嵯峨野から泊雲、芋銭へ

今年は京都でも紅葉は駄目だったと、久しぶりに会った嵯峨野の寺の息子さんが言った
 
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我が墓のある、その寺には、句碑が沢山ある。
なかでも、自慢なのは、秋桜子、誓子、素十、青畝の4Sが登場するまで、大正、昭和初期と「ホトトギス」で活躍した西山泊雲、野村泊月兄弟の句碑があることだ。
 
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 丹波二泊」と言われていた兄弟は、今では、あまり一般には知られてない。
 兄弟の実家は、嵯峨野から山を越えた丹波にあり、造り酒屋を経営していた。
 長男の泊雲は、家業を継ぐのをいやがり家出を何度もする。
 神戸から米国渡航など企てるが、連れ戻され、精神衰弱となった。
 弟の泊月が俳句を作っていたので、高浜虚子に紹介し、泊雲も熱中して立ち直る、そんな経緯があった。
 泊雲で知られている句は、
 
 掘り返す土くれ光る穀雨かな 
 冴え返り冴え返りつつ春なかば
 土間にありて臼は王たり夜半の冬   
 
あたりだろうか。
ホトトギス」には、表紙や挿絵を描く主たる2人の画家がいた。平民新聞などでイラストを描いていた平福百穂小川芋銭
 選句もしてホトトギスの編輯に係った泊雲を、芋銭が尋ねてゆく。
 丹波が気に入って、1週間芋銭は泊雲の世話になる。
 これを機に、2人は心底仲良くなる。
 驚くべきは、やがて、泊雲の娘さんが、芋銭の三男と結婚、泊雲の長男もまた、芋銭の末の娘さんと結婚して、親族となってしまう。
 そんなことって、あるのか、と思う。
 水戸の近代美術館で、芋銭の作品「海島秋来」を間近に見た。
 苫屋の前に、小さく、大人や子供が描かれているのだが、それが、ひと目見て、温かい家族だと分かるのだ。芋銭といえば、河童の絵が有名だが、描かれた生き物それぞれが、生を謳歌している。
  
泊雲は、俳人として、忘れられてしまったのは、戦後の俳句批評をリードした山本健吉が、工夫のない無感動の俳句の典型として、泊雲を批判したのが大きい、ということも分かった。
 強い個性に欠け、社会性に欠けるという印象なのだろうか。
 今読み直すと、かけがえのない丹波の風土が描かれている、としか思えないのに。
 嵯峨野の句碑は
   明月や葎のなかの水たまり
  葎=むぐらは 雑草の茂み、のことだろう。
  
泊雲の実家の銘酒「小鼓」は、今も評判の酒である。
 一時、泊雲が当主の時、傾きかけたが、虚子が、酒に「小鼓」と命名して、筆をとり、ホトトギス会員に買わせて、支えたという。
 
 泊雲を調べ、やがて芋銭を調べたら、僕の好きな、漫画家ますむらひろしの、猫の絵の原形のような作品を芋銭が残していることも発見できた。
  
嵯峨野の寺から発して、まだまだ、見えてきたことがある。
(続く)