五輪騒ぎの中の恒友

 画家の森田恒友が千葉医大(現千葉大)に入院したのは、昭和7年の12月。仲間たちには年が明けた正月に連絡をした。

 一番で見舞いに駆けつけたのが、小杉放菴木村荘八中川一政の春陽会の仲間と、画廊琅玕洞の林氏(數之助か)の4人だったことが、恒友の日記で分かる。

 一政はこの時のことを、「正月七日木村荘八と放菴に案内されて千葉の医科大学附属病院の病棟に恒友を見舞った」と「遠い顔」に書いている。

 

 蒲柳の質だった恒友だが、春陽会の仲間は元気なスポーツ愛好家が揃っていた。

 放菴は、体力自慢のスポーツマンで、明治末、田端文士村にテニスコートを作り、親睦組織「ポプラ俱楽部」を設立した。仲間を巻き込み、春陽会の野球チームも作った。

先ごろ見学した「田端文士村記念館」には、テニス選手をデザインした放菴の「ポプラ倶楽部ジュニアトーナメント」のトロフィーが飾られていた。

 

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 一政は、ボクシングの熱心なファン。石井柏亭の弟で相撲好きの彫刻家石井鶴三と真剣に相撲を取る写真も残されている。その時、行司役だったのが、一緒に見舞いに行った木村荘八だった。(中川一政「腹の虫」)

 

 この年の7月、第10回五輪がロサンゼルスで開催されていた。南部忠平(三段跳)ら日本は金メダル7個(銀7個、銅4個)を獲得したが、実は放菴や鶴三もまたロス五輪に関係していたのだった。

 当時の五輪には、スポーツのほか「芸術競技」なるものが同時に開催された。5回大会から始まり、日本はロス大会に初参加を決め、昭和6年大日本体育芸術協会が設立されていた。

 

 昭和7年2月同協会は、「日本オリンピック美術委員」に放菴や鶴三を委嘱したのだった。芸術競技は、スポーツの躍動美を表現する美術、音楽作品を出品して、メダルを競うもので、協会は、絵画、彫塑、版画、工芸、建築、写真部門の参加を決め29委員を選んだ。

 スポーツマンだった放菴のほか、スポーツとは無縁な鏑木清方平福百穂ら恒友が敬愛する日本画家も選ばれ、版画部門では、鶴三のほか、恒友の仲間の山本鼎も委員に推薦された。

 

 委員の仕事は、公募したロス大会出品作を選考することだったが、放菴は自ら「蹴球構図」と題してラグビーの油彩を描き、スポーツ絵画のPRに務めた。この作品は、五輪期間中にロサンゼルス美術館で開催された展覧会(非競技)に展示された。

 

 芸術競技の結果は、スポーツのようにはいかず、エントリーされた21作品のうち、版画部門で長永治良「虫相撲」が選外佳作となっただけだった。

 

 審査員クラスが参加すべきだった、という反省から次回のベルリン五輪には石井鶴三自らが相撲の版画を出品するおまけがついた。結果は、絵画部門で藤田隆治が銅、水彩部門で鈴木朱雀が銅。佳作に彫刻の長谷川義起、音楽の江文也が入り、鶴三は選外に終わったようだ。

 

 もの静かな恒友への見舞いは、当然にぎやかになったようだ。一政らは恒友の病状を知らされていたが、本人には伝えられていなかった。

「恒友は癌だと知らないのである。然し髭の中に光っている恒友の眼は、私達の心を窺わないだろうか。/私達は呑気に話をするのが息苦しく辛かった」と書いている。

 だが、恒友は分かっていたのだった。柩が、中野の家に運ばれた時、鞄の中に恒友のエンディングノートが見つかった。

「自分の葬儀の次第をかくせよと図面まで描いた紙片が出て来た。/恒友は知っていて、我々と生きている世の中の話をしたのである」と、一政は慟哭している。

 

 負けず嫌いの放菴、鶴三らが五輪で高揚していた時も、仲間の恒友は変わらずもの静かに暮らしていた。

 

「恒友を失って半年になるが、恒友の我々の間に張っていた根ざしは案外深いものである。/我々の喧噪の生活の絶え間に、心が澄む時にそれがわかる。/そして恒友の美術界の残した事業も、世間が考えているより案外深く根ざしているのである」と中川一政は「遠くの顔」に記している。

  コロナや五輪の喧噪が渦巻いている今また、恒友の生き方を思わずにいられない。

 

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  昭和7年「四季蔬菜冊」から