恒友の墓を探して

 土曜日に、息子一家と墓参りに出かけた。息子の運転で、いつも通り多磨霊園から小平霊園とハシゴする。今回は、多磨霊園のなかで寄り道してもらった。

 18区で細の実家の墓掃除をしてから、13区へ回ってもらったのだ。道は行き止まりが多く、やっと到着した13区も広く、独り車を降り、汗をかきかき、探し回った。

 見かねた息子が掲示板を見て、Ⅰ種37号は、もっと向うだから、車にまた乗って、という。

 

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 画家森田恒友の墓地に行きたかったのだ。

 墓は正面に森田家の墓石があり、右側手前に、左を向いた「森田恒友之墓」の墓石が建っていた。

 

 恒友の墓が、多磨霊園にあるのを知ったのは、閉店間際の本郷の古書店で見つけた、中川一政「遠い顔」だった。中川画伯は恒友の思い出や、追悼文を、心にしみる文章で描いていた。

 

 恒友は、熊谷の墓から分骨して、東京に埋葬するように遺言していたのだった。一周忌に、春陽会の仲間の画家が墓前に集まった、と中川画伯は書いていた。

 

 墓石には、恒友が慕った小川芋銭が恒友の事績を記した。

 

弘潤院謙山恒徳居士

   行年 五十三歳

   昭和八年四月八日歿

 埼玉縣大里郡玉井村大字久保島森田彦三郎三男に生れ畫を業とす

 大正三年歐洲に遊び歸來技益進み近年好みて淡墨平遠の風景を作る

 觀者讚嘆して新南畫と云ふ

 

   遺言に由りて骨を分ち此地に埋葬す

    知友芋銭子記す

 

 梅雨前とはいえ、墓石は強い日差しが照り返していた。

 

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    西洋留学で、セザンヌドーミエに刺激を受けて帰国した恒友は、日本の風景を水墨画で描き始めた。世間からは、洋画から日本画へ転向したと見られた。

 

 中川はこう書いていた。

「恒友は、水墨乾墨という二つの言葉を作って用いはじめた。/日本画を描いていますかと素人でなしに画家が聞く時には、恒友は潔癖に人に気に障らぬような言い方で水墨と言いかえた。/水墨とは墨絵である。/乾墨とはコンテである。/恒友は、乾墨を用いて写生をすることから水墨の仕事に入ったのである。恒友の水墨は、(鉄斎のような)胸中山水乃至書画一致の道ではない。/写生の道である。」

 

 水墨、乾墨と和洋で違っても、自然と向き合う「写生の道」は一貫しているのだ、と恒友は強く思っていたのではないか。

 

 水墨画の芋銭は、墓碑に「近年好みて淡墨平遠の風景を作る。觀者讚嘆して新南畫と云ふ」と記した。

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  知友の小杉放菴は、平野人と称した恒友の淡墨について、「アトリエ森田恒友追悼号」(昭和8年)で、こう書いていた。

「時とすると、平野人の平野の図に、限りなき遠さの平野を見た、日本の風景に相違なくして、地理的小国日本には、こんな幽遠なる野は有り得まい、と思ふほどの遥けさ遠さ、若干の凄さ、それがあの人の芸であり詩であったらう」(平野人の水墨)

 

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 墓石の「森田恒友」の刻字は、やさしい筆記だった。誰が書いたものなのだろう。恒友本人の字なのだろうか。

 

 恒友と身近で接した12歳年下の中川画伯は、「恒友は形というものの目立つことを、自分というものが極立つということをおそれたというより卑しんだ」と思い出を語っている。

 目立つこと、出しゃばることを好まなかった画家らしい、墓石であった。

 手を合わせて、大急ぎで車に戻った。