折れた板碑のたたり

 東京都の国宝建築物、地蔵堂のある東村山市の正福寺境内には、秩父青石(緑泥片岩)の大きな板碑が小堂に納められている。

 

 この板碑も、昭和2年に地蔵堂を発見した郷土史稲村坦元、建築史家田辺泰の両氏が関わっていた。

 

 稲村氏は当時、地元で農業を営みながら文化財調査をしていた遠藤若次郎氏の協力を得て、中世の板碑を探索していた。正福寺地蔵堂を発見した時も、近くの徳蔵寺の石碑を訪ねるのが目的だった。

 

 稲村氏は、近くを流れる小河川「前川」の川底に、板碑が埋もれているのを知り、田辺氏とともに掘り起こすことを決心した。3㍍近い長さ(高さ)で、元は前川にかけられ、「経文橋(けいぶんばし)」と呼ばれていた。牛が通った際に折れてしまい、川底に落ちたとのことだった。

 

 発掘にあたり、遠藤氏は、地元に伝わる「たたり」を心配していた。この石に手を付けるとたたりがあるので、そのまま川底に放置してあるという伝説だった。江戸時代文化文政年間に編集された「新編武蔵風土記稿」にも、板碑を動かすと、悪疫が流行したので元通りに埋めた、と記されていた。

 

 遠藤氏の情報を参考に、両氏は地元以外から人手を集め、石を引き上げる作業を行い、正福寺に運んだのだった。貞和5年銘(1349)の立派な板碑で、高さ285㌢、幅5Ⅰ-58.5㌢。板碑では最大級のスケールだった。釈迦如来の種子(梵字)が月輪に収まり、下に立派な蓮座が彫られている、中世東国で流行した逆修塔の板碑(生前に自分の死後の菩提を祈願して造る石造品)だった。

 

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「掘ったのは春でしたが、夏になるとえらい騒動がもち上がったのです。(遠藤氏が)私のところに飛んで来て『大変なことになった。先生は当分東村山に来ないでくれ』というんです」(田辺氏)

「今、村に赤痢が流行り出したが、これを経文橋を掘ったたたりだといって村の者が騒いでおるから、先生が来るとあいつが掘ったんだということで危ない」というのだった。

 罹患したのは数人だったが、橋のあった地域外では患者が出ていないため、石のたたりに違いないと、役場や警察に、一部の村民が、板碑を元へ戻せとねじ込む騒ぎが起きていた。

 

 田辺、稲村両氏は素早く対応した。付近の三寺の住職に集まってもらい、板碑供養の施餓鬼をとり行った。府の嘱託として活動していた稲村氏は「東京府知事の祭文」を作文し、知事の代読という形で読み上げるパフォーマンス。その後も講演会を開き、正福寺地蔵堂とともに、板碑がいかに重要な文化財か説明したという。

 赤痢が収まったこともあり、騒ぎは沈静化したのだった。

 

 ただ、地元の遠藤氏は、この件の後、精神的に病んでしまって、ほどなく50代で亡くなった、とのことだった。

 

 国宝の地蔵堂ばかりでなく、東村山市指定有形民俗文化財の板碑もまた、語るに値する来歴があり、発掘、発見に携った人の苦労があるのだった。

 

 以上は、対談「正福寺をめぐって」(「武蔵野」1956春号)で語られている内容をもとにした。