吉祥寺の健脚版画家


 正福寺地蔵堂が掲載されていた「武蔵野1956年春号」には、東京・吉祥寺で暮らしていた版画家・織田一麿への追悼文が、考古学者後藤守一によって綴られていた。同誌の発行者の後藤が、織田に随筆を依頼に行き、豊富な話題に引き込まれた思い出や、奥多摩御岳の渓谷に咲く「エンレイソウ(延齢草)」を一緒に採りに行く約束を果たせなかった後悔を書いていた。

 翌号の1956年夏号は、「織田一麿・追悼号」(表紙の絵も織田画伯)として、武者小路実篤亀井勝一郎石井柏亭らが、追悼文を寄せた。

f:id:motobei:20210531142818j:plain

 昭和6年吉祥寺に住いを定め、画業の他、武蔵野の昆虫、野草の採集に精出し、「土の会」という地元有志の会を立ち上げていた織田は、「武蔵野」を発行する武蔵野文化協会のメンバーも、一目置く存在だったようだ。

 

 おどろいたことに織田が、私が関心を寄せている画家の森田恒友と、縁の深い版画家であることが、追悼号掲載の「織田一麿年譜」で分かった。恒友が石井柏亭山本鼎らと明治40年に発刊した創作版画誌「方寸」に、織田は遅れて同42年から同人となって参加していた。

 44年に恒友が大阪の帝国新聞社(薄田泣菫が文芸部長)に入社した際、一緒に織田も入社したのだった。

 

 慌てて、恒友の年譜とすり合わせると、

「1911年(明治44年)四月、帝国新聞社(薄田泣菫が文藝部長)に入社、大阪府西成郡勝間村一〇九四-一(現・大阪市)の帝国新聞の社宅に住む。織田一麿が二軒隣に住む。(織田一麿『アトリエ』1933.10)」とあるではないか。

 

 当時30歳の恒友、29歳の織田は一緒に大阪の新聞社に入社し、ともに社宅で近所住まいをしていたのだった。二人は、翌年には新聞社のゴタゴタがあって退社し、恒友は洋行の準備に入り、織田は、中山太陽堂広告部(現・(株)クラブコスメチックス)に入社したが、長続きしなかったようだ。

 

f:id:motobei:20210531142719j:plain

 

 作風に共通点もなく、その後交流も疎になったのだろうか。織田は大正5、6年、「東京風景」「大阪風景」と、石版画を精力的に発表する。追悼文で、柏亭は「方寸」同人の頃の、織田の技法を振り返っていた。自分や山本鼎平福百穂が石版を手掛ける時は、砂目石版だったが、織田は砂目を立てず、石版石を磨きあげた上に描く「磨き石版」を主張していた思い出だ。

 

f:id:motobei:20210601174248j:plain

  織田一麿≪自摺石版画全作品集≫(74年、三彩社)。表紙の絵は昭和2年「水亭夜曲(中央)」

 

 織田は北斎を研究し、その著作もある。

 吉祥寺に移住した2年後の昭和8年からは、山歩きを始めた。

 追悼文で娘さんは、73歳で逝去するまで、歩き回る父親像を書いていた。

 

「往年親交のあったフランス人から習ったとかで「僕の歩き方はハクライだよ」と、ともすると自惚の種になっただけ、その歩き方には特色があった。膝を曲げずに、腰で身体を運ぶやうな、見るからに楽しさうな足どりであった」

「戦前、私の幼い時分は、昆虫、植物の採集、登山、古本集め等に凝って、雨が降らうと、風が吹かうと、借金が有らうと、ガスが止められようと一切おかまひなくテクテク出かけては夜帰って遅くまで標本を作ったり、目録を作成したり」

 戦後も、吉祥寺の家から、「朝食が済むと何処かへ出てゆく習慣が始まったが、以前とは異り、何の目的も持たず、ただ歩くことを楽しむために出かけるやうになったのである。従って降らうが、照らうが必ず出てゆく。さうして夕方、日が暮れる頃ユラリユラリ帰ってくるのである」

 

 恒友は、山の人でなく海の人でもない、関東の平野で生まれ育った「平野人」として自覚するに至り、澄明な境地を追い求めて、平野を訪ねてスケッチに励むようになったが、若き頃の同僚の織田は、生涯通して毎日歩き続ける暮らしを続けていたのだった。老いてなお、朝から晩まで、吉祥寺の街や武蔵野を歩いて過ごす、超俗的ウォーキング生活は、興味津々である。

 

 実際、自分は事務所通勤のない日、一日中、外出して時を過ごせるだろうか。それも毎日であり、風雨の日もである。老いくる身に、大変興味深くも、謎めいている健脚版画家の暮らしである。