未乾と泣菫と猫の蔵書票

 

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 船川未乾画伯が創元社の刊行物を集中的に装幀をした経緯を知りたくなった。

 同出版社を創設した矢部良策の人生を綴った格好の著作、大谷晃一「ある出版人の肖像―矢部良策と創元社」(88年、創元社)を見つけた。

 

 創元社は、大正14年(1925)、父・矢部外次郎が大きくした出版取次業等の福音社から、別個に良策が立ち上げた大阪の出版社だった。出版に消極的な父を説得しながら「文芸辞典」「水泳競技」と、堅実な刊行物で慎重な船出をしたのだった。

 

 良策が打って出たのが、昭和2年(1927)の尾関岩二「童話 お話のなる樹」の刊行だった。装幀を未乾が受け持った。未乾は、矢部良策のスタートラインに立ち会ったのだった。

 

一月七日に『童話 お話のなる樹』を刊行した。著者は新進の童話作家である尾関岩二で、(中略)大阪毎日新聞や大阪時事新報社に在籍した。船川未乾の装画を入れ、銀箔箱入りである。未乾は、若いが有望な洋画家だった」(上掲書)

 

「若いが有望な洋画家」とされた未乾がどういう経緯で起用されたかについては、残念ながら触れていなかった。

 ただ、この出版について大谷は「出版人としての良策の客気があふれる」と、高く評価している。採算度外視しても出したことを褒めているようだ。

 

 娯楽ものの出版で知られた大阪では、明治以来文化的な著書の出版は極めて稀だった。大阪の金尾文淵堂が刊行した薄田泣菫「暮笛集」(明治32年)が例外的出版として話題になったという。少年時代の良策は、「暮笛集」を手にして、自分もこういう出版をすると決意しており、この本は彼の夢実現の第一歩でもあった。

ところが期待に反してあまり売れない」「『お話にならない本や』/と外次郎がひやかす。」と大谷は書いている。

 

 だが、投じた一石は無駄ではなかった。責任を感じた尾関は、「売れ行き不振をつぐなう意味で同じ社の泣菫の本の出版を取り持」ったのだという。大阪毎日新聞の学芸欄に執筆していた泣菫を引っ張り出してきたのだった。

最近の随筆一切を集めて『猫の微笑』を、五月十五日に発行した。ようやく、泣菫の本を出せたのだ」。売れ行きは好調で、五日後には重版。「何万部かに達した。創元社としてはじめて、よく売れた」。(「猫の微笑」については、先に触れている)

 

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 明治44年、大阪の帝国新聞で仕事をしていた泣菫の下で、東京の洋画家森田恒友や織田一麿が仕事をしたことを前に書いたが、大阪毎日新聞に移った後、パーキンソン病を患い休職、昭和初めの泣菫は体を動かせない状態で執筆活動をしていた。

 

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 泣菫に助けられた良策は翌3年(1928)、再び冒険する。竹内勝太郎の詩集「室内」の刊行だ。先に書いた未乾装幀の著書がそうだ。

一月十日に、創元社は竹内勝太郎の『詩集 室内』を刊行した。竹内の友人の船川未乾や尾関岩二の口利きであった。竹内は京都に住み、学者や画家に知己が多いが、まだ世に広く知られていないうえに象徴主義の詩人である。出版は冒険であった。しかし、良策はそれに意義を見つけて気負うている。」

 

 竹内の詩集刊行に、未乾が骨を折ったことが記されている。

「未乾の装丁で、豪華な本になって竹内を喜ばす。」

 良策も未乾に満足したのだろう。京都で出版記念会を開いたことも書いてあった。

一月二十八日に京都ホテルで出版記念会を開く。良策は発起人で奔走した。志賀直哉、落合太郎、西山翠嶂、土田麦僊、榊原紫峰、津田青楓ら四十余人が出席した。出版記念会はまだ珍しく、各紙がこれを報じた」

 奈良に移住していた志賀直哉も顔を出している。

 

しかし、当然そんなには売れなかった

 翌4年(1929)元旦付で、創元社は、薄田泣菫の「艸木蟲魚」を刊行した。21版まで版を重ねる売れ行きで、普及版、携帯版も出したとある。

 

 「童話 お話のなる樹」  →   「猫の微笑」

 「室内」         →   「艸木蟲魚」

 

 泣菫の著書が経営的にリカバリーをして、生まれたばかりの出版社が救われたことがよくわかる。結果的に未乾、勝太郎も、泣菫に助けられていたのだった。

 

 泣菫のこれらの刊行物は、名越国三郎に装幀を任せている。大阪毎日時代から挿絵を頼んでいた間柄だった。(泣菫が未乾に関心がなかったわけではないことは、泣菫が未乾の作品を購入している事実から伺える)

 

 昭和3年に倒れた未乾は、同5年(1930)に逝去した。

 本棚にある昭和初期の創元社の本を探した。同4年「北尾鐐之助/近畿景観」があった。ぼろぼろの裸本であるが、創元社が装幀には力を入れていることが伺える。

 近藤浩一路の装幀だった。関東大震災で被災し東京から京都に移住していた画家だ。

 

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 船川が元気ならば、創元社のこうした書籍でも装幀を頼まれていたかもしれない―。

 そう思いつつも、近藤もまた2年後にパリに向かい、現地で個展を開き、作家アンドレ・マルローと親交を結び、彼の小説にも登場する人物になるのだった。

 

 夢をもっていた才能たちが、生まれたての創元社で交錯していることが分かる。短い命しか持てなかった才能たちに、私は知らず知らず心をひかれていたのだった。

 

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「近畿景観」には、かつて読んでいた人が貼ったと思しき猫のイラストがあった。蔵書票の代りにしていたようだ。よほどの猫好きなのだなあ、と感心した。