もっと知りたい正福寺地蔵堂

 前回触れた東京都下、正福寺の国宝・地蔵堂について、もう少し調べてみた。

 地蔵堂は1927年の「再発見」後、鎌倉の円覚寺舎利殿(国宝)とともに、「唐様(禅宗様)」の2つの代表建築とされた。

 しかし、円覚寺舎利殿については、その後重大な発見があり、「五山建築唯一の遺構」という定説が、崩れ去ったのだった。

 

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 それをわが目で確認しようと、図書館で厚い本を借りた。「円覚寺史」(64年、春秋社)。禅宗史の大御所、玉村竹二氏(元東大史料編纂所教授)が、舎利殿鎌倉時代に建立された遺構とされてきたが、1563年の永禄の大火で焼失しており、鎌倉の尼寺五山の一、太平寺の客殿(仏殿)を移築したものだったと、帰源院所蔵の仏像胎内銘札、富陽庵所蔵「円覚什物等并雑記」、「円覚寺文書」、「新編鎌倉志」などの史料をもとに推察し、結論を出していた。

 円覚寺が新仏殿復興の記念事業として刊行した「円覚寺史」に、はっきり書かれているのだった。

 

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 舎利殿鎌倉五山二位の円覚寺の創建時(1282年)の建物でなく、西御門にあった尼寺五山の太平寺の仏殿だったということは、日本最古とされる「五山建築の唯一の遺構」が否定されたことになる。玉村氏は「現存のものは、従来信ぜられゐたやうに中世以来その位置に存続した遺物ではなくなることになるのである。若しさうだとすれば、これは一応建築史の新課題とならう」としている。

 

 太平寺は、東慶寺などとともに、鎌倉の尼寺五山の一で、房州の里見義尭が1526年海上から鎌倉を襲撃した際、太平寺の住持青岳尼を拉致し上総に連れ去り、同寺は廃墟となったと伝えられている。本尊の観音像は東慶寺に移されており、仏殿は東慶寺と近親関係にある円覚寺が大火の後に目を付けたことになる。

 

 伽藍の規模は、五山と尼寺五山は大きく違う。舎利殿の建築史上の位置が再考されることになった。

 

 実は、前に書いた1956年春号の「武蔵野」で、地蔵堂を調査した建築史家の田辺泰氏が、稲村坦元氏との対談で、興味深いことを語っていた。

 田辺氏は円覚寺を調査した経験を持つが、舎利殿円覚寺創建時のものではなく、時代が下ったものではないか、と推論していたのだった。

舎利殿そのものの建立年代がはっきりしません。(略)円覚寺に泊りこみで実地について調べたりしたんですがどうもはっきりしない」「舎利殿禅宗七堂伽藍の規格の外にあってどうも一緒にできたものではないらしい」

 創建後、20年経った正安年代の建立ではないかと、一応の推論をしたが、その後の玉村氏がたどりついた「移築」は想定外だったようだ。しかし、舎利殿を「禅宗の七堂伽藍の規格の外」の建物と指摘、確かな目を持っていたことが伺える。

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 さて、地蔵堂を、円覚寺舎利殿の新知見で、見直すとどうなるのだろう。

 

 地蔵堂は、昭和8年に修復が行われた。文部省の大瀧正雄氏が監督技師となり、奈良市生まれのベテラン宮大工、吉田種次郎氏が出張して腕をふるった。吉田氏は、法隆寺南大門、西円堂細殿、東院鐘楼の修復を手掛けている。

 

 修復という行為は、簡単でないことが今回分かった。元の形をどうイメージして、復元するのか。それによって、修復の方法、結果が大きく変わる。HPで、建築史学者の青柳憲昌氏の論文「昭和戦前期における「唐様」概念の変容と禅宗様仏堂の修復」(2013年、日本建築学会計画系論文集第78巻 684)に行き当たった。

 鎌倉時代に広まった禅宗様(唐様)の建物は、明治から修復が行われてきたが、修復の仕方は、その時代の「唐様」の捉え方で、変化してきたというのだ。

 自分流に咀嚼すると、「唐様」は、1)すくっと立ち上がるような垂直性を感じさせ、2)各所に曲線を用い、3)無彩色である、というのが特徴とされる。

 吉田氏は当時の「唐様」のイメージに沿って、舎利殿を手本にして地蔵堂を修復したのだった。

  舎利殿と同じように、妻飾を変更し、長押を撤去し、「発見」時になかった弓欄間(弓のような連続模様がある欄間)を新たに加えた。さらには、茅葺の屋根を「柿葺(こけらぶき)」に変えた。木の薄板を重ねる柿葺は、曲線を強調でき、優美な屋根のシルエットを作ることができる。舎利殿も茅葺だが、柿葺によって、屋根の勾配を緩め、さらには棟反を付けて、吉田氏の「唐様」のイメージに近づけたのだった。

 

 「こけら葺のため屋根が軽快です。非常にきれいでスマート過ぎるくらいです」と、田辺氏は修復後の印象を述べている。美しい地蔵堂は、こうして生まれたのだった。

 

 正福寺地蔵堂は、修復の際に、室町時代の1407年の建立を示す書き付けが発見された。今では、円覚寺舎利殿の方が、地蔵堂を参考にして、建立年代を1407年前後とされるようになっていた。

 

 尼寺から移築された舎利殿と、舎利殿を参考に「化粧」が施された地蔵堂と、2つの国宝は、室町時代の様式を伝える美しい「双子の姉妹」のように思えてきた。