紫峰と西班牙舞踏曲

 京の日本画家榊原紫峰(1887-1971)が、詩人の竹内勝太郎と深い交友があったことを今回初めて知った。

 私が、この日本画家に関心を持ったのは、カザルスのチェロ演奏をSPレコードで聴いて、感動を抑えきれず、このままの気持ちで絵画制作に打ち込みたいと、奈良へスケッチ旅行に行ったという逸話を知ってからだ。

 

 芸術はジャンルを超えて、画家が音楽から霊感を受けて描くという事が実際あるのだな、と感心したのだった。

 

 記憶を確かめてみた。前に読んだ田中日佐夫「日本画繚乱の季節」(美術公論社、83年)を開いた。

 

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「私の『奈良の森』はカサルスのセロ『西班牙舞踏曲』から受けた印象が第一のモチフになってゐる。(中略)この曲を聞いて非常に美しい感じに打たれた時、私は突然『奈良へ行かう』と思ひついた。奈良へ行けばこの気持をはっきり言い現はすことのできるやうなものにぶつかるに違ひないといふ気がしたのである。それから私は二箇月余り奈良の古い寺に住んだ」と、紫峰は書いていた。少し違っていたが。

 

 森に集う鹿五頭を描いた二曲一双(188x233㌢)の大作「奈良の森」はこうして生まれ、紫峰の代表作となった。大正9年(1920年)のことだった。

 

 カザルス演奏のCD「CASALS EARLY RECORDINGS 1925-1928」を探すと、スペインの作曲家グラナドスの「SPANISH DANCE」が見つかった。カザルスがチェロ演奏用にアレンジしたものだった。多くの人に親しまれ、私も心動かされる曲だ。

 

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 録音のデータは1928年2月28日。紫峰が20年に聴いたということは、これ以前に別の録音があったことになる。

 

 このとき、紫峰は、「文展」(官展)に飽き足らず、大正7年(1918)に京都の画家たちが旗揚げした「国画創作協会」の創立会員として大いに活躍していた。メンバーは土田麦僊、村上華岳、小野竹喬、野長瀬晩花と錚々たる画家たちだった。同年東京・日本橋白木屋で初の協会展開いたのち、京都・岡崎勧業館に戻って開催をした。

 

 興味深いのは、洋画家船川未乾を支援した京都帝大の深田康算教授が、国画創作協会の京都ホテルでの発会式に来賓で顔を出し、同会の月刊誌「制作」に、深田の師ケーベル博士とともに寄稿して、応援していたことだった。

 

 詩人の竹内勝太郎は当時、新聞社文化部の記者をしており、国画創作協会の動きも追っていた。また、大正6年(1917)深田教授らの支援を受け京都帝大学生集会所で個展を開いた洋画家の船川は、京都の美術界のこの新しい波の中で、榊原とジャンルを超えた出会いがあったのだろう。

 

 カザルスの演奏に紫峰が感動した1920年当時、三人の年齢は

 

 未乾 34歳

 紫峰 33歳

 勝太郎26歳

 

 東京で三木露風に師事した勝太郎は、京都で記者の傍ら詩作を続けていた。(8年後の28年知友の支援を得て仏留学。帰国すると京都美術館設立へ向けて市の嘱託となる)

 風景画の中川八郎(太平洋画会の創立メンバー)に学んだ未乾は、独自の世界を模索して京都で活動していた。(2年後仏留学。キュービズム系の画家アンドレ・ロートに師事、エッチングの技術も習得して帰国)。

 

 京都では、明治43年(1910)に深田康算の京都帝大文学部「美学、美術史講座」が開講、彼ら新進美術家、詩人への理解や支援の気運が生まれていた。

 

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「奈良の森」に戻ると、紫峰は「(作品の)基調となって豊富に使はれてある黄金色は、西班牙舞踏曲の古典的で然も華麗な幻想が制作の背景となって裏付けしてゐるのを示してゐるのである」とグラナドスの舞踏曲と創作の関連性を書いている。

 音楽からのインスピレーションは、「黄金色」で表現されているということらしい。

 

 スペインの作曲家グラナドスも、自作から生まれた紫峰の日本画の大作を知ったとしたら、驚くに違いないのだが、1920年当時鬼籍に入っていた。第一次世界大戦中の1916年、オペラ「ゴイェスカス」がNYメトロポリタン歌劇場で初演され、グラナドスは演奏に立ち会った。故国への帰途、乗船していたサセックス号が、英仏海峡でドイツ潜水艦の魚雷の攻撃に遭い沈没し、落命したのだった。

 早い便で帰る予定だったが、ウイルソン米大統領に招かれて演奏会に出席し、帰国便を代えたことで、この悲劇に巻き込まれたのだった。戦争は多くの人の命を簡単に奪う。紫峰はこのことを知らないで描いたのだと思う。