京・嵯峨野の人たち
高山寺の仔犬について調べるのに、なにから手を付けていいのやら。 栂尾の高山寺は、今は京都駅からJRバスで55分ほど。簡単に行けるようになった。昔は、高雄の神護寺の先にあるこの山寺は遠かったはずである。 大正11年に鉄道省が発行した「お寺まゐ…
俳人西山泊雲の生家の丹波の西山酒造場が、泊雲と小川芋銭の大正5年から昭和13年の手紙のやり取りを立派な本にしていたことを知り、慌てて連絡した。「芋銭泊雲来往書簡集」。3年前の発行だったが、在庫があるというので取り寄せた。 2人の書簡には、共…
神田には、関東大震災直後に建てられた古い建築の居酒屋があり、昼を食べに行く。 高い天井の下、土間に据えられた大卓で、焼き魚などを食べる。 昼は静まり返っていることが多い。 コロナ自粛の前は、夜は酔客であふれ、店外に列が出来るほどだ。近くの蕎麦…
神保町の古書店から買い込んだ雑誌類が読みきれない。史学の雑誌、民俗学の雑誌、俳句誌、総合誌と混ざっているので、思考があっちこっちしている。 思いがけない発見は「東北文学」の昭和21年2月発行の第2号だった。著名な文学者が多数東北に疎開しているこ…
この夏の京都のひとコマ。JR嵯峨嵐山駅前のいのうえで夕食を取り、嵐電嵯峨駅から、京都の四条河原町に戻る時、嵯峨野の寺の副住職に 「ちょっと面白いところがありますから見て帰ってください」 といわれ、深まる夕闇の中、連いて行った。 踏切を越えて、…
修学院離宮は当初、上の茶屋と下の茶屋しかなかったが、時代が下って、後水尾天皇と縁が深かった近くの林丘寺の半分を中の茶屋として取り込んだ。 中の茶屋には、楽只軒や客殿など見どころがある。客殿は、仙洞御所北の女院御所の奥対面所から移築したもので…
上の茶屋の大刈込については、近藤富枝が小説「東福門院和子 江戸の花女御」(2000年)で丁寧に描いていた。 万治三年(1660)五月十二日、落飾し法皇となった後水尾院と東福門院が修学院離宮に始めて御幸する最後のくだりだ。 「所司代牧野親成が馬…
戦後京阪電気鉄道の社長を長らく務めた村岡四郎は、同社の役員時代に、同社の事業として「趣味の京阪叢書」を刊行した。太平洋戦争のさなかである。 1 中村直勝 水無瀬、山崎附近 2 大塚五郎 嵯峨野の表情 3 望月信成 宇治、醍醐 4 羽栗賢孝 琵琶湖点抄 …
河原町にとった安宿で目を覚まし、朝6時前、鴨川を散策した。徹夜組の外国人の若者が四条大橋に溢れていた。若者の熱気を敬遠して、対岸に渡り、川の流れを見ていると、一羽のサギがこっちにやってきた。 丁度、足場になるコンクリートが水面から顔を出して…
京都嵯峨野のお寺の庭から、和尚さんにいただいた草花が、我が家ですくすく育っている。 2年経って、思いがけない花を咲かしたものがあった。鉢が玄関に置いてあった。 細が、何の花かNETで調べて欲しいという。 便利なもので、「5弁の白い花 5月開花…
細が入院する病院に通いながら、高円寺の古本屋で見つけた森田恒友の「画生活より」を読んだ。恒友は、今まで幾度か触れてきた大正、昭和初期の画家で版画家だ。 パリ留学したのはいいが、第一次大戦下のパリに到着。緊迫する戦況の中、心酔するセザンヌの郷…
京都・嵯峨野の住職から頂いて、持ち帰ってきた寺の庭の草花が次々と花咲かせている。 春が来てイワセキショウの白い花が咲いたと思ったら、今度はホタルブクロの花が咲いた。 ホタルブクロは花の形から、釣鐘草ともいわれるが、初夏の花。通常6月になって…
2017年気になったこと(2) この夏、嵯峨の二尊院にある勅使門で、椿の紋を見つけた。 気になったので、すこし考えてみる。 まず、水天宮の紋が立ち椿なので関連を調べたが、勅使門が再建されたのが永正18年(1521)と古い。水天宮の安産とはつな…
ことし出会って、気になったことの整理。 1)祇園祭の函谷鉾の前垂れのゴブラン織り「水を汲む女」 1718年 豪商沼津宇右衛門が寄贈したベルギー製。旧約聖書創世記「イサクに水を供するリベカ」を題材にしたという。 以下、アブラハムが息子イサクの嫁…
