戯作者の瀧澤馬琴は、生涯1度だけ京・大坂を旅したが、その様子は翌享和2年(1802)「羇旅漫録」に記し、さらに漏れたものを「蓑笠雨談」(享和4年)に収めた。
滞在中に馬琴が会った京の俳人で人気洒落本作者の西村定雅(1744-1827)の名は、「羇旅漫録」についで、「蓑笠雨談」にも出てくる。
芭蕉堂のある東山双林寺で、寛政12年(1800)9月25日に開かれた「烟花書画展覧」の会の展示目録を同書に馬琴が写していて、出品者として定雅の名が記されていたのだ。
「烟花」は、花火でも春霞の景色でもない。花柳、遊郭だ。京・島原、江戸・吉原などの遊女の手になる書画、あるいは衣装や器など、ゆかりのものを展示する催しだった。俳諧の催しで知られた寺院の境内で開かれたことも興味深い。
展覧会には63品が出展されたが、そのうち定雅所有の確かなものが、6点ある。
1)書軸「吉原花扇之筆・安永年末ノ書」
吉原花扇とは誰か。寛政年間に、喜多川歌麿が浮世絵に描いた吉原・扇屋の遊女4代目花扇だった。「高名美女六家撰」と「当時全盛似顔揃」の両方で登場している。
面長で口は小さく、目も細い。残念ながら私には、他の美女との区別がつかない。ただ、「高名美女六家撰」の絵柄は、右手の指の間に筆を挟み、左手で掴んだ巻物に、思案しながら手紙を書くポーズが選ばれている。彼女の筆跡は評判だったようだ。
定雅の出品した花扇の書は、そういう意味でも価値あるものだったと想像できる。「安永末」年(1781)の書ということは、浮世絵が摺られた寛政年間(1789-1800)より10年ほど前。若き日の花扇の書を所有していたことが分かる。
歌麿が遊女花扇を描いた浮世絵の右上隅に、絵で「扇屋花扇」の名が。扇と矢、花と扇
2)画軸「寄生(やどりき)自画賛」
私には、見当がつかない。
3)巻軸「八千代小藤艶書和歌二巻」
「元文中遊女色帋短冊手鑑」
「宝暦中遊女手鑑」
初めのものは、八千代と小藤という遊女の和歌による艶書、つまりラブレターなのだろう。
後の2つは、元文年間と、宝暦年間の人気遊女の筆跡を集めてまとめた折帖のようなものか。アーカイブで別の「遊女手鑑」を見たところ、遊女の名を小さめに記した後、百人一首から自ら択んだ和歌を、奇数ページから裏ページにかけて、それぞれ特徴ある字で書いてあった。
4)器玩「西洞院廓饌具」
京には、各所に廓があったようだ。西洞院の東側にもあったらしい。そこで使われた食器を定雅は持っていたことが分かる。
さらに、西村氏ではないが、西邨氏所有とされたものがある。
器玩「印章二顆」
島原の吉野太夫の2個の印章。吉野太夫は2代目(1606-1643)が歴史上の人物として著名だが、10代目まで続いたらしい。寛政年間にはもう存在していなかったようだ。2代目のものなのだろう。
2代目吉野太夫といえば、太夫が好んだことで、名がついた吉野窓の丸窓が思い浮かぶ。印章にも拘りがあったろうから大変興味深い。
西村、西邨氏のほか、西邑氏所有のものが2品ある。長谷川長春遊女之図と元文中遊女手鑑。これらも、西村定雅所有の可能性がある。
この催しには、屏風3品、衣裳3品とそれらしい華やかな展示物もあったが、不思議なのは展示のなかでは、遊女たちの書がもっとも関心を持たれている様子であることだ。
現代の人気スターのサインのようでもあり、少し違うようにも思われる。私には、江戸時代の遊女、遊郭の世界と、それを取り巻く男たちのことがよくつかめない。
ただ、定雅が、花柳界に深く入り込んでいたことは間違いない。