魚藤の「李白一斗酒詩百篇」

 取手の川魚料理の魚藤は、地元の水墨画家の小川芋銭ばかりか、春陽会の画家たちが好んで集まるいい店だったようだ。

 店での画家たちの集まりには、船頭の総元締の刀水漁郎のほか、説教節を歌う染太夫が同席することがあった。染太夫については詳しく分からないが、おそらく茨城に縁がある説教節「小栗判官」をよくしたのだと想像する。利根川に船を泛べての中秋の名月の月見では、舳先に染太夫が座り、「月光の下で義経の道中を語った」と、中川一政は「遠い顔」で書いていた。

 

 川魚料理とともに、鴨猟やら説教節やら、利根川縁の風土ならではの店だったように見える。

 洋画家中川一政が描くところでは、あけ放たれた階下の座敷に

李白一斗酒詩百篇

と、芋銭が書いた雄渾な幅がかけられていたという。杜甫「飲中八仙歌」の中の「李白一斗詩百篇」なのだろうが、「酒」の一字が多い。一政の勘違いか、芋銭があえてそうしたのか、今となっては分からない。

 詩人の李白は1斗の酒を飲むと、百の漢詩を作った、という句は、画家たちが集って作品を生む場所となった旗亭「魚藤」に、ふさわしいものだ。

 

 魚藤に屯した刀水漁郎は、東京・永福町の一政宅にも現れた、と書いている。「私の家へも利根川の魚をもって汗を拭きながら訪ねて来るようになった。色紙や畫帖を置いて行った」。

 芋銭が「絵に力がある」と一政を褒めたので、絵を描いてもらいに、杉並まで遣ってきて、色紙、画帳を置いていったのだった。

 手土産は、利根の川魚ばかりでなかった。「刀水漁郎から芋銭の扇ももらった。横向きに柿本人丸を描いて、

古人不見今日之月と賛があった」(「遠い顔」)

 

 芋銭もねだられていたのだった。李白の詩「把酒問月」の「今人不見古時月」をもじり、月の歌を作った人麻呂を絵に添えたのだろうか。(天の海に雲の波立ち月の船星の林に漕ぎ隠る見ゆ)

 

「宮君(刀水漁郎)近来字だの何のとねだりごと多く、仙厓ならぬ迂生いささか閉口の処、ぽっくり死なれてさすがに拍子ぬけした形。淋しさ日に日にせまり候」。

 同年生まれの知友の死に、芋銭は、ねだられた日々もまた貴重な時だった回想している。

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 晩年の小川芋銭(津川公治「畫聖芋銭」から

 

 刀水漁郎のあと、恒友、百穂、染太夫を送った芋銭は、昭和13年正月風呂場で脳溢血で倒れた。新築の画室に病臥し、創作、旅行もままならぬ身となった。

 芋銭は「どこも悪いと言ふのではないが、淋しい。淋しいと云ふことは、こんなにつらいものでないと思って居たが、淋しいといふことは、つくづくとつらいことだ。苦痛と云へば病気より淋しいことであらう」と病床で話していたという。(「畫聖芋銭」)12月に静かに息を引き取った。

 

「芋銭と月見の晩に洞庭湖の話をしていた恒友が先んじて亡くなり、染太夫も亡くなり、芋銭も亡くなった」。一政もまた、「魚藤」での仲間たちとの楽しかった時間が永遠に終わってしまったことを嘆いた。