知人たちに誘われて、京都へ祇園祭の前々日の宵々山から出かけた。 祭のことは皆が伝えているので、祭の期間中に出くわした「生きもの」たちをご紹介。 顔付じゃがいも 宵々山の夕、錦市場近くの八百屋で見つけた。じゃがいもに眼、眉、口が描かれていた。 …
京・嵯峨野の6月の空 蓮の咲く水面に映る空 いろは紅葉も 天竜寺 愛宕山を遥かに見つつ川下り 蝶が横切る 保津川 猫の神社の神苑で一服し見上げた空 梅宮大社 紫陽花の群の奥 透けて見える青空 梅宮大社 少し昔の嵯峨野の様子は、高桑義生さん(1894-1…
銀杯草がすくすくと鉢植えで育っている。 嵯峨野のお寺に咲いていた植物を幾種類も頂いて持ち帰ったもののひとつだ。住職が汗水たらして、スコップで掘り起こしてくれたのだった。今回は大量に頂き、家で確かめると、シランなど7種類もあった。有難い。 近…
嵯峨野の天竜寺大方丈で、朝こんな、下がり藤の紋を見つけた。 なんだか、紋の上部にある三つ葉の葉柄が、十字架に見える。古いものではなさそうなので、紋を彫ったときにたまたま十字になったのかもしれない。 寺と十字架―。この組み合わせで、ふと鎌倉・東…
寒い日が続きながら、春も確かなものになってきた。 冴え返り冴え返りつつ春なかば 泊雲 今年は、例年以上に、西山泊雲の上の句を思い浮かべることが多かった。 泊雲のことは前に触れたが、丹波二泊のもう1人、泊雲の弟で、俳人の野村泊月(1882-196…
先週の水曜日の夜、スチュワート先生に会うと、節分に北北西を向いて、恵方巻を食べたのだが、どうして恵方は毎年変わるのか、と聞かれた。 「ひょっとして、コンビニで買ったんですか。商売に乗せられてますね」とこたえると、 「いや、自宅で○○子と、海苔…
長崎・丸山町を歩く。レトロ風の交番があって歴史ある建物かと思ってしまう。実は、1970年代から80年代のバブル期にかけて建った新しい建築だった。 歴史の遠近法は難しい。 現代の目で昭和11年の朝井閑右衛門画伯と新制作派の三田康画伯たちを判断するのは…
長崎で仕事を手伝った。丸山町界隈の坂道を歩きながら、朝井閑右衛門のことをまた考えた。 文部省が日本美術界の統括を企て、帝展を改組した昭和10年当時、朝井は帝展に反旗を翻した「第2部会」の若い画家たちのグループに寄り添っていた。10年か11年…
練馬区立美術館で開催中の「朝井閑右衛門展 空想の饗宴」を見にいった。先々週。朝井閑右衛門(1901-1983)に関心を持ったのは、仮面と幻想の画家アンソールとの類似を指摘した文章を読んでからだ。 「日本のアンソール=朝井閑右衛門の仕事は、鳥…
前に芭蕉の研究者、飯野哲二さんの「親友」だった洋画家、三田康さんに触れた。 少し前、三田氏の絵を見に、細と川越市立美術館へ行ってみた。 「昭和モダン 藤島武二と新制作初期会員たち」という展覧会に、三田の作品が展示されていたからだ。 新制作立ち…
哲二・小夜について、最後に綴りたいことがある。全くの推測であり、大はずれかもしれない。 哲二32歳の時洋画家の親友がいた。9歳年下の画家・三田康(さんた・やすし)。飯野哲二が上梓した「近松の芸術と人生」(大正12年、東条書店)の表紙絵を描いた…
嵯峨野の寺には、動物が掘った出来立ての穴があった。 住職によると、小倉山から猪が下りて来て、境内でミミズを食べたり、ユリネを掘り出して食べて、また戻って行くのだという。 ここまで、猪が来るんですかあ。正直僕は驚いた。 トロッコ鉄道の駅の傍、観…
先に記した、京都・嵯峨野の寺には、芭蕉の研究家の墓がある。 飯野哲二東北大学名誉教授。 1891年(明治24)、栃木県二宮町生まれ。近世文学を研究し、東大で学んだ後、仙台の宮城女専という女学校で教鞭をとり、 54歳で終戦を迎える。 東北大の先生とな…
今年は京都でも紅葉は駄目だったと、久しぶりに会った嵯峨野の寺の息子さんが言った。 我が墓のある、その寺には、句碑が沢山ある。 なかでも、自慢なのは、秋桜子、誓子、素十、青畝の4Sが登場するまで、大正、昭和初期と「ホトトギス」で活躍した西山泊…