森田恒友と喜田貞吉をつなぐ薄田泣菫

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 明治末から大正、昭和初期と、歴史家喜田貞吉が編集で腕をふるった学術誌「歴史地理」の表紙やカットを、画家で版画家の森田恒友が担当していたのではないか。その仮説で、何年も書いてきた。

 森田らが創刊した版画誌「方寸」掲載作など森田の初期の作品に、頭文字MTを組み合わせたサインが用いられているように、「歴史地理」の作者不詳の一連の表紙、カットのサインがMTの組み合わせであること。さらに、森田の多様な作品の中で、歴史、南洋に関心を持っていた森田のエキゾチックな一群の作品と、同誌の表紙、カットの類似性が伺われること、が根拠だった。 

 

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 しかし、決定的な証拠がない。

 

 コロナのため中断したまま終了した「森田恒友展」のカタログを取り寄せて、チェックしてみた。「歴史地理」と森田に接点はあるか。

 年譜で探ってみた。可能性があるのは、明治44年の森田の大阪転居であることが分かった。「帝国新聞」に就職したのだ。仕事は取材して絵、イラストを描くこと。

 その時の帝国新聞文芸部長に坐っていたのが、これまで度々触れてきた詩人でエッセイストの薄田泣菫だった。2人は気が合ったのだろう、帝国新聞に不満をもって一緒に退社。森田が大阪毎日新聞に転職した後、泣菫も後を追うように同新聞に入社している。詩人の泣菫と画家恒友は親しかったのだった。

 

 この時期、南北朝正閏事件で文部省をやめた喜田は、京都で暮らしていた。京都帝大で経済史を研究する内田銀蔵教授と同じ研究室で国史の専任講師をしていた。喜田が事件で一人、詰め腹を切らされたことに、一部学者から同情が集まっていた。教育者で物理学者の山川健次郎が支援したように、京都帝大でも温かく扱われたようだ。

 

 薄田泣菫は、後年「茶話」(大正8年の記事)で、内田銀蔵の京都帝大研究室での喜田の様子を書いている。

京都大学にある内田氏の研究室は、あの人の室(へや)だけにきちんとしたものだが、たつた一つ取繕はないものが中に交つてゐる。取繕はないといふのは、何も虫の食つた古本や、蝙蝠傘をいふのではない、文学博士喜田貞吉氏がそこに相住居をしてゐるのを言ふのである。

 きれい好きの内田と、奔放な喜田との相部屋生活。薄田は遠慮を知らない愛煙家の喜田と、嫌煙家の内田の煙草をめぐるやりとりを面白がっている。内田は研究室にある大事な書物や古文書が、煙草の不始末で灰燼となるのを恐れた。

内田博士は喜田氏が入つて来たそもそもから、室のなかで煙草だけは遠慮して貰ふやうに話し込んでおいた。喜田氏は無論それを承知した。だが、物には裏表といふものがある。喜田氏はよくそれを知つてゐた。で、室には煙草盆を置かないで、その代りに西洋菓子の空缶を、こつそり卓子(テ-ブル)の抽斗に忍ばせておいて煙草の喫ひ殻はそつとその中に隠しておく事にした。

  隠れ喫煙。「喜田氏は内田博士の居ない折を見ると大急ぎで煙草を取出した」「指先きが狐色に焦げつくのも知らないで、無性に貪り飲んだものだ」

 ところがとうとう見つかってしまった。「喜田氏は内田博士の教室へ出かける後姿を見ると、いつものやうに慌てて煙草を取り出した。そして胸から、腹から、頭のなかまで煙だらけになるまで立続けに煙草をふかした」。と、内田博士が戻ってきたのだ。

喜田氏は慌てて喫ひさしの煙草を空缶のなかに投り込んで、そ知らぬ顔をしてゐた。『あゝ煙い。喜田さんどうなさいました。火事ぢやございますまいか。』内田博士は顔を真青にして言つた。 『少し煙いやうですが、何でもありますまいて。』喜田氏は何気なく言つた。 その瞬間内田博士の眼はいつになく光つた。そしてつかつかとやつて来ると思ふと、喜田氏の卓子の上から、件(くだん)の空缶を取り上げた。喜田氏が慌てて蓋を閉めちがへた空缶からは、煙が白く這ひ出してゐたのだ。

 

 研究室のコミカルなやりとりはともかく、この文章で、薄田泣菫は、内田とも喜田とも親しかったことが伺われる。

 喜田は明治44年、大正元年にはすでに「歴史地理」に文章を書きまくり、編集に精出していた。この研究室で煙草をふかせながら文章を書いていたのだろう。 「歴史地理」の新鮮な表紙やカットを望む喜田が、新聞社で働く薄田に声をかけて、同僚の森田へ橋渡しをしたのではないか。

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 大正3年の渡欧を前に、資金集めをしていた森田も受け入れたのだろう。森田が帰国した同4年以降も、「MとT」を組み合わせたサインの新たな表紙、カットが「歴史地理」に掲載されている。

 森田は「ホトトギス」「層雲」「早稲田文学」の表紙を手掛けるが、「歴史地理」は、その先駆けだったのではないか。