芭蕉堂の花供養

 京都東山の真葛が原にある芭蕉堂は、天明7年(1787)刊行の「拾遺都名所図会」に、大雅堂などとともに紹介され、絵の右隅に小さく描かれている。

 

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 俳人の高桑闌更が天明3年(1786)、西行芭蕉ゆかりの地、双林寺の境内に自ら庵を構え、芭蕉堂を建てた。同6年3月12日から、芭蕉堂で「花供養」の催しを始めたのが、話題になったのだろう、こうして「図会」で早々と紹介されている。芭蕉堂には、芭蕉像が安置された。

 

 第1回花供養には、芭蕉の遺志を継ぐ俳人が、対馬など全国各地から参集した。(舞鶴市郷土資料館・糸井文庫の史料による)

 京は、天明8年(1788)に大火に見舞われ殆どが焼き尽くされたが、幸い真葛が原は被害なく、参加は年々増え1000句を超える賑わいとなっていった。

 京に住む西村定雅は初年に「迷ひても世は面白き桜かな」の句を奉納。富土卵は、寛政2年に「欲ふかき人の出る日や花ぐもり」を作り、以来花供養に参加している。

 

 始まって間もない寛政2年(1790)を見ると、伊勢から14人、若狭から24人、能登から17人、石見から12人、長州から13人、奥州から5人と、地方から続々と参集していることが分かる。

 三条通御幸町にあった菊舎太兵衛の「蕉門書林」が、「花供養」で奉げられた句をまとめて刊行し、彼らから掲載料を取った。それが、芭蕉堂の運営資金に回ったのだろう。

 時代は下るが、天保ごろと思われる菊屋平兵衛の湖月堂の花供養の案内文書には、掲載料が出ていた(糸井文庫の史料)。発句なら金一朱(小判1両の8分の1)、歌仙なら南鐐五片(二朱銀5枚=一両の8分の5)。表(歌仙の表6句のことか)は、南鐐一片とある。

 芭蕉堂は春(花供養)、秋(月の舎、10月12日芭蕉忌)と年2回芭蕉を偲ぶ会を開催しているので、資金はかなり集まったと想像される。

 

f:id:motobei:20220121192753j:plain 闌更

 

 芭蕉没後、江戸中期から地方で育っている蕉門の俳壇が、芭蕉堂の催しを支えたのだろう。

 私は、地方での蕉門俳壇の形成に、伊勢の御師が一役買ったということを、菊池武氏「近世における俳諧師と遊行家~特に北陸地方での安楽坊春波法師の活動について」(印度学仏教学研究44)で教えられた。

 

 伊勢の御師は、各地に飛んでは、「伊勢講」を組織。伊勢参りの計画を立て、伊勢では自分の宿坊に迎え入れて、参詣の世話をした。平安時代の熊野詣以来の、御師のシステム。現代の旅行代理店のようでもある。

 

 同氏によると、伊勢の御師は地方の檀那回りをする際、俳句の指導もかねたという。「(伊勢の御師が)俳諧指導を兼ねたという事実は伊勢派の乙由麦浪父子に見られるように決して珍しくなかった」。

 とくに、伊勢山田の御師の手代だった安楽坊春波(幾暁庵雲蝶)は、蕉門美濃派の各務支考(あの、不猫蛇と悪罵された)に俳句を学び、上記の乙由に随って地方を回り、やがて独り出家剃髪の姿で俳諧行脚した。西国、九州、四国を回り11年間で「八百余人の門人」を作り、帰郷後、京、北陸と8年間巡り、「入門盟約の徒二百有余人」に及んだという。

 

 伊勢講の御師のノウハウを、地方俳壇の組織作りに活用したのだろう。乙由、春波の伊勢派と、支考の美濃派の俳壇拡張の理由はここにあったのではないか。

芭蕉の没後伊勢派と美濃派俳壇が田舎蕉門と蔑視されながらも、庶民的に分かり易い『俗談平話』を以て中期以後、『ちかき年世上にはやり過、人のめしつかひの小者下女までもいたさぬといふ事なし』(西鶴織留巻三)と云はれる様に全国各地の大衆の中に広範に流行し、甚だ強固な俳壇勢力を結成していったのである」(菊池氏上掲論文)。

 

 地方門人の組織化のためには、芭蕉ゆかりのものが格別の効果があったのだろう。菊池氏によると、明和4年(1767)に、京の俳人蝶夢が大津の芭蕉墓の土を拝借して、自ら丹後宮津に運んで「一声塚」を作っている。その際、地元の俳人と句を奉納し、京の橘屋治兵衛から俳諧撰集を刊行した。

 同じように、寛政5年(1793)、丹後田辺に芭蕉墓の土を持ち込んで「烏塚」を作り、橘屋治兵衛が「烏塚百回忌」を刊行。俳人と板元が組んで事業を企画するパターンが見て取れる。

f:id:motobei:20220121192904j:plain許六

 芭蕉堂に戻ると、闌更が、蕉門の森川許六が桜樹で作った芭蕉像が芭蕉堂に必要だったわけが理解できるように思う。

 像は、彦根藩の許六が彫り、晩年芭蕉の世話をした俳人智月尼に、礼を兼ねて贈ったもので、同尼の没後、従者の尼が故郷の越に持ち帰り、農家、医師と所有者を点々としながら、闌更の門人の手に渡り、闌更のもとへ届けられた、と「名所図会」に書かれている。

 興味深いのは、別の伝で、宝暦年間の初め、あの御師出身の安楽坊春波が九州行脚の折、笈に納めて小倉に持って行ったとされていることだ。本当なら、一時は春波が所持して九州の門人組織化に、芭蕉像を活用したことになる。

 

 芭蕉堂につぐ、京・東山の西村定雅の俳仙堂の創建や、定雅が岸駒に依頼した芭蕉涅槃図の作成といい、同じような流れでみると、とても理解しやすい。

 

「許六刀芭蕉像」は、今芭蕉堂で見られる彩色像とは違い、6寸ほど20㌢にも満たない小さなもの。時々は公開されているのだろうか、芭蕉堂が所有しているようだ。