五劫院の見返り地蔵と大仏殿の女人参詣

 見返り仏について探っているが、次に地蔵ついて整理してみた。

 日本の中世、どうして地蔵がクローズアップされたのだろう。

 どうやら日本製の経典(偽経)が大きく働いているようなのだ。

 まずは、地蔵を慕う老尼の姿を追ってみる。

 

 地藏は忙しく毎朝歩き回っている。それを聞き知った丹後国の老尼が、一目見ようと早朝に歩き回ったことが、13世紀初めの「宇治拾遺物語」に書かれている(1-16《尼、地蔵見奉る事》)。

 老いた尼は、「仏説延命地蔵菩薩経」の一節を知ったらしい。同経には、地蔵は毎朝、六道(天道 人間道 修羅道 畜生道 餓鬼道 地獄道)に出かけて、苦を除き楽を与えていると記されている。人間道でも朝方に探せば地蔵に出会えると思ったようだ。

 この話は、博打打ちがこの老尼を「じぞうにあわせてやる」と騙すものだ。この男は尼を、とある家に連れて行き、待っていろといって、報酬を手に去ってしまう。外から「じぞう」という名の子供が戻って来ると、尼は、本物の地蔵だと思い込みその場で満足顔で絶命した、というのだ。

 1052年、正法、像法の時代が過ぎ、世の中は仏の力がなくなる「末法」が始まり、地蔵菩薩だけが人間を救える、という考えが広まっていたことが、この話からも伺える。

 同経によれば、人は三途の川で地蔵を見、或は名前を聞いただけでも、天上世界や浄土に生まれ変わるのだという。末世になって、阿弥陀如来の役割を地藏菩薩が担っていると考える人も多かったろう。

 東大寺の北にある五劫院の「見返り地蔵」の石仏について考えてみる。永正13年(1516)の刻銘があることは前に記した。

 実は東大寺ではこの年4月、大きなイベントが開催された。8年前に焼失した講堂の本尊脇侍(千手観音、地蔵菩薩虚空蔵菩薩)の再造の資金集めのため、大仏殿内に女人の参詣を認めたのだ。散銭、寄付してでも、一目大仏を拝顔したい比丘尼衆生で長い列が出来たのだという。

 女人の地蔵信仰も力を貸したのであろう。焼けた講堂の地蔵はそもそもは光明皇后が日本で初めて造ったといわれていた。

 この企画が象徴するように、東大寺は荘園からの財源に頼れなくなり、新しい寺の運営方法を探っていたようだ。主要行事も、学侶、堂衆らが開催する法会「十二大会」から、大衆に開いた「追善講」へと移っていったのだという。

 この年、五劫院に造立された「見返り地蔵」は、東大寺僧恵順が菩提供養のため造立したと刻まれているという。東大寺の動きを反映する石仏なのだった。

 

 地蔵盆盂蘭盆、追善法要で大きな役割を果たす地蔵。東大寺末寺で、地蔵が「見返り地藏」の形をとっているのは大変興味深い。前に記したように東大寺東南院で学んだ永観の「見返り阿弥陀」を思い起こしてしまうのだ。

 

 さて、東大寺東南院を三論教学の拠点とした聖宝は、真言宗醍醐寺三宝院の修験道(当山派修験道)の祖であった。当山派修験道天台宗・聖護院派の修験道(本山派)としのぎを削りながら全国に拡大していった。東国では、1486年聖護院門跡の道興准后が本山派の拡大のため廻国したため、当山派修験道は圧倒されたが、やがて禅宗寺院(臨済宗曹洞宗)とともに巻き返しを図った。

 埼玉県東松山市の「見返り地蔵」の近くにある岩殿観音正法寺真言宗寺院であり、天正19年(1591)には、脇坊4寺とともに、修験の2院(正学院、正存院)があった記録がある。

「見返り地蔵」は、当山派修験道が行った追善供養で造られたものではないか。

 聖宝、永観の三論の教えのさざ波が武蔵国に届いていた、その証が「見返り地蔵」であると想像してみる。

 

 ただし、小川町にある見返り地蔵のある「龍谷薬師堂」が曹洞宗寺院である理由は未解決である。