大正、昭和初期の京の洋画家船山未乾画伯装幀の本探しを続けている。
届いた「心の劇場」(大正10年=1921、内外出版)を手にして、装幀ともども本の内容にまた驚かされた。
同書は、京都帝大でロシア文学を学んだ高倉輝が、ロシア文学の戯曲、短編、詩編を翻訳したものだった。エウレイノフの戯曲、トルストイの短編、バリモントらの詩。私は初めて知るものばかりだった。
巻頭の戯曲「道化芝居」の前に、音楽家近衛秀麿の2曲の楽譜が4ページ掲載されている。その後に「友達座」の舞台写真が。
「はしがき」を読んでみた。
「『道化芝居』の舞台面及び近衛秀麿氏作曲の楽譜は一九一八年九月友達座第二回試演として三島章道通隆両氏の渡欧送別紀念の為にプライヱェトに上場せられた折のもので、此の作者の作品が日本の舞台に登った最初の紀念として友達座の人人に請ひ受けて茲に掲げる事とした」
エウレイノフ「道化芝居」は、友達座によって初演されており、翻訳の掲載に当たって、初演の資料を掲載したということが分かった。
友達座って何なのだろう。
内藤一成氏「大正デモクラシーと青年華族:三島通陽と劇団『友達座』を中心に」(「近代日本研究」2012年、VOL.29)が参考になった。
1917年ごろ、演劇に関心を持った子爵の三島通陽(筆名章道)が、学習院学友の土方与志、近衛秀麿、実吉捷郎ら、それに弟三島通隆も加わって結成したものだった。華族の広い邸を借りて稽古、公演を行なった。同じ学習院から生まれた「白樺」より少し後輩たちの文芸、演劇活動だった。
内藤論文によると、1918年9月29、30日にエウレイノフ「陽気な死」を、三島の叔父村井弥吉邸の食堂と客間を使って上演している。タイトルは違っているが、内容から見て、これが「道化芝居」だったようだ。
通陽の日記によると、観客には、秋田雨雀、岸田劉生、山田耕筰らの顔もあり、柳沢保恵伯、柳原義光伯、佐々木行忠侯ら華族も鑑賞したという。
はしがきにある「渡欧送別紀念」というのは、同年12月のヴェルサイユ講和会議の全権委員の叔父牧野伸顕の随員として、通陽らが渡欧し、そのまま留学生活に入る予定だったことを指しているようだ。父の急死で1919年3月に中途で帰国。その後、再び友達座に情熱を注いだが、不足する劇団の女優を公募したことで、マスコミが飛びつき、恰好の餌食になった。
「痴態に耽る華族の公達」(毎日)と、各紙がスキャンダラスに取り上げたことで、宮内省宗秩寮が動き、異例の活動中止命令。劇団は同年9月、解散に追い込まれた。
大正10年(1921)刊行の「心の劇場」は、その2年前に消滅させられた友達座の活動を伝える貴重な資料を掲載したのだった。
「翻訳集の出版に関して異常な好意を示された成瀬無極氏園池公功氏三島章道氏近衛秀麿氏及び装幀に非常な苦心を払はれた船川未乾氏に対し深く感謝の意を表する」と高倉は書いている。
三島はこの翌年、後藤新平が結成したボーイスカウト「少年団日本連盟」の副理事長に就任。生涯ボーイスカウト運動に力を注いだのだった。
さて、船川未乾画伯が装幀を担当したのは、やはり京都帝大の深田康算教授の推薦だったとみられる。高倉は同帝大で深田教授からギリシア語を学んでいたのだった。
青地の布に17個の白い円を並べた斬新な表紙は、よく見ると、17個の円を生地のまま残して、残り全体を青く染めたものだった。
中央の鳥は小さくてよくわからないが、扉を見ると、ごらんの通り、こちらになにかを語りかけてくるような動物なのだった。