蛙の装幀

 五輪女子ボクシングで金メダルを獲った日本の大学生が、「カエル」が好きだというので興味を覚えた。

 長塚節「土」を調べていて、昭和16年に改版された春陽堂の単行本の表紙が「蛙」の絵に変わったのに気づいたところだった。装幀、絵は平福百穂とも縁のある画家中川一政だった。

 

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 明治45年に豪華な装幀で「土」を出版した春陽堂だったが、大正12年の関東大震災で本社が倒壊する被害にあった。

 他の出版社も打撃を受け、震災後の復興を目指す出版界は、改造社が円本ブームで先鞭をきり、春陽堂も文庫本を発行し廉価本へ舵を切った。

 戦時色が濃くなった昭和16年に改版された「土」は、斎藤茂吉の序も加え、小説の内容に即し、落ち着いた茶(土の色)の蛙の絵の装幀に衣替えしたのだった。

 

 蛙の描写は、「土」の6章の初めに出てくる。

 

紺の股引を藁で括って皆田を耕し始める。水が欲しいと人が思ふ時は一斉に裂けるかと思ふ程喉の袋を膨脹させて身を撼がしながら殊更に鳴き立てる。白いやうな雨は水が田に満つるまでは注いで又注ぐ。鳴くべき時に鳴く為にのみ生れて来たは苅株を引っ返し引っ返し働いて居る人々の周囲から足下から逼って敏捷に其の手を動かせ動かせと促して止まぬ。がぴったりと聲を呑む時には日中の暖かさに人もぐったりと成って田圃の短い草にごろりと横に成る。更にはひっそりと静かなる夜になると如何に自分の聲が遠く且遥に響くかを矜るものの如く力を極めて鳴く。雨戸を閉づる時の聲は滅切遠く隔ってそれがぐったりと疲れた耳を擽って百姓の凡てを安らかな眠りに誘ふのである。熟睡することによって百姓は皆短い時間に肉体の消耗を恢復する。彼等が雨戸の隙間から射す夜明の白い光に驚いて蒲団を蹴って外に出ると、今更のやうに耳に迫るの聲に其の覚醒を促されて、井戸端の冷たい水に全く朝の元気を喚び返すのである

 

 田植えに精出す農民の近くで、声援を送るかのように鳴く蛙を描いている。

 「『土』の六の一は、蛙の描写故ゆっくり御一読被下度希望仕り候」(明治43年6月29日付、胡桃沢勘内宛)と、新聞掲載中に長塚は、筑摩在住の歌人に手紙を書いている。

 

 中川一政画伯の蛙は、鳴く蛙ではないが、愛嬌を失わず逞しい姿で描かれ、見事である。

 

 話を初版の装幀に戻すと、「長塚節全集 第7巻」の書簡2には、長塚の装幀に対する熱い思いと、自分なりの強い要望が伺える平福百穂宛の手紙があった。

 長塚の注文に、装丁者百穂も手を焼いたのではなかったか、といささか同情した。

 

 要望を要約すると。

 

  • コッテリとしたデザイン

  装幀意匠は「成るべくコッテリとしたものを希望仕り候」。「自叙伝の表紙のやうに、色彩が如何にも引き立たず影うすき感じのものにては、どうも心持悪くて仕方なく候」

 

漱石さんの「門」は背にばかり文字を現はして、表面には一字も無之候由、意匠次第にて此も面白かるべき存ぜられ候」

 

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  • 作者による題字

「近来作者自身筆を執ることも流行のやうに候へば、時宜よっては小生認(したた)め候ても宜しく候」

 

  • 金字の華やかな背表紙

 「近来籾山(書店)から出るものは背を思ひきってはなやかにして、そこへ金字で現はし候が、それも御参考被下度候」

 

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「門」の装幀は、橋本五葉(漱石の「猫」から「行人」まで装幀)が担当した。明治44年に発行された籾山書店の「刺青」の装幀も、橋本五葉。長塚は、なんと、アール・ヌーヴォー調の五葉の装幀がお気に入りだったのだ。

 

 結局、春陽堂の意向に沿いながら、百穂は百穂ならではの装幀を完成したのだった。

 

 出来上がった本の感想を、長塚は手紙で百穂に伝えている。

 

「扉の如きは色の配合極めておもしろく存じ候 表紙は本屋がもっと銭をかけ候はば引立」っただろう。しかし「小生には此だけにて近来出色のものとして十分の敬意と満足とを表し申候。古泉君(千樫)から葉書参り、箱の赤きものも枇杷の色も表紙も扉も何もかもうれしき由申来り候 小生も嬉しく存じ申候」

 

 満足をし、感謝しているのだった。長塚が生きていたとしたら、一政の装幀についてはどう思ったろう。