西行の猫再び

 西行の銀猫のエピソードについて、前に触れた。その後、この逸話は、江戸時代から画家たちの恰好の題材として扱われてきたのだと知った。

 

 銀猫のエピソードとは、平泉に向かう途中に西行法師が、鎌倉の鶴岡八幡宮で、源頼朝と出会い、流鏑馬故実を教えた、頼朝は褒美に「銀作猫」を与えたが、門外に出ると、遊んでいた子供に惜しげもなく銀猫をあげてしまった、という話だ(「吾妻鏡」文治2年の条)。

 

 江戸時代から、長谷川雪旦(1778-1843)らが、この情景を描いていた。私が気づいたきっかけは、夭逝した考古学者榊原政職を描いている榊原喜佐子「殿様と私」(草思社、2001年)だった。

 著者である、元高田藩主の夫人が、同藩出身の「金子老人」から、小林古径速水御舟横山大観川合玉堂らの軸を見せられた思い出話に、「いまでも覚えているのは、ぶどうの房とりすの絵、銀の猫の置物をおしげもなく村の童にくれてやる僧の図など。」と記していたのだった。

 

 銀の猫の置物をおしげもなく村の童にくれてやる僧、とは西行ではないか。

 (葡萄栗鼠(ぶどうりす)の題材も、「武道律す」の語呂合わせで、江戸時代から好まれた。遠坂文雍、森寛斎など)

 

 その後、森田恒友の仲間の一人であった彫刻家石井鶴三の、松村秀太郎との往復書簡集「石井鶴三書簡集Ⅲ」に、銀猫の彫刻の出来事が出て来るのを知ったのだ。

 昭和16年のことで、当時鶴三は、院展の彫刻部門の審査員をしていた。知人の松村が院展に銀猫の彫刻を応募し、それを審査したのだった。

 彫刻部門は、鶴三とともに、平櫛田中が審査していたが、平櫛が松村の彫刻審査で異議を唱えた。

 松村作品は、子供が西行の腰にすがって銀猫を欲しがっていた。平櫛は、作者の理解が違っている、西行が頼朝の銀猫を子供に呉れてやったのは、西行の意志であり、子供が欲しがったからではないのだと。

 一応、他の一点とともに入選となったが、注文がついたため、鶴三は、審査の様子を書簡で、松村に知らせた。その中で、西行にすがる子供の像を取ってしまってはどうか、という提案が出たことを記している。

 

 松村は、返信できっぱり提案を拒否した。よほど腹が立ったのだろう。作品は彫刻的な価値が問題で、史実とされる構図に合わせるのは承知しかねる、と。

 しかも、歌人川田順西行研究では、寂滅後も西行の元に銀猫は残っていたとしている、銀猫の挿話は史実とは限らないと主張している。

 

 芸術家として、もっともな松村の主張に、鶴三は、平櫛が言い出したことなのであらためて説得してみる、と松村をなだめている。

 

 色々な意味で、審査員の鶴三の態度は情けない。

 

 しかし、まずは銀猫のこと。西行の死後も手元に置いていたというのは、どういうことなのだろう。

 

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 ウチの猫と一緒に調べてみるか。