知恩院三門を舞台にした「織田信長」

 大正11年(1922年)京都の洋画家船川未乾は、京都商業会議所で個展を開いた後、4月に夫人と一緒にフランスに渡航した。

 京都ではこの年、龍谷大、大谷大、立命館大が大学設立の認可を受け、大学都市へと歩を進め、全国を回っていたフランスのクローデルが京都帝大で講演、改造社が招聘し大フィーバーを巻き起こしたアインシュタインも京都に滞在し、御所などを見て回った。

 鉄道省は「神まうで」(大正8)についで、この年「お寺まゐり」という観光ガイド本を発行し、大正時代に大都会に登場した新中間層を対象に、京都の寺院観光を宣伝推奨した。京都は明るい雰囲気が漂っていたように推測される。

 

 私が興味を持ったのは、この年の10月1日、京都知恩院の三門で、300人近い出演者による大規模な野外劇「織田信長」が計画され、上演されたということだ。

 イベントの中心人物は、二代目市川左団次(1880-1940)。初代から明治座の座元を受け継ぎ、明治39年に左団次を襲名すると、9か月欧米視察。帰国後に歌舞伎の近代化を推し進めるとともに、新劇に参加。小山内薫自由劇場で翻訳劇を上演した。

 

 1922年のイベントは、明治座を売却後に左団次が所属した松竹の創業者大谷竹次郎が、出身地の京都を択んで一大野外劇(当時はページェントと呼んだ)を企画したものだった。総指揮小山内薫。松居松翁が脚本を書き、左団次が信長に扮した。出演者は左団次一座。

 

 私が興味を持ったのは、船川画伯が装幀した「心の劇場」に紹介されていた「友達座」を調べていたところ、創立メンバーの土方与志がこの野外劇にかかわって、当時のことを書き残していたからだった。土方は、小山内に助手を頼まれて「演出原案」を作成した。

 

 どんな野外劇だったか。土方の「なすの夜ばなし」(河童書房、1947)をもとに、再現してみた。

 

                戦前の知恩院三門と楼上(「華頂聚宝」から)

 

 メーン舞台は知恩院の「三門(山門)」(1621年建造の国宝=当時は特別保護建造物、日本最大級の木造二階建築)の楼上だった。三門から神宮道へ下る短い石段と、下ったスペースでスペクタクルが繰り広げられる予定だった。

 観客スペースは、道の向かいの広場を当て、柵、綱で舞台と仕切られた。広場中央に演出用のやぐらを立て、総指揮の小山内とともに、楽屋(周辺の小寺院)に出番を電話で知らせる役目の土方が陣取った。日曜日の日中とあって、広場は早々と埋めつくされていた。

   楽屋には、武士、騎馬武者、歩卒、仮装舞踊者に扮した200名余りのエキストラが控えた。

 劇は、

  • コーラスに続いて、黒い羽根の多数の大悪魔、小悪魔が、三門の下を廻って舞踊を繰り広げて始まった。終ると、客席はシーンとなった。
  • 次いで、三門の楼上に、左団次扮する織田信長がきらびやかな衣装で、家臣と共に登場した。左団次がセリフを披露した。「セリフは朗々と響いて、吾々のいるやぐらにもはっきりと聞えた。/ラジオもなく、マイクロフォンなど、まだない時代だ。私は、今も時々この時の事を思い出しては左団次の声量に驚いている」(土方、上掲書)
  • 下手から佐々成政の手勢が駆けつけた。
  • 三門の石段を、出演依頼した祇園稚児が数十人降りて来る。

 ところが、ここで、観客がなだれ込んできた。

続々つめかける観衆によって、広場の周囲に張りめぐらされた竹柵や綱が破られて了った。押しひしめいてわりこんで来る観客の波のために、遂に前の方に演技の余地を残して坐っていた観衆が立ち上がった。/佐々成政の手勢が下手寺院から仮装して踊り出たのが、観衆の中に捲き込まれて了う。/上手の楽屋外につないであった馬が観衆のどよめきに驚いて逃げ出す。祇園の稚児数十名が山門から石階を下りかけた時観衆は雪崩うって石段に押し上った。子供達の叫喚」(なすの夜ばなし)。

 

 演出のやぐらの上から小山内はメガホンで、土方も大声で群衆を制止しようとしたが、効果がなかった。

 

 この場にいた土方夫人の梅子もこんなふうに書いている。「あまりにも大勢の見物によって、広場に張り廻らしてあった柵がこわれ、見物人が野外舞台にどっと流れ込みました。馬が驚いてあばれ出す、お稚児さんは泣き叫ぶ、芝居はめちゃめちゃになってしまいました」(土方梅子自伝)

 

 芝居はここで打ち切り。「遂にこのページェントは、会場設備の欠陥、場内整理の不完全によって無残に踏みにじられて了った」と土方は振り返っている。「最後まで上演できたらすばらしかったのにと、与志も先生たちも残念でたまりませんでした」(土方梅子自伝)

 

 けが人については記されていないので、大丈夫だったのだろうか。観客数は、新国立劇場情報センターの「日本演劇史年表」に10万人と記されていた。

 

 土方夫妻はこの後、ドイツへ旅立ってしまった。演劇仲間の獅子文六も、船川夫妻の滞在するフランスへ向かった。関東大震災の前年のことだった。

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 昨年から、知恩院の三門は特別公開されるようになったようだ。極彩色の楼上内部で、釈迦如来十六羅漢(ともに重文)を拝観し、楼上から参道を眺め下ろせば、左団次が見た光景を想像することができそうだ。