に歌人の川田順が短歌で描いていたのだった。
驚いたことに、秋櫻子の「葛飾」の代表句、
梨咲くと葛飾の野はとの曇り
の「との曇り」という言葉を用いた歌も「山海経」にあった。
法隆寺行 門前
をちこちの梨棚の上にゐる鴉目につきて野はとの曇りせり (大正9年)
「との曇り」だけでなく、「梨」と「との曇り」との取り合せも一緒ではないか。
「との曇り」「との曇る」は万葉集で大伴家持、阿倍広庭の歌に用いられていて、空一面曇った様子を指している。「たなぐもる」と同じだとされる。
鳴門の冬
との曇る沖のそぐへにしらじらと浪騒立つは鳴門の潮筋 (昭和5年)
山中湖
さびしらに湖べ歩めばとのぐもり蝶ひとつ飛ぶささ波の上を (昭和7年)
川田順と秋櫻子の関係はどういったものだったのだろうか。
高濱虚子主宰の「ホトトギス」で活躍した秋櫻子は、同誌の写生句に限界を感じて俳句の新しい表現を求めた。
「各作者は豊富なる表現を身につける必要があった。この豊富なる表現力の必要を感じたとき、作者等の眼は当然短歌及び詩に向けられたのである」「われわれはまづ短歌の表現から養分を摂取せんことを企てた」(水原秋櫻子「現代俳句論」、昭和11年)
秋櫻子は山口誓子とともに短歌を学び、昭和初期に萬葉調といわれた俳句を作りだした。秋櫻子は上記の句のほか、
住吉に凧揚げゐたる処女(をとめ)はも
などの句を作り、誓子も
鱚釣や青垣なせる陸(くが)の山
匙なめて童たのしも夏氷
と万葉集で使われた助詞や名詞を取り入れた。
さらに言えば、秋櫻子が始めた「連作」は、短歌で川田が「山海経」「青淵」でさかんに行っていたことだった。萬葉調も連作も川田の影響が大きかったのは間違いないだろう。
秋櫻子は、「ホトトギス」から離れ「馬酔木」を立ち上げ、やがて誓子を同人に迎えた。その時の秋櫻子の情熱は、短歌の豊富な表現力を俳句に取り入れて得た自信から生まれたようだ。短歌といっても短歌一般ではなく、秋櫻子は川田順の短歌を読み込むことから始めたのだと思う。
「との曇り」は、それが伺える大事な言葉に思える。
私が仕事をする事務所のビルは、昭和初期、秋櫻子の「馬酔木」編集室があった位置に建っている。編集室のあった旧ビルを現在のビルに建て替えたものだ。
この場所で船出した秋櫻子が、川田順歌集から多大な影響を受けたこと、そして手にしたはずの「山海経」の装幀を、船川未乾画伯が担当したことに気づいて、私はなにか愉しくなってしまった。