刀水漁郎と木槿の花

  画家森田恒友にゆかりのある人の話を続ける。

 

 水墨画家の小川芋銭は、自然の残る茨城県取手で暮らし、利根川の向こう岸に住む、漁師の宮文助の人柄を愛した。文助も芋銭を尊敬し、揮毫をねだって、地元の連中に配った。

 芋銭の仲間の森田恒友小杉放菴も文助を好み、3人で大洗に旅行したこともある。とくに放菴は息子を連れて文助に鴨猟を教わり、茨城各地を文助と家族旅行して楽しんだ。宮を「刀水漁郎」(刀祢川=利根川の漁師)と名づけたのも放菴だった。

 

 画家中川一政は、宮の団扇を手に、胸元がはだけた姿は相撲取りのようだった、と書いている。若いころは五斗俵を片手で持ち上げ、四斗俵なら拍子木にして打ったという。曲がったことを嫌い、利根川にやって来た利権屋を池に放り込んだり、卓袱台を頭から被せたりしたのだった。(「遠い顔」)

 中川が、放菴に聞いた話では、宮は関東大震災の直後、東京に住む子供と孫を探したが見つからず、もう亡くなったのだと思い込み、この世に見切りをつけた。死ぬなら、悪い奴を道連れにしようと、近郷きっての悪議員を夕涼みに連れ出し、両足で「おっ挟んで」、舟から入水しようと企てた。

 直前息子と孫が無事戻って来て、議員は命拾いしたのだという。そんな任侠家を画家たちは好んだ。

 

 

 芋銭らは、刀水漁郎の馴染みの川魚料理店魚藤に集まるのを楽しみにした。利根川上流で育った恒友は、同じ川の鮭、鰻、鯉、鮎の川魚料理を喜んだ。昭和3年には、同年生まれの芋銭と刀水漁郎との2人の還暦祝いを、この店で開き、恒友、放菴、百穂、丹波からは西山泊雲が参加した。

 

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 翌年3月、なんと仲間に先立って刀水漁郎が亡くなった。放菴と恒友は取手に弔問に駆けつけ、5月下旬に墓参に行った。芋銭、放菴、恒友は、この時3本の樹木を墓に植えるよう寺に頼んだという。種類は任せたが、後日墓参に行った恒友は、樒(しきみ)、木蓮などが植えてあるのを見て、「木槿(むくげ)にしてほしかった」と、芋銭に漏らしたという。

 

 その4年後に亡くなった恒友への追悼文で、芋銭はその時のことを振りかえっている。「木槿は寂しい木である」とも書いていた。

 

 豪傑に、なぜ木槿がふさわしいと、恒友は思ったのだろう、私にはそれが気になった。夏の茶花でもある木槿は、千利休の孫、千宗旦(「わび宗旦」)が好んだ「宗旦木槿」がよく知られる。白くて、花の中心が赤い。

 そんな木槿と刀水漁郎のとり合わせが分からない。

 

 「遠い顔」を繰り返し読んでいると、中川は川魚料理店魚藤の女将のことを記しているのに気づいた。女将は画家たちの眼を惹く女性で、馴染み客の刀水漁郎との二人のやり取りは、石井鶴三、木村荘八の挿絵のモデルさながらだった、としている。

 恒友にとっては、木槿はあるいは女将だったのかと想像してみた。墓に入った刀水漁郎に、女将さんのイメージの木を添えてあげたかったのではないかと。

 

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 人にはそれぞれふさわしい花がある。アトリエの恒友追悼号で芋銭は、「東洋の思想に、清純の人死して花に化すると云ふことがある」(「憂鬱なる江村と森田氏」)。

 亡くなった恒友は「今野に咲きほこる辛夷(こぶし)の花に化せられたのではないか、此の清くして寂しい花に」と綴った。

 

 多磨霊園の恒友の墓石を思い起こし、辛夷の真っ白な花を頭の中で添えてみた。

 

 辛夷は当分見られないが、木槿はこれからあちらこちらで花を見ることができる。