「室内」未乾画伯の表紙絵

 船川未乾画伯が装幀した竹内勝太郎の詩集「室内」(昭和3年=1928、創元社)を手に入れることが出来た。やはり私には新鮮なものだった。

 

 本は、カバー表紙を欠いていたが、箔押しの表紙の迫力に驚いた。(カバーは、活字だけのデザインだった)

 

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常磐色」のようなグリーンの地に、「生成色」のような乳白色で鉢植えと敷物の地を取り、そこへ金箔押しで静物の輪郭を一気に打ち込んでいる。

 

 表面を触ればもちろん凹凸がある。画伯の持味である可憐さを失わずに、力強さが加わった装幀だと思った。

 

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 竹内勝太郎にとっては、5作目の詩集だった。「広辞苑」で知られる言語学者新村出が「題言」を寄せていた。

 

 竹内はそれまで、4つの詩集を出し、大正13年(1924)から毎回新村に献呈していた。すべて良しというわけではないが、新村は夏の旅行に携帯し、冬は炉端で愛誦してきたという。

「四つの集はもともと同君自身の試刷ともいふべき程の、あまりに素朴すぎた形と窺はれたものではありましたから、平素愛誦してゐた私からは、せめて一とほりの体裁に改装して世にあらはされてはどうかと、何度かお勧めして見たこともあります。」

 

 きちっとした体裁の本を出してはどうかと、新村は竹内に勧めていたのだった。

 

「竹内君が今度既刊の試稿と新作の諸編とから、精華を抜き来たつて一冊の選集を作り、それに「室内」といふつつましやかなゆかしい名をつけて、而もそれが創元社の矢部君の詩文を愛するの誠意に基き、更に詩人と親交のある船川画伯の意匠を加へて世に出されるまでに進んだといふ話を聞いて、こんな嬉しいことはないと思ひました」。

 

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 大正14年に大阪で「創元社」を設立した矢部良策は、昭和8年谷崎潤一郎の「春琴抄」でベストセラーを出し、同11年顧問に小林秀雄を迎え、同12年には創元選書を刊行、事業を拡大していくが、すでに創業時の手探りの中でも、充実した刊行をしていたことが分かる。

 興味深いのは、この創元社で船川未乾画伯が装幀に多用されていることだ。

 

 昭和2年 園頼三「怪奇美の誕生」、尾関岩三「童話お話のなる樹」、関口次郎「鴉」。昭和3年の「室内」を加えると、4作。同年、病気で倒れなければ、もっともっと装幀の依頼があったのだと思われる。

 

 創元社の矢部良策が船川画伯を買っていたということに他ならない。

 

「鴉」の装幀を私は見たことがないが、青空文庫でとある文章を見つけて、いっそう関心がわいてきた。

 岸田國士による書評で、「戯曲集『鴉』の印象」(昭和3年、文芸春秋2号)だ。

「此の『鴉』一巻を手にして思ふことは、わが関口次郎の仕事はこれからだ――といふことである。(略)その辺で一と先づ息をついて、やれやれこゝまで来れば……と気をゆるしてしまふところを、あくまでも、もう一と息、もう一と息、と新工夫を積んでゐる。その姿がはつきり、此の一巻の中に浮び出てゐるからである。
 今日まで新劇の揺籃時代とすれば、次の時代は、かくの如き作家によつて始められるのであらう」と、本を評した後で、

「かかる時、戯曲集『鴉』の刊行は、誠に意義があると云はなければならない。/舟川(ママ)未乾氏の装幀は、此の紀念すべき著書を最もよき趣味に於て飾り活かしてゐる」と、未乾画伯の装幀に、異例の言及をしていたのだった。

 

 新しい洋画家、装幀家として、東京の第一書房長谷川巳之吉、大阪の創元社の矢部良策の心をとらえた船川画伯は、人気戯曲家の岸田國士の目にもとまっていたことが分かる。