カラフト犬の犬ゾリについて犬飼さんの記述

 

 近所に住む、サングラス姿で派手な服装をする老齢の女性と知り合って、立ち話をするようになった。

 ある時、おばあさんが樺太の落合生まれだと知った。珍しいので、「故郷に帰ってみたいですか」と聞いた。「すぐ北海道に移ったし、あまり思い出がないんです」とのことだった。

 樺太というと、断然、カラフト犬(南極昭和基地のタロ、ジロで知られる)に興味がある。カラフト犬の犬ぞりは、現地では「のそ」といわれたのを、山口誓子の句で知った。

 

 京都生まれの俳人の誓子(1901-1994)は、11歳から16歳の少年時代、外祖父(母方の祖父)と樺太で暮らしたのだった。少年時代を回想した、犬橇の句がある。

 犬橇(のそ)かへる雪解(ゆきげ)の道の夕凝(ゆうご)りに

 事務長や船を留守なる犬橇(のそ)の興

 雪が解け始めても、夕べともなると氷結する道を犬橇が戻ってくる。

 船の事務長(乗客担当)が船を留守にして犬橇を楽しんでいるーといった内容か。

 日露戦争後、南樺太が日本の領土となり、1907年に樺太庁が設立された。同庁は、雪深い冬の荷役、運搬、交通手段として、犬ゾリの開発に力を入れた。樺太は馬を飼うにも馬糧がない、トナカイはいるが重いそりには、力が足りない。頑健なカラフト犬に目をつけたのだった。

 

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 国境沿いの町、敷香の様子を北大名誉教授の犬飼哲夫さんが「わが動物記」(暮らしの手帖社)で書いている。

「たいてい一戸のうちに犬を十頭から十五頭ぐらいみんな持っていたのです」

「さいわい、タライカ湾にはマスやアザラシがたいそうとれる。ところが、カラフト犬は一日にマス一尾あれば養えるから、カラフト庁でも、犬ゾリに力を入れて、犬の調査やら、よい犬を育てあげることをやり、そういった方面で、私もお手伝いをしたのです」

 
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犬飼哲夫「わが動物記」の「カラフト犬タロ」の章

 

 アイヌ犬などが1頭、あるいは2、3頭で猟をするのと違い、カラフト犬は10頭と超える集団で働く特別の犬だった。犬は10メートル余のロープに、千鳥がけにつながれ、そりを引いた。

 飼われたカラフト犬は、夏になると、野放しにされ自活生活に入る。十五頭も養う余裕が飼い主にないからだ。「犬は仕方がないから、海岸で、かにのくさったのを拾って食べたり、魚の頭をたべたり、ゴミためを探したり、蛙をたべたりしていきてゆくわけですが、いよいよ困ってくると飼われた家へ来るのです。すると家の人も可哀そうだとおもうから、まあ多少は食べさせる。しかし、そのあとはくれないから、またまた仕方なく自活するということになります」(前掲書)。じつにけなげな犬種なのだ。

 カラフト犬の橇は、北海道、東北などにも広がった。昭和27年、俳人高野素十が句集「雪片」でカラフト犬などの犬の2句を発表している。これも、北海道か東北、北陸の辺りの光景だろう。

   ガスの町樺太犬は車ひく

   遊びゐる日本犬やガスの町

 素十が、日本犬と違い、よく働くカラフト犬に目を瞠っている様が伝わる。

 ただし、日本犬の肩をもてば、秋田犬を始め、南方犬なので、エスキモー犬、ハスキー犬、サモエド犬の仲間の極地犬カラフト犬と同等に見ることは出来ない。

 この光景も、70年代になってカラフト犬が絶滅して見られなくなった。

 樺太生まれのおばあさんは、カラフト犬の思い出はあるのだろうか。聞いてみたいが、最近、見かけないのが少し気になる。