知人宅に1週間前息子夫婦とともに訪ねた時のこと。庭に、水仙が見事に咲き誇っていた。5か所で群生していた。明るい黄の水仙。白い花も少し交っていた。
夫人に伺うと、「植えたわけではないのですよ。どこからか飛んできたのでしょうかね。今年は、こんなに増えだしたのです」
明るい水仙。ご主人が生前、一家で過ごしていた英国の事を思い出しワーズワースの詩を思い出した。
「I wandered lonely as a cloud」水仙を歌った彼の代表作。「水仙」と日本ではタイトルになっている。
こんな具合に始まる。田部重治の訳(岩波文庫、1966年改版)でー。
谷また丘のうえ高く漂う雲のごと、
われひとりさ迷い行けば、
折しも見出でたる一群の
黄金色に輝く水仙の花、
湖のほとり、木立の下に、
微風に翻えりつつ、はた、躍りつつ。
日本の水仙と違って、英国ウェールズの水仙は明るいのだと、明治時代の京都で一中学生が、ワーズワースの詩を知って驚いた逸話を思い出した。高木市之助氏(1888-1974)だ。
1907ー09年ごろ、京都御苑の東南、現在の富小路広場に建てられていた京都府立図書館を隠れ場所にしていた少年は、そこを出ると、寺町通りを南へ向かい、丸太町通りにある「前川といふ小ぎれいな本屋」で本を買うのを楽しみにしていたという。そこで手にした詩集「Selections from Poets of three countries」で、ワーズワースのこの詩に出会う。湖水地方の湖畔に咲く水仙の群落。ふらふらとダンスしながら、詩人の憂愁を慰めて陽気にする花を描いた詩に心惹かれる。
しかし納得できないことがあった、と「湖畔」(1950年東京書院、77年講談社学術文庫)に書いている。
「この詩の主題になっている、daffodilsについてであった。字引きを引くとこの語の訳は水仙となっている。」「水仙は当時私の母が祖母の命日などに仏前に供えた花だった。・・・霜雪に堪え万花にさきがけて咲く、節操そのもののような、清楚であっても、まことにかたくるしそうな」ものだった。それに引き換え、ワーズワースの描く水仙は「なんというふくよかな、またくつろいだ姿をしていることか」。
その後、英文学への道を閉ざして、日本の古代文芸の研究家になった高木氏は、大正13年(1924)英国に留学した。早春の晴れた日、ロンドン近郊のキウ植物園を同氏が訪問し、水辺に群生する待望の水仙と偶然出会うのだった。
「ベンチに腰を下ろして、対岸の汀に咲き乱れる一面のダフォデイルを見渡」す。「濃黄色の、あやめに近いほどの大きなそうして柔らかい花片を垂れている。」「か弱そうな花梗は、花を支えるに堪えかねてか、(中略)大きく前後左右に揺れてやまない」
これこそ、ワーズワースの黄水仙ではないか。「水仙」に出会ってから15年以上たっていた。
「吉野の鮎」「貧窮問答歌の論」など、記紀、万葉集の研究で知られる高木氏が、ワーズワースを終生追いかけているのも、興味深いことだった。
調べると、ニホンスイセンに対し、英など欧州の水仙はラッパスイセン(narcissus pseudonarcissus L.)だという。湖水地方のものはラッパスイセンの一種なのだろう。
知人の家の庭の水仙は、このラッパスイセンのようだ。日本でもこの水仙が繁殖しだしているらしい。明るく微風に揺れる水仙を眺めながら、道半ばで亡くなった知人を偲んだ。