芋銭泊雲の書簡集に描かれた恒友

 俳人西山泊雲の生家の丹波の西山酒造場が、泊雲と小川芋銭の大正5年から昭和13年の手紙のやり取りを立派な本にしていたことを知り、慌てて連絡した。「芋銭泊雲来往書簡集」。3年前の発行だったが、在庫があるというので取り寄せた。

 

 2人の書簡には、共通の友人だった森田恒友のことも沢山触れていた。ざっと目を通して付箋をすると、二十近くあった。

 

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 先日訪ねた多磨霊園の恒友の墓石の刻字についても書かれていて、芋銭が書いたものだと判明した。亡くなって3か月後、未亡人が芋銭を訪ねて依頼したのだった。

 

「数日前に森田未亡人見へ多摩の墓地にたつ森田氏墓石の字を頼まれ申候」(昭和8年7月4日 芋銭から泊雲宛)。未亡人から、形見の硯を贈られた事も記し、「石の硯の友かなしさよ皐月闇」の句を添えている。

 墓石のやさしい字は、芋銭の手によるものだった。

 

 恒友自身の病床日記(「画生活より」)は昭和8年2月6日で終わっているが、その後の千葉の病院での様子が芋銭の書簡で伺える。

 同年2月21日の泊雲宛。恒友が中野の家に帰りたいと、言い出したことを芋銭は知った。「悲痛此事に存候」「病院生活に於ける人間苦を深く深く味はれ候」「平福(百穂)氏の十二首出来よしにて森田氏悦ばれ候事何よりの慰藉と被存候」

 

 亡くなる1週間前の4月1日。具合の悪い芋銭の代わりに、三男が見舞った。「存外の元気にて知可良(三男)が嘗て森田氏を沼より送る為船頭をしたる話などされ至極機嫌よかりしよし 四五日前は悪しかりし由」(4月2日泊雲宛)。

 

 亡くなった時の様子についても、芋銭は泊雲に報告している。

 恒友は、表装なった自作「四園和楽図」が病室に届けられると、「心のままに展観近来の快興なりと夫人にも語られ候よし 其夜より熱発 八日は困睡裏に永眠となり候よしに候」(4月18日泊雲宛)

  

 1か月後の5月中旬に泊雲は恒友墓参を予定していたが、二女が高熱を出し、チブスの疑いがあったので延期した。「地下の森田氏に対しても相済まぬ訳にて、毎日気かかりに其日を送り居候」(5月23日、芋銭宛)

 

  恒友は丹波の泊雲宅を訪ねて、マツタケ狩りをした思い出を書いているが、書簡では、泊雲も中野の恒友宅を訪問していたことが分かった。

 入院半年前の2人の嵯峨野行も書かれていた。2人は丹波から嵯峨野に出て清滝で昼食をとった。その後高雄へ向かったが、新道が出来たという「女中の虚言」を信じ、3時間道なき道をたどり、ほうほうのていで高雄に到着したのだった。2人とも「疲労の極みに達し」、「小生は山陰線に森田氏は何にても江州石山に一泊するとか申され 妙心寺の裏門にて分袂致しとんだ目に会い帰宅致し候」(昭和7年6月19日芋銭宛)。恒友の体にもさわったろう。

 

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 書簡集と共に、泊雲の酒造場の「小鼓」も届けてもらった。高浜虚子が泊雲を支援して、命名した酒でもある。

 細と夕餉に飲んだ。「冷やしてもいけそう」と細はいうが、燗でもよさそうな、口当たりは甘いが、あと口が辛めの一升瓶だった。細工をしない昔ながらの自然な味わいが印象だった。

 ラベルには、虚子が寄せた言葉が印刷されていた。

「古處爾美酒安里名付希天小鼓都邑」。ここに美酒あり名付けて小鼓という、と読めた。