園頼三が見つけた未乾の自画像

 大正7年(1918)8月、列強はロシアの革命政府に武力干渉し、日本も米国とともにシベリアへ出兵し、シベリア経由で脱出を図るチェコ軍を救出するために赤軍と戦った。

 国内では、シベリア出兵を見越して、投機目当ての米の買占めが発生した。米価が2倍に高騰し、8月に主婦、漁民が富山で暴動をおこし、米騒動は日本全国に広がっていった。

 京都でも暴動が発生した。先に記した「心の劇場」の訳者、京都帝大の高倉輝は、暴徒が群衆となって四条大橋を進むのを鴨川沿いの食堂で目撃し、学問に対する情熱を失い、厭世的になったと書いている。

 

  船川未乾画伯は、そんな時代の空気の京都で活発な活動を始めたのだった。翌19年8月、立命館大学で美学や哲学を講義し出した29歳の園頼三と詩画集「自己陶酔」を出版した。発行は「表現社」となっているが、住所は園の自宅。自費出版だった。

 

 園は「かうした私の身上に最も重大なのは親友だ、一緒に仕事をやらうと奨められた。恥を曝らすも諸共だと思へばこそ、では一緒にとまあ恁うした訳だ」と同書の「跋」で刊行の経緯を書いている。33歳の船川画伯が、園の背中を押したようだ。

 

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 ところが、画のほうが手間取った。船川は画をすでに用意していたが、直前になって「とてもこの集に入れる気がしないので、亦新しく書き初めた。けれども自分の満足した畫は一枚も出来なかった」と、「跋」で園の文章の後に記している。

 

 園の詩は出来上がり、製版所から催促が来た。雑誌「白樺」にこの詩画集の広告が掲載された。心配して船川宅にやってきた園は、スケッチ帖などに目をやって、日記に書かれた船川の自画像を発見。「載せてはどうかと云った。それで自分ものせる気に成ったので今までしまひ込んで有った画をほり出して二人で鑑別を初めた。(略)だからこの集に有る自画像も静物も殆どスケッチ帖に有った」ものだという。

 

 園の詩は19篇。船川の画は13点。目を通すと、園は「静物」にこだわっていた。船川が後年こだわって描いたのも「静物」だ。このころ、2人には「静物」に託した共通した思いがあったようだ。

 広辞苑で「静物」とは。「静止して動かないもの。自ら動く力のないもの。また、静物画の対象となるもの。」

 

 園は、「序に代へて」で、一本の樹木から静物論を展開していた。一本の樹木を見て、ある者は植物学的関心から何の木か考え、ある者は庭木として移そうかどうか考える、またある者は材木として幾らになるか考える。

 園の主張は「樹の身になって考へて見賜へ」。一本の樹のように「人目をひかぬ、情感を強ひぬ、自己の運命に身を任せてつつましく謙譲に、而もそれ相応の力に充てる至って平凡なそれやこれやの存在に向って限ない敬慕の情を抱」くことだと。そのような思いを持つことが、「私は確によい生活をしてゐると思ふ。近代洋画に現はれたる『静物』の精神の床しさよ。」

 舌足らずの表現なので、汲み取るのが難しいが、≪見た目の識別やら世俗的な価値でものを見るのではなく、ものが存在している、それ自体の意味に思い致せ。黙って存在しているものたちへの敬慕の精神が、西洋では「静物画」という形で表れされているではないか。≫と解釈してみる。

 

 大正9年には物価が高騰して京都も不況に襲われる。「出版界の打撃は特に甚だしく廃刊相次ぐ況を呈し」(「歴史と地理」大正9年5巻4号)と、京都の星野書店発行の学術誌は1年4円60銭から、5円70銭に値上げしている。そんななかで、彼らは詩画集第2弾「蒼空」を自費出版する。

 

 社会不安が広がる時代に、生き方を探していた若き二人が目に浮かぶ。雇ったばあやと暮らしていた園は、鹿ケ谷自宅の周辺を、風来坊のように一日二遍三遍と小犬を連れて歩くのが日課だったという。「縁」という5行の詩がその様子を伝えている。

 

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  縁

 

「おっちゃん犬どうしたの」

「うちにゐるよ」

 

一二度通った駄菓子屋のかど先

出て来た小供のしほらしさ

 

犬の取持つ縁かいな

 

  隣のページには、船川の描く、小犬と一緒に腰を下ろす人間の画。園の姿のように見える。竹内勝太郎、榊原紫峰との交遊に先立って、船川画伯は園との貴重な時間を共有していたようだ。