三田康の絵を見に行った

 前に芭蕉の研究者、飯野哲二さんの「親友」だった洋画家、三田康さんに触れた。
 
 少し前、三田氏の絵を見に、細と川越市立美術館へ行ってみた。
 
「昭和モダン 藤島武二と新制作初期会員たち」という展覧会に、三田の作品が展示されていたからだ。
 
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 新制作立ち上げの前の、2点だけだったが、とても、いい絵だった。
 
 東京美術学校(現東京芸大)で、洋画を教えていた藤島武二の門下の三田たちが、戦争前の昭和10年、文部省の美術界の挙国一致の再編に異を唱え、「第二部会」設立を経、野に下って拵えたのが新制作協会だった。
 初めは9人の侍だった。
 猪熊弦一郎、三田、中西利雄、佐藤敬内田巌小磯良平、伊勢正義、鈴木誠脇田和
 
 規約を見ると、堅い決意が読み取れる。
 
 我々は一切の政治的工作を否定し、純粋芸術の責任ある行動に於て新芸術の確立を期す。
 我々は従って「反アカデミック」の芸術精神に於て官展に関与せず。
 我々は独自の芸術行動の自覚に於て、我々の背馳すると認めたる一切の美術展覧会に関与せず。
 我々は常に新しき時代の芸術家の結合を与望し、年一回以上の公募美術展覧会を最も厳格なる芸術的態度に於て開催し、以て我々の芸術行動の確立を期す。
 我々は以上の芸術的主張に於て新制作協会を盟約す。
 
 展覧会入口に、集合写真が掲示されていて、三田を探すと、師匠藤島のすぐ後ろに立っていた。
 背が高くて、表情からは、意志が強そうな印象を受けた。会の中心的な存在だったのではないか。
 
 三田がこの頃、新制作展に出品したものは、全て行方不明、モノクロの写真が添えられているだけだった。
 
 アカデミックの世界から、在野の立場になって、三田の絵も大きく変ったと、当時言われたが、展示されていた帝展時代の人物画にも、変り来る時代の空気に、ちょっと不安そうに警戒して生きている人たちを、共感を込めて描いている、と思った。
 
 展示を見ると、戦争の波は、志の高かった彼らを、飲み込んでいってしまったことが、よく分かる。
 
 3年後の昭和13年、陸軍省が大日本陸軍従軍画家協会を設立し、戦地へ従軍画家を派遣することを決めた。南京など中国に、猪熊、佐藤、小磯。三田にも、師匠藤島ともども、南方へ従軍の命が来る。三田は戦争画レンネル島沖海戦」を描き、作品展にも参加した。
 
  9人の侍の中で、内田巌は、戦時中、中国地方の山村で過ごし、時代の大波をやり過ごす。戦後、進駐軍を背景にした民主化で、内田は、左翼系の画壇の旗振り役となって活躍する。戦時中、軍に協力し、戦争画家の人選をした藤田嗣治を激しく批判した。
 
 9人の侍の中、戦後も大活躍した小磯は、亡くなる前に、手紙に、戦争画を描いたことを悔やむ文章があったと、新聞が大きく取り上げたことがある。書簡の送り先は内田だった。
 
 内田の著書「人間画家」を読んだ。第2回の新制作展から加わった米国生まれの野田英夫を追悼していた。
とてもいい絵を描き、今回も展示されている。野田は、米国共産党員の顔も持っていた。苦悩の果てに、野田は、日本で客死し、仲間たちが弔った。その描写で、内田は三田がポケットから畳んだ新制作協会の旗を取り出し、棺を覆ったと、書いている。
 
 三田は戦後、個人加盟の美術家の全国組織「日本美術家協会」の立ち上げに参加し、昭和24から26年まで事務局長をしている。
 みづえに「デッサンの話」など書いたり、本の装丁、新聞小説の挿絵を描き、タブローも、新制作展のほか、毎日新聞主催の「日本国際美術展」に昭和39年まで、出品していた。昭和30年代になると、「天文台」「五月の窓」など、人物画以外も手がけ出した。
 前に記した芭蕉の芽を描いた「早春」もこの頃なのだろうと想像できる。
 
 フランス留学経験のなかった三田は、昭和42年5月に渡仏するが、同43年2月5日、南仏ニースの近郊、カーニュ・スル・メールのホテルで心臓発作で亡くなっていたのが発見された。前夜に客死していた。
 
 67歳だった。その6日前の1月29日、藤田嗣治がスイスの病院で81年の生涯を閉じた。
 
 三田はそのことを知っていたか。絵の背後に、彼ら世代の生きた時代が見えてくると、なんだか、一枚一 
枚の絵を軽く流して見ることが出来なくなる。
 
 カーニュ・スル・メールは、地中海が見える避暑地。あの印象派の巨匠ルノワールが亡くなった地でもある。三田の生地の大津も、琵琶湖を見渡す美しい水辺の町。木曽義仲松尾芭蕉の墓があり、明治のフェノロサが終生の地とし、今も墓があるのを思い出した。三田はどこに眠っているのか。
 
もっと、この画家のことが知りたくなった